青山日和が出来るまで 9
雛と奇妙な共同生活二日目、すでに出勤していた母さんの残した朝食のトーストを食べて、我が家に挨拶だけしに来た日傘を見送って、僕は今日も言葉を覚える仕事に取り掛かった。
日用品、と言うか……家にある物の名前を言って行く。それを反復して行くことでテンポ良く覚えられればと思ったのだが、実際どこまで意味があるのやら自分でもさっぱりだ。
ただ日常生活を送るには言葉はわかっていることは必要不可欠、コミニュケーションも取れれば感情も直情的じゃなくなるだろうし。
「電子レンジ」
「ひーくん!」
「冷蔵庫」
「ひーくん!」
「流し台」
「ひーくん!」
「スポンジ」
「ひーくん!」
「……トイレ」
「ひーくん!」
「ひーくん」
「ひーくん!」
「ひーくん?」
「ひーくん!」
「イェイひーくん!」
「ひーくん!」
うん、コントかよ。
何言ってもひーくんってどういう事なのさ。トイレが僕ってどういう意味なのさ。状況が状況ならただの悪口だぞゴルァ。
子供だけではないが、覚えたての言葉を使いたがるとは言え、これは厄介だな。誰見てもひーくんって呼びそう、むしろ雛自身もひーくんって言いそう。
言葉を教えるのってこんなに大変なんだな……けれど、こんなものなのかもなぁとも思い始めてる。
外人と呼ばれる、この日本とは違う国では別の言語が用いられている。そんな彼らが僕らの言語を会得するまでには長い時間が必要となるらしい。
正しく今の雛はその状況、今まで慣れ親しんだ言語ではなく、ゼロから覚えようと言うのだから尚更だ。
「ねぇ雛。ひーくんは僕なわけよ、物にはそれぞれ名前があってだね、決してトイレは僕じゃないわけさ」
まぁ言っても無駄なのは分かっているが、我ながら流石にトイレ=僕ってのは些か水に流せない事案だと理解した。
「母音は一緒だし、せめて自分の名前は覚えさせなきゃな……」
「ひな!」
「そうそう、雛の名前はひなだよ。何だ、やれば出来るじゃんか」
よーし、ツッコムぞー。
ツッコミ入れてくんでよろしくぅ。
「ワンモア」
「ひな!」
ぱぁっと明るい笑顔で自らの名を口にする雛は、あろうことか即座に次の言葉を覚えてくれた。
「良くやった……良くやったぞ雛! そう、お前は雛だ!」
「ひな! ひなー!」
やはり予想は間違っちゃいなかったようだ。母音は似てるんだ、次のステップまでは時間の問題だったのだろう。
「じゃあ他に『ひ』で始まるもの……えぇっと、日傘」
「ひああ!」
腕を上げて叫んだ。うーん惜しい。
だがひーくんよりかは文字数も少ないし、きっと言えるはずだ。
「日傘だよ、ひ、が、さ」
濁点は難しいかなぁ、そんなことを思ったのは。
「ひあさ!」
雛のこの発言がきっかけだ。それでも早くも自分の名前を覚えたんだ、これだけでも進歩だ。
「ひーくん」
自分を指差す。
「ひーくん!」
「雛」
雛を指差す。こう言う状況でない限り人のことを指差しちゃ駄目だからね、指差しで教えてよと言われても君の目には見えてるんでしょと言われても、駄目だからね。
「ひな!」
「日傘」
「ひああ!」
叫ばないでよ、僕が痴漢したみたいじゃない。
「日傘だよ、ゆっくり言ってご覧。ひ、が、さ」
濁点はまだ早いのかな、なんて諦めムードが漂いそうな中。
「ひあさ!」
惜しいところまでやって来た。これで日傘の名前を呼べたら、あいつ喜ぶだろうな。
今日の及第点は濁点の入った言葉を言えるようになる、かな。僕と自分の名前は言えてるし、もうちょっとだ。
「ひ、が、さ」
雛の手を自分の口に当てる。冷静に考えるとこれとても恥ずかしいでござる。
それでもこれでひーくんを覚えたので、成果はあるはずだ。息の吐き方、口の中で起きる言葉を発する際の擦れ方、少しでも伝われば上出来だ。
「ひかさ!」
何だか上達速度がストレッチパワー並に高まってるな、それともひーくんの「く」からヒントを得たのか、何にしてもあと一歩だ。
「が」は「か」の発音をする時舌を気持ち下ろすからな、ここに気が付けば濁点もそう遠くない未来で話せるようになるだろう。




