青山日和が出来るまで 6
「ひ、よ、り」
「あ、う、あ!」
身体も洗ってやり、上がった瞬間今から一緒にこれから一緒に殴りに行こうか並の勢いで走り出そうとする雛を止めて、水浸しの頭から爪先まで水滴を拭き取ってやる。
それから僕の着なくなったピンクの和服を着せて、手を引いて居間を目指す。空いた手で袖をパタパタさせる雛をソファに座らせ、先に泥だらけの家を掃除、後に隣へ陣取る。
それからは顔を突き合わせて、僕の胸に指を差し、名前を反復。雛も僕の胸に指を突き立て、母音ながらも続く。
「母音からして間違ってるな……じゃあ、い、お、い、これでどうだ」
「い、お、い!」
お、近づいたぞ。その調子だ、どんどん行こう。
「い、お、い」
「い、お、いー!」
「おーし、偉い偉い、前進したじゃんか」
褒めて伸ばすことも忘れず、頭を撫でてやる。心地よさそうに目を細めて受け身でいる雛に、もう一度言葉を繰り返す。
「い、お、い」
「い、お、い!」
「よし、じゃあ思い切って……ひ、よ、り」
「い、よ、い!」
「おー!」
進歩だ!
成果を挙げられましたああああ!
「凄いぞ雛、もうちょっとだ!」
思い切り頭を撫でて、心からの褒め言葉を浴びせてやる。両手を挙げて喜ぶ雛に釣られ、僕も両手を挙げる。
それを何と勘違いしたのか、抱き着かれた。
「何故こうなった」
ボディタッチ好き過ぎるだろう、今もこれからもそう言う時間じゃないわけよ。
「よし、気を取り直してっと……ひ、よ、り」
「い、よ、い!」
は行とら行は難しいのかね、けれどや行は言えたし、惜しいぞ。頑張れ、雛。
「ひ、よ、り」
「い……いーん、いーん!」
途中でやんだくなったのか、ソファで四肢を振り乱しシャウトする。それでも笑顔なんだな……アイーンの前段階になっちゃったよ……って、ん?
「……ひ、ぃ、く、ん」
「いーうん!」
もしかして、愛称にした方が呼びやすいかも知れん。逆転の発想に辿り着いた僕は、正しく覚える前に理解する「楽しみ」に行き着いてもらえるよう、志向を変えてみた。
「ひーくんね、ひ、ぃ、く、ん」
呼ばれたこともない、完全なる思いつきの呼び名を教え込む。
「い、いー……いー、いー……」
「うーん……ちょっと失礼」
いつまでも胸にある雛の指を掴む。ここで笑顔を消して不思議そうな表情へと変わる少女の指を、僕の口に宛てがう。
雛の空いた手を僕の空いた手でまた掴み、彼女の口にも当てる。
「ひ、ぃ、く、ん」
「……んー?」
「うん。ひーくん、ひぃくん、ひーくん」
「い……いいい……」
は行はほとんど息を吐く体制で発するからな、息の吐き方を知ってくれれば、他の言葉にも応用出来るだろう。
は行に限らず、息の吐き方で五十音は変えられる。口の中で息を破裂させる意識、そう意識さえあれば言葉は発せられる。
だけど、それはゆっくりで良い。意識しろなんて強制はしない、ゆっくり意識出来て行けば良い。
焦る必要はないんだ。
「ひ、ぃ、く、ん」
「い、い、いー……いー……」
分からないのなら、分かるようにしてやれば良い。それが難しいのなら、もっと簡単に。それでも難しいのなら、さらに簡単に。
何度転んでも立ち上がる、根気強くって言ったもんな。こうなりゃ一蓮托生、どこまでもやってやるさ。
「ひ、ぃ、く、ん。ひーくんだよ、雛」
「いいい……い、いー……」
「……ハァ……」
やっぱり、駄目なのかな。
ゆっくりとも言ったわけだし、僕が焦っちゃ意味がない。ひとまず今日はここまでにしようかな……。
「はーあ?」
「あぁ、ごめんね。雛のせいじゃないんだ、僕があまりに不甲斐なく……て……えっ?」
待て、待て待て待て。今、雛は何をした?
僕の溜息を、真似た?
そう言えば雛は僕の動きも真似てた。もしかしたら、教えるのではなくて……真似れば良いんじゃないか?
「雛!」
思わず声のボリュームを操り忘れ、大きくなってしまったけれど、勢い良く立ち上がる。
雛の手を掴んでいたからだろう、釣られて立ち上がってしまうが今度は肩を掴んで顔を見合わせる。
驚いたままの雛。真っ直ぐに見つめる雛の瞳には、誰が映っている?
日傘か?
母さんか、父さんか?
違う。
僕だ。雛の目には僕が居る。
そして僕は雛を見ている。
雛は僕の言葉を、動きを真似て、真似ようとしている。
言って聞かせ、やって見せなければ人は動かない。
要するに、僕が雛の気持ちになってやらないで、どうすんのさってこと。
だから僕は雛を抱き締めた。雛がそうするように、僕も雛を抱き締めた。
「僕はひーくんだ。君と一緒に居る……」
知ってるか?
有名なドラマじゃ、人って言う字は人と人が支え合って出来ている、なんて名言があるんだ。僕は正にその通りだと思うね。
雛は今まで一人だっただろう。けれど僕には、皆が居た。
雛にそれを幸せだと思ってもらうには、僕がもらったものを与えてやれば良いんだ。
そう、温もりってやつを。
「ひーくん。僕は君のひーくんだ」
僕の母さん、父さん、日傘。村の人たち、僕の住む村。
皆僕のものであり、皆にとっても僕は皆のものだ。
だから、雛のための僕であろう。
「いー……い、いー……」
「雛にとっての僕は、何だ?」
雛にとっての僕。
僕にとっての雛。
「いいいいいい……」
雛にとってのひーくん。
ひーくんにとっての……何だ?
「いい、いー……ぃひ……いーひー……」
答えはまだ、分からない。雛よりはずっと物知りなはずだけど、僕にだって分からないことはある。
もしかしたら、雛のように……ずっと分からないままなのかも知れない。人は知らないことを怖がる、そこに何が潜んでいるか「分からない」から、予想も出来ないから恐れる。
確かな物であればあるほど人は安堵し、不確かな物であればあるほど人は恐怖する。
問題なのは言葉を覚えることじゃない。
「ひー、ひーひー!」
「ひーくん。僕は、ひーくんだ」
雛に僕を、知ってもらうことだったんだ。
「ひーくん!」
だからなのかな、僕はこれから先の未来で雛のことを知る。思い知らされるんだ。
この前までの僕。
この今では分からない、この先の僕。
「ひーくん! ひーくん!」
分からないことは恐ろしいことだ。
「あうあー! あーうあー!」
抱き締めた僕の背中に手を回す雛も、いつの間にか笑っていた僕も、分からないんだ。そこにあるのは平穏か、平凡か。
「ひーくん!」
答えはそのどちらでもないんだと叩き込まれ、恐怖で心が満ち満ちた後に。
青山雛(この村)のことを、思い知るんだ。




