激しい雨が降る
ノアは驚いた。何が起こったのか、すぐには分からなかった。それはある春の日、いつものように末息子のヤペテと共に畑を耕していた時のことだ。風のそよぎ、雲の流れ、土の響き、樹木の鼓動───全ての音なき音が一斉に凝縮して頭の中に飛び込んだようだった。
「ヤペテ、地響きだ」
彼はそう言って息子を振り返ったが、ヤペテは分からないというように肩をすくめた。
そしてまた、それは起こった。全ての静かなる音がより合い共鳴してノアの意識の中に奔流となって流れ込む。彼はその流れが渦巻きながら意味をなしていることに気付くまで、まだ心臓が十を打つほどの時間がかかった。それは神の啓示であると彼は悟った。
ノアの中に入ってきたものは言葉にすればこうである。
「我は人をしてその形を成さしめ、全ての命有るものの父にして創造主である。我は地の面に住まうもの全てを見、今こそ過ちを正し、汚れを根こそぎ滅ぼさんとするものなり。汝、ノアよ。終りの時は近い。故に汝は我の命じるままにせねばならない。まず、ゴーフェルの木を探しなさい。そしてそれで方舟を作りなさい。何故ならば我はこの地にかつてない大水を降らすからである。方舟は十分大きくなければならない。汝と汝が家族、そして全ての地を這うもの、空を飛ぶものを一つがいずつそれに乗せるがよい。その者らは生き延びるであろう。
これは七日の内に為されなければならない。七日の後には我は四十日四十夜地上に雨を降らせ、災いを為すであろう」
ノアは素直で信心深い男である。まわりの人々の誰もがそう認めていたし、彼自身もそう信じていた。だからこの啓示を受けたことのありがたさに彼が有頂天になったとしても何の不思議もない。白髭を生やし、頑丈な壮年の様をした彼は年齢にして六百歳を数えるが、直接に神の声を聞いた者は今まで見たことも聞いたこともないので、喜々として聖者と呼ばれる者の元へ駆け込んだ。
「聖者様、わたしは神のお声を聞いたのです。神はわたしを選んで下さいました。なんという喜びでしょう、なんという名誉でしょう!」
彼が聖者に神から伝えられたことを語ると、聖者は眉をひそめ姿勢をただしてこう言った。「それが本当に神であるのかは疑わしい。あなたが神の祝福を受けるに値する者であることを疑いはしないが、あなたに語りかけてきた存在が神であるとは限らないではないか。第一わたしにはなんの御告げもないのだ。神に仕える身としてわたし自身が神の言葉を聞かぬ限り、そのようなことは安易に信じるわけにはいかない。考えてもみなさい。あなたに語った者が神の名をかたる悪魔であったらどうします。これはあなたに与えられた試練に違いありません。よく考え、用心深く接しなさい。相手が悪魔であるかもしれないことを忘れずに」
それでもノアはどうしても自分が神の声を聞いたと言い張った。聖者は興奮する彼をなだめ、さとすように言葉を返した。ノアは神の言う汚れをここに見た気がした。この疑心暗鬼に捕らわれた聖者には真の神の言葉は聞き取れないのだと、そう知ったのだった。すると彼は聖者の身が哀れに思えた。彼もまたやがて来る大水に呑み込まれる一人なのだ。ノアは戸惑いながらも一人家へと戻った。
かつて神が世界を創造し、その最後のしめくくりにエデンの園にて人を作られたとき、神は人の生命の末路についてなんの制限も与えられなかった。故に人は生きたいだけ生き、なんらかの不幸な巡り合わせや病、そして他の者により死を与えられるか、自ら命を絶たない限り死に至ることはない。人にとって死とは避けられるものであり、そのため生まれてこのかた死に直面したことのない者は多い。それでも人の数はあまり増えず、緩やかな上昇傾向が見られるだけである。というのは彼らは二百年から三百年に一度ばかり子をもうけ、それも二三人もできるとそれ以上は望まなかったのである。
ノアにもまた三人の息子がいた。上から順にセム、ハム、ヤペテである。彼らは丈夫に育ち、嫁をとり、良い働き手となった。ノアは家へ帰ると妻と三組の息子夫婦を集め、彼の体験したことを語った。妻とヤペテ夫妻はノアの言葉を信じ、喜んで協力を約束したが、それでもこれからのことに不安を抱かずにおれなかった。ハム夫妻とセムの妻は半信半疑ながらも父に従うと決めた。ただセムだけは彼を信じなかった。
彼の言い分はこうである。
「父さんが何を信じ、何をしようと勝手だ。もちろん父さんが舟を作るというのなら手伝ってやってもよい。けれども、俺は神の言葉を聞いたの、洪水が起こるだの、そんなことは信じないぞ。神を否定するわけじゃないさ。父さんの頭がいかれちまってるってことさ。まあ、のんびりした人生だ。たまにはそんな馬鹿なことをしてみるのも一興ではあるがな」
これを聞いたノアは怒った。セムに不信心者と怒鳴りつけ、信じぬのなら以後わたしを父親と思わなくともよいと言い放った。セムは仕方なくこう言った。
「何も手伝わんとは言っておらん。しかし世間を見ろ。笑い者にされるだけだぞ。それでも俺は父さんの手助けはするが、それは父さんの言葉を信じたわけではなく、父さんの満足を思ってのことだ。俺は父さんを愛してるから。けれど、それ以上はごめんだ。できあがった舟の始末は勝手にやってくれ」
ノアは彼の言いぐさに憤慨したが、一方では感謝せずにはおれなかった。そして彼は寝床につくとき、聖者の言葉とセムの言葉を思い出し、自分が本当に畑で受け取った言葉を信じていいものやら疑ってみた。けれども、その疑いが神に対する冒涜でもあるような気がして、いたたまれなかった。もしこれが聖者の言う通り悪魔による試練であるなら、どうやってそれを見破るべきか。たとえ神であるとしても、それに頼りきってしまうことが本当に神の御心にかなうことなのかも判然としなかった。ノアはそんなことを頭から無理矢理追い出し、夜半過ぎになってやっと眠りにつくことができた。
次の日から忙しい日々が始まった。息子達のあるものは方々から材木を運び、次々と組み立ててゆく。あるいは綱や網を持ち、動物達を捕らえては篭や檻の中へ入れていった。ノアはできあがって行く方舟を重々しい気持ちで見上げながら、物珍しさに集まってくる群衆に向かって言った。
「皆さん、聞いていただきたい。貴方がたに自愛というものがあるなら、わたしに耳を傾けて下さる賢明さがあるのなら、どうかご自分の舟をお作りください。それがどうしても無理な人は幾人かなら私の舟に乗ることもできます。もうすぐ天から大水が降ってくるのです。そうしたらもう終わりなのです。どうにかして生き残る手段を掴んでください」
しかし群衆の中には一人も彼の言葉を真に受ける者はなかった。それどころかノアを笑い者にし、
「おまえさん、日溜まりで舟を漕ぎすぎて頭がおかしくなったんじゃねえのか」
などと野次を飛ばす者さえいた。ノアは涙ながらに訴えたが、人々はますます彼を嘲笑うだけでしまいには全くの狂人扱いをするようになってしまった。
そうして幾日かが過ぎたある夜、すっかり骨組みのできあがった方舟のそばに彼は独り座り、空を仰いでいた。最初に啓示を受けた以来、それきり彼の耳には一度も御言葉は届いていない。方舟はきらめく星々を遮るように黒く不気味にそびえ立っている。ノアはたいまつを持ち立ち上がった。ゆっくりと調べるように梁や柱を照らしながら歩いてゆく。艫のあたりにさしかかった時、柱の一つに目が止まった。何かが中途半端に切れたくもの巣のように柱に巻き付き、風に揺れている。近付き照らしてみると、それは朱色の紐の先についた小さな護符だった。それの意味するものは分かっていた。狂気の悪魔を祓う魔除けである。
ノアはそれを手に取り、しばらく見た後引きちぎった。そして足早に家に戻ると瓶いっぱいのとろりとした油を持って引き返し、それを方舟にぶっかけた。舟の骨はたいまつの火にてらてらと光り、油がゆっくりと涙のように地面のおがくずの中に滴り落ちる。ノアは意を決するとゆっくりと炎を舟に近付けた。
だが、彼の手は震え、やがて止まった。ノアは空を仰ぎ叫んだ。
「神よ! わたしの聞いた貴方の声が幻でないなら、もう一度わたしに語りかけてください。わたしには出来ない。何も出来ない」
しかし、神からはなんの返答もなかった。
「ああ、馬鹿なことだ。全てがぬか喜びだ。やめにしよう。死んだってかまうものか。いや、そもそも死ぬはずがないのだから」
そう呟いたノアは赤々としたたいまつを油にまみれた舟に放り投げた。
その時である。ものすごい突風が巻き起こり、たいまつの炎を吹き消してしまった。にわかに訪れた暗闇の中、命を失ったたいまつはノアの足下に転がる。そして方舟のぎしぎしときしむ音が意味をなして彼の意識の中へ流れ込んだ。
「我を信じざれば汝は他の者と共に死すのみ。道を選ぶは汝の自由なり。されど、我は命ず。信じるのだ。我の言う通りにするがよい」
ノアは胸がつまった。神を憎らしくさえ思った。
「何故です。わたしに何をお望みです。本当に地上は汚れているのですか? わたしには分かりません。わたしを友としてくれる人も、わたしをいさめてくれる人も、いやわたしを敵とする人でさえ、死に値するほど汚れているとは思いません。わたしは‥‥わたしは彼らを助けたいと思うのです。それは貴方の意志に反することなのですか。ならばそれは罪なのですか。教えてください。どうかわたしに賜った恵みを彼らにも‥‥‥」
「汝に与えた恵みとはいかなる意味か」
神の冷徹な声はノアの口をふさいだ。
「恵みとは何ぞ。死とは何ぞ。汝、何を知る。我が汝に語ることはない。ただ命ずるのみ。だが選択は汝にあり。方舟を滅ぼすも、方舟に乗り込むも好きにするが良い。ただ我は確かに約す。滅ぼせば汝も汝が家族も共に滅び、乗り込めば汝らは助かる。どちらを選ぶとも我が心を変えることはない」
焦げたたいまつの先がぼんやり光ったかと思うと七色の炎が燃え上がった。それをノアが拾う時にはもう普段と同じ赤い炎に変わっていた。彼はその熱を頬に感じながら言った。
「神よ、何故です」
けれども、いつまで待ってももう神の声は聞こえなかった。ノアにはもう舟に火をかける勇気はなかった。
その後、この世の最後の数日、ノアはもう世間のそしりも嘲りも気にしなかった。黙々と木を切り、木槌をふるって働いた。他人のことはもう考えてはいけない、自分は与えられた使命を全うしなければいけない、そう思い込むことにしたのだ。息子達はよく働き、六日目の夜にはもうすっかり舟は完成し、動物達や食料も全て運び込まれた。ノアは胸騒ぎがしてならず、家族全員に夜のうちに方舟に入るよう指示をした。
「俺にそんなことは言わないでくれ、頼むから」
セムは父親の腕を振り払って迷惑そうににらんだ。彼が家の中で熱い茶を飲んでいるところにノアが怒鳴り込んできたのである。
「父さんの舟に乗る気はないね。大丈夫だよ、大雨なんか来やしないって。見ろよ、空はあんなに晴れ上がってるんだぞ」
確かに雲一つない良い夜だった。半月がこうこうと光を投げている。
「しかし、頼む。明日の晩まででいいから舟に乗っていてくれ」
セムは父親に向き直り、険しい口調で言った。
「言っといたはずだぞ。俺は方舟には乗らん。もう沢山だ。父さんだって念願の舟が出来上がったんだからもう満足だろ、放っておいてくれよ」
取り付く島もなく拒まれたノアは「待っているから必ず来い」と言うだけで、ここは引き下がった。
ノア、ハム、ヤペテとそれぞれの妻は方舟に乗り込んだ。ノアは落ち着きもせず、気を静めるために船内を歩き回り、動物達の様子を見てまわった。ほとんどの動物は興奮して狭い檻の中を歩き回り、目を閉じて寝息を立てているものは少なかった。
彼が甲板に出たときである。三度目の啓示が下った。星が震え、大地が揺れるような感覚があってから、風の音も葉ずれの音も一斉に不協和音を奏でた。
「朝までに方舟に入り、そして外からも内からも決して開かぬように、船側にある出入口に楔を打ち込みなさい。日の出と共に空は割れるであろう」
「待ってください」
ノアは叫んだが返事はなかった。どちらを向いて訴えたら良いのか分からず、彼は途方に暮れた。急いで船室に戻り、息子達に言葉を伝えた。やはりそこにはセム夫妻だけがいない。彼は楔を打つのをためらった。しかし日の出は刻々と迫っている。やがて東の空が白み、紫がかった稜線を浮き上がらせてゆく。ノアはたまらず舟を出て家へと向かった。
途中セムの妻が納屋から牛乳を持って出てくるところに出会った。舟に入るなら夫と二人でなければならぬと言う彼女を何とか説き伏せ、先に舟へ向かわせた。辺りはもうすっかり明るくなり、東の空は病的に赤く、天頂は青みを帯びてきている。
セムはもう起きていた。作業着を着込み、畑に出る支度をしている。息せききったノアが入ってくるのを見ると、小さく溜息をついた。彼は父親の言葉には耳を貸さず、くわを持って畑へと出てゆく。
「もういいだろう、俺を煩わさんでくれ」
セムはそう言ってノアに背を向けた。父は悲しみで胸が張り裂けんばかりで、息子を動かすことの出来ぬ自分を悔やんだ。彼は近くにあった棍棒のような材木の切れ端を手に取ると、セムの背後に忍び寄り、彼の後頭部めがけて振り下ろした。
ほとんど雲のない晴れやかな空はもう青くなっていた。曙光が山の上に細く薄くたなびく雲を燃え上がらせている。峰々のまとった白い雪の衣にもその色が赤く映っている。ノアはまもなく姿を現す太陽を気にしながら、力を失ったセムの体を額に汗を浮かべて引きずっていった。もう少しで舟に着くというその時、朝の最初の陽光が彼らを照らした。それと共に音という音が消えた。全くの静寂の中、張りつめる緊張の空気の中で、全てが身震いをしている。やがて耳をつく高い音と、重い扉を開くような低い響きがごっちゃになってノアの耳に聞こえてきた。彼が空を見上げたとき、彼はまさに空が割れる様を見た。
東の空から西の空へと一筋の黒い光が走ったかと思うと、まるで今までくっついていた二枚の板の間をこじ開けるように、空の真ん中にまっすぐな亀裂が走った。その幅はゆっくりと広がり、その奥にはぞっとするような暗くうごめくものが現出した。
ノアはそれを見て呆然とした。その空の狭間はどのくらい奥行きがあるのか分からなかった。そこにある黒くもあり、灰色でもあり、白くもあるものは近くにあるようにも見え、また遠くにあるようにも感じられる。そこからいきなり稲光がほとばしった。ノアは我に返り、急いでセムを舟に入れると鍵をかけた小部屋に閉じ込めた。ハムとヤペテに出入口に楔を打つよう命じて自分は天窓から首を出して再び空を見上げる。
空の狭間からは闇の中に黒い水が逆巻き泡立っているのが見えた。そこには原初に存在した混沌が顔を除かせている。目を凝らしてじっと見ていると、白や黒の奔流の中に様々な色があることに気付く。深紅に染まるかと思えば次の瞬間には淡い緑へと変わり、琥珀の渦が暗く奥へ突き抜けるような紺碧の中に飲み込まれてゆく。闇の中をのたうつそれらの雲の中を時折轟音を響かせて稲妻が走り抜けている。そしてついに原初の天上の海から大量の水が流れだした。
降り始めた豪雨に日の光は陰り、辺りは夜のように暗くなった。見る見るうちに水は地を覆い、容赦もせず水位を上げてゆく。ノアがセムを入れた部屋の扉を開けると、彼は後頭部をさすりながら仏頂面をして出てきた。だが、ノアが促すままに天窓から顔を出すと言葉を失くし、父の顔を振り返った。ノアは何も言わず目を伏せてただ首を小さく振るのみだった。
その時、外から音がした。ドンドンと誰かが舟の脇腹を叩いている。
「ノア、俺が悪かった。乗せてくれ、後生だから」
そんな声が次々とあがる。壁を叩く音は一つ、また一つと増えてゆく。やがて、雨や風の音に負けぬくらい大きな音となった。
「悪いがもう乗せられんのだ。諦めてくれ、もう遅いのだ」
ノアは耳を手で覆った。けれども人々の悲鳴はどうしようもなく届いてくる。しばらくすると水かさが足が地につかぬ程に増えたとみえて、壁を叩く音はなくなり、命乞いや恐怖の叫びのみとなった。
舟が大きく揺れた。方舟は地から離れて浮き上がり、どこぞともしれぬ所へ漂流を始めた。風は強く波は高く、呑まれゆく人々は泣き叫ぶ。きしんで今にも砕け散りそうな方舟の中を、よろめきながらノアは走った。船側の堅く閉ざした出入口に辿り着くと、息子達が止めるのも聞かず何とか楔を取り外そうとした。
「今開けるぞ、待っていろ」
そう言って力を込めたが、あまりに堅すぎて扉はびくともしない。どうやっても無理だと悟った彼は今度はどこか別の外へ出る場所を探した。息子達は走り回るノアの後を急いで追いかける。
ようやく甲板へとあがる扉を見つけたノアは、阿鼻叫喚の嵐の中へ飛び出した。続いて飛び出したのはセムだった。彼は大きく傾いた甲板を危なっかしく走ってゆく父に飛びついた。ノアは風にあおられ足を滑らせて、セムに掴まれなければ舟から投げ出される所だった。セムは父をがっちりと押さえて叫んだ。
「父さん、駄目だ。馬鹿なことはしないでくれ。戻ろう、父さん」
「離してくれ、離してくれ!」
ノアとセムはもみ合いながら甲板の上を転がった。闇は深く、水は冷たく肌を刺し、頭が割れんばかりの轟音の中に稲妻が閃く。その一瞬の間に、波間を揺られて流されゆく樹木や家屋や人々の群が目に焼き付く。
「いったい何故です、神よ。何故わたしに、わたしだけにこんな思いをさせるのですか。わたしが何をしたというのです。こんなに苦しい思いをせねばならないなんて。このようなことをする理由はなんなのです」
思いがけず、神は答えた。
「ノアよ、汝は己が罪を犯しておらぬとでも思うのか。我は汝を祝福するために使命を与えたわけではない」
「では何故?」
「それを教える必要はない。人間には神の御心は分からぬ。知る必要もなければ知る力もない。ましてや神の心を探るなど無礼極まりない。なんぴとも神を試すことは出来ぬ。それをしたときは身をもって己が罪を知るだろう」
「神は私たちをどう思ってらっしゃるのです。御自分でお作りになり、御自分で滅ぼしなさる。わたし達の支配者ですか、僭主ですか、暴君ですか? そんな神なら、わたしは神なんかいらない!」
これに対する神の声は少しも揺るぎなかった。
「汝がなんと思おうが我は存在する。汝が望もうと望むまいと我が心は変わらぬ」
それからきっちりと四十日四十夜雨は降り続き、どんな高い山も全て没してしまった。そうして全ての命あるものは息絶え、ノアと共に方舟にいたものだけが残ったのである。
大雨がやみ、天の裂け目が閉じた後しばらくしてから、ノアは水が引いたかどうか見ようとして烏を放った。しかし烏は行き所なく水の上を行ったり来たりするのみだった。彼は七日待って今度は鳩を放った。しかしこれもまた足を休める地面を見つけられず、舟に戻ってきた。さらに七日の後にまたもや鳩を放つと、夕刻になって鳩はくちばしに新しいオリーブの葉をくわえて戻ってきた。ノアは鳩の来た方向に舟を進め、やがて水面から突き出ている高い山の頂に着いた。これがアララトの山である。そしてノアはもう一度鳩を放った。鳩は高く高く飛んでいき二度とノアの元には戻らなかった。
こうしてノアとその家族、動物達は乾いた地面に辿り着き、再び土を踏むこととなったのである。
それを見た神は最後にこう言われた。
「ノアとその息子達、人間及び命ある全てのものよ、殖えかつ増して地に満ちよ。汝ら人間は学ぶ必要もあり、一方で学びを禁じられてもいる。よって我は汝らに生命の限りを与える。それにより命を学び、罪を防ぐのだ。
全ての肉なるもの、獣、家畜、鳥、生きて動くものは汝らの食料にするが良い。緑の青草と共に我は与える。だがそれを血のままに食べてはならぬ。また、人が互いに血を流してはならぬ。なぜなら肉は人のものでも、命は神のものであるから。
そして、見よ」
ノアと息子達が空を見上げると、そこには混沌から流れ出しわだかまっていたままの五色の光が美しく弓の形をして浮かんでいた。
「我は汝、そして汝らの子孫との契約を結ぶ。我は二度とこの地から生き物を滅ぼすことはしない。再び地に水が満ちることはない。地は汝らが支配し、汝らが滅ぼすであろう。地上に雲が起こるとき、この弓は姿を現し、我は契約を思い出すであろう。これは永遠に破られることはない。これが全てのものとの契約のしるしである」
水がひいた後、ノアとその家族は、かつて命だったものや形をなしていたものの生々しい残骸の残る平地に戻り、新しい生活を始めた。彼らは神の立てた契約のしるしを見る度に、神の直接の裁きが二度と行われぬことに安堵し、また厳格な神の揺るぎない恵みのもとで生きていることを実感するのだった。