中年男の大失態
「初めまして。千葉鉄男と申します」
両手で名刺を差し出し、絶妙な角度で頭を下げて見せた私は、世間が言う所のエリートサラリーマンだ。
青春時代の全てを勉学に注ぎ、国内最高峰の大学を主席で卒業した。
その後は一部上場企業に入社して、今日に至るまで昇進に昇進を重ねる快進撃を続けて来た。
今年で勤続20年。すっかり寂しくなった毛髪とは反比例するように、ぽっこりと腹が自己主張をするようになった。
そんな日本を代表する一流企業の管理職である所の私は、今、まさに人生最大の修羅場へ迷い込んでいた。
「見た事の無い字だな。これは何と読む?」
ハッキリとそう聞こえた。声の主は、私が名刺を差し出した外人だ。
訛りの無い綺麗な日本語を喋って見せた外人が、あろう事か日本語を見た事が無いと言う。
何とも不自然な話である。いや、不自然と言うならばこの場の全てが不自然だろう。
何を隠そう、私は満員電車の中に居るはずなのだ。
20年間通い続けた通勤快速で、いつものように屈強な肉壁にこねくり回されているはずなのだ。
しかし、目に映る光景は満員電車のそれでは無い。フランスあたりの王城を思わせる場所だ。
周りを固めているはずの肉壁も無くなっている。こねくり回されてもいない。
痴漢冤罪に怯える必要は無いが、そんな事を言っている場合では無い。
先ほどまで私は、花の都大東京に居たはずなのだ。
しかしここはどうだろう。日本人らしい顔つきをした人物は全く居ないし、スーツや学生服を着た乗客も居ない。
この場に居るのは、ブロンド髪に青い瞳をしたOLや、全身を甲冑で纏った学生、王様のような恰好をしたビジネスマンだ。
そして、このビジネスマンは日本語が読めないと言う。日本語を喋っていると言うのに。
『100桁そろばん』の異名を持つ私の頭脳も、この場では、ただ混乱するばかりだ。自身の置かれた状況が全く呑み込めない。私を出迎えたビジネスマンについ名刺を差し出してしまったが、ここがどういった企業なのかも知らない。そもそも、こんな奇抜な恰好をした連中と取引をする予定など無かったはずだ。
(何かがおかしい……)
ふと、私の脳裏に不吉な考えが浮かぶ。
(まさか、死んだのか? 事故か何かで……)
そう考えると辻褄が合うような気もする。そもそも、あの世なんてものは誰も見た事が無い世界だ。生前の私は、その存在すら信じてはいなかったが。
となれば、この王様のような恰好をした西洋人は、かの有名な『閻魔大王』と言う事になるのだろう。
見た目はどう見ても西洋人ではあるが、王様のような恰好をしている。日本に伝わる肖像画などあてにはならないものだ。
そうと決まれば、私が取るべき行動は限られているようだ。
「トヨハシ自動車 取締役 千葉鉄男と書いてあります」
嘘つきは舌を抜かれると言うが、閻魔大王の問いに答えなかった場合はどうなるのだろうか。興味はあったが、舌を抜かれるのも、下を抜かれるのも、地獄に落ちるのも避けたい所だ。
今は問いに答えておくのが無難だろう。
「何だそれは? 其方の世界の爵位か何かか?」
「そ、その通りでございます」
いや、まずいか? しかし、嘘じゃないはず。天下のトヨハシ自動車の取締役と言えば、それこそ貴族のような存在だと私は思う。
「何と。其方は異世界の貴族であると申すのか」
「き、貴族と言うか、いえ、その通りです……」
いや、その通りじゃない。貴族のような存在であって貴族では無い。貴族と言うか取締役なのだが、これをどう説明すれば良いと言うのか。
苦悩する私の心情など、微塵も察する事無く閻魔大王が口を開く。
「それで。其方はどのような魔法を得意としているのかな?」
「マホウ……?」
魔法と言ったか? 魔法が得意? 何を言ってるのか理解できない。魔法のような交渉術なら持ち合わせているが、おそらくそういう意味では無いだろう。
「どうした? どのような魔法を使う?」
本気の目をしている。閻魔大王は私に魔法を求めていると言うのか。この問いに答えられなければ、やはり私は舌を抜かれて地獄に落とされるのだろうか。それだけは、何としても避けなければならない。
しかし、魔法など知らないし、そもそも信じていない。それでも、この場を乗り切る事が出来るとすれば……
「い、痛いの痛いの飛んでけ!」
私は咄嗟に思い浮かんだ魔法を叫んでいた。しかし間違いだった。これは魔法では無く、おまじないだった。
自身の失敗に瞬時に気付いた私は、絶望していた。舌を抜かれ、悪くすれば下も抜かれた挙句、地獄に落とされてしまうのだと直感していた。
次の瞬間。
『ドガガガガガガガガガッッ!!!!!!』
巨大な隕石が天井を突き破って侵入してくる様子が見えた。
「な、何だ!?」
閻魔大王が驚いた様子で声を上げる。
『ドガガガガガガガガガッッ!!!!!!』
突如として出現した隕石は、閻魔大王の鼻先をかすめて床を貫き、通り過ぎて行った。
どうやら、大いに間違えたらしい。
「い、今の魔法は……」
動揺した様子の閻魔大王は、俺を直視している。
まさかとは思うが、今の隕石は俺のおまじないが呼んだモノだとでも言うのだろうか。いや、彼の様子を見る限り、間違い無さそうだ。
察した私は咄嗟に口を開いた。
「大変申し訳ありませんでした!」
超一流のビジネスマンである私にしかできないであろう、世界一美しい謝罪を披露して見せた私に返って来たのは、場を支配する重い沈黙だけだった。