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「……プール?」
浴室を見渡してまず飛び出したのは、そんな感想だった。それくらい、広い。
あの後、長い長い廊下を進んだ先に、その浴室はあった。ユリさんは私が風呂に入っている間に、タオルと着替えを用意してくれるらしい。本当に至れり尽くせりで、なんだか申し訳なくなってしまう。
おそるおそる、浴室に足を踏み入れる。実はゲーム内でイベントがない以上、入浴という行為自体初めてだったりするのだ。学校のプールには、6月のプール開きのイベントで入ったことがあるのだけれど。
なんとなく落ち着かない気分を味わいながら、できるだけ隅っこでシャワーを浴びる。
(ここも何かのイベントに使われたのかな…)
稀に削除しきれなかった没イベントがデータの中に残っていることはあるけれど、ここまで作りこんであってそれはないだろう、とそっと湯船に浸かりながら考える。
――あたたかい。
プログラムだから何も感じないなんて、本当は大嘘だと、自分が一番よく分かっている。
(自分の知らない場所だと、どんなイベントがあったんだろうって想像しちゃって、ダメだなぁ)
主人公である“彼”の関わらないイベントが、あるはずもなくて。
目元が濡れるのを誤魔化すように、じゃぶじゃぶと意味もなく顔を洗った。
風呂から上がると、脱いだ服はなくなり、代わりにきちんと畳まれたタオルと着替えが置いてあった。
有難くタオルを使わせてもらっていると、更衣室のドアがノックされる。
「お嬢さん? タオルも下着も新品ですので、安心して使って下さいね。着替えは私の服になってしまって申し訳ないのだけど」
「いえ、そんな! ありがとうございます」
ユリさんは部屋の外で待ってくれているらしい。
急いで下着を身につける。着替えは、シンプルな水色のワンピースだった。頭から被ってすとんと下ろす。最低限不格好でないかだけ鏡で確認し、小走りでドアに駆け寄った。
「すみません。お待たせしました」
「あら、そんなに急がなくても…」
ドアを開けた先に立っていたユリさんが、目を瞬かせた後、何故かおかしげに微笑む。
「え?」
「随分慌てて出てきたのね。髪がぺったんこ」
「あっ…」
着替えるのに夢中で、髪のことはすっかり忘れていた。
「折角温まったのに、そのままではまた冷えてしまいますよ」
「ご、ごめんなさい。すぐに拭きます」
「慌てなくて大丈夫ですから、ゆっくり座って乾かしになって」
私の慌てる様子がおかしかったのか、ユリさんはそばにある椅子に促しながらも笑顔を浮かべている。
おそらく私の方が年上であるはずなのに、情けない姿を見せてしまって恥ずかしい。勧められた通り椅子に座ると、できるだけ素早くかつしっかり、髪の水分をとっていく。
そうしている間に、ユリさんもすぐそばの椅子に腰を下ろした。
「本当に、気の利かないというか回らないというか、駄目な人でごめんなさい」
いきなり何のことか、と思わず手を止める。
いつの間にか、ユリさんの顔から笑いは引っ込み、気遣わしげな、そしてどこか不安そうな表情を浮かべていた。ついさっきも、彼女のこんな表情を見た覚えがある。
「あの…お兄様のことですか?」
尋ねると、ユリさんはゆっくりと頷いた。
彼女が何を不安に思っているのか、私には想像もつかない。けれど、この感謝の気持ちが伝わるようにと口を開く。
「さっきも言いましたけど、お兄様にはとても親切にしていただいて、気が利かないなんてそんなことない、と思います」
話しながら、自分の言葉の拙さに内心落ち込む。台本のないセリフは難しい。
「私の方こそ、着替えどころか新しいタオルや下着までお借りしてしまって…、あ、あと制服も預かっていただいた、んですよね? ごめんなさい、何から何まで…。
あっ、そうだ、車の座席も多分、すごく濡らしてしまったかも…! あの、本当にごめんなさい」
喋りながら、あまりの迷惑のかけっぷりに顔が青くなる。
しかし、下げた頭に降ってきたのは、笑い声だった。
「え、あの…?」
何が驚いたって、それが、ユリさんの外見や雰囲気から想像されるような、ころころと可愛らしいものではなく、屈託のない弾けるような笑い声だったことだ。おそらく笑われているのは自分のはずなのだけれど、あまりに意外な姿にびっくりしすぎて恥ずかしさも湧いてこない。
呆然と見守っていると、しばらく笑い転げていたユリさんが、目尻に浮かんだ涙を拭きつつ顔を上げる。
「ご、ごめんなさい、思わず…ぷふふっ」
「ああ、ええと…」
なんと言っていいか分からず曖昧に応えている間に、ユリさんは気持ちを落ち着けたらしい。
「――失礼いたしました」
「い、いえ…」
困惑している私に、ユリさんは先程の姿など想像させないくらい、完璧な愛らしさで微笑む。
「あなたが非常に能天気な方で助かりました」