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なんだかおかしなことになっている、と気付いたのは、彼と一緒に車に乗ってから、しばらく経った頃だった。
走っているはずなのに全くといっていいほど振動のない車内、手触りのいい黒革の座席、運転席にはスーツを着た上品そうな初老の男性。明らかに“お金持ち”と設定された環境。そのくらいは分かった。攻略対象の中に、財閥のお嬢様がいる。彼女のイベントに関連した舞台かもしれない。
きょろきょろしているのが気になったのか、隣の彼から声がかかる。
「どうかしたか?」
改めて見てみれば、彼は同い年くらいの青年だった。高校生だろうけれど、そのグレーを主にした制服は見たことがない。それも不思議ではあったが、しかし何より驚くべきは、その常識破りに端正な顔立ちだった。
「ああ、そうだ」
何か思いついたのか、足元の学生鞄をごそごそと探る横顔ですら絵画のように美しい。
もしかすると、あのお嬢様の親族かもしれない。私の知らないところでイベントに関わっていたのかも。サポートキャラとして、他のキャラクターのプロフィールや好感度などをプレイヤーに提示する役目を与えられている関係上、登場人物はほとんど把握しているはずだけれど、特定のイベントに一度きりしか出てこないようなキャラまでは流石に知らなくてもおかしくはない。
多分そういうことなんだろうと、明らかにモブとは思えない横顔を眺めている間に、彼は目的のものを見つけたらしい。小さく畳んである、白い布。ハンカチだろうか。それを手に振り向いた彼は、また「失礼」と断りつつ、私の方へ腕を伸ばす。目の前に伸びてきた手に、反射的に目を瞑った。
柔らかい感触が、頬に触れる。
(……?)
おそるおそる目を開けると、やけに真剣な顔をした彼の顔が目の前にあった。彼の手に握られたハンカチが、ゆっくり顎を撫でる。
どうやら顔を拭われているらしい、と思い当たった瞬間、驚いて身を引いてしまった。突然の動きに、彼が目を丸くする。
「どうした?」
「あ、あの、ごめんなさい…」
流石に、顔を拭いてもらうのは恥ずかしい。と、心底不思議そうにしている彼に対してはっきり口にはできずおろおろしていると、何を思ったのか彼は優しく私の手をとり、ハンカチを握らせる。
「え、と…?」
「使うといい。顔だけでも拭けば少しはマシになるだろう」
手の中の真っ白なハンカチと彼の顔を何度か見比べる。そうして、私が選べる行動はひとつしかないことを思い知った。お辞儀、というより顔を伏せるような形で、頭を下げる。
「……ありがとうございます」
彼から借りたハンカチの、さらさらで、かつしっとりとした上品な手触りにびくつきつつ、そっと顔を拭く。シルクのハンカチというやつだろうか。こんなデータまであったなんて。
一通り拭き終わると、確かに気分まで少しすっきりしたような気がした。そっと顔を上げると、彼はその美しい顔に柔らかな微笑みを浮かべている。私が顔を拭いているのをずっと見守っていたのだろうか。
「あの…」
「ああ、拭き終わったか。今はそれしかないが、家に着けばタオルもある。もうすぐだから我慢してくれ」
はい、と頷くのに躊躇するくらいには、私も自分を取り戻していた。
「あの、大丈夫です、私、ハンカチを貸していただいただけでもすごく助かりました」
「まだ全身ずぶ濡れじゃないか。そのままじゃ風邪をひく」
「ありがとうございます…けど、私、風邪はひきませんし」
思わず苦笑すると、彼は不思議そうな顔をした。それはそうだろう。おそらくサブキャラポジションであろう彼にメタ記憶はないはずだ。その方がある意味では幸せかもしれない、と勝手なことを思う。
どう説明すれば、親切な彼に納得してもらえるだろうか。
プログラムである私たちはイベントで設定されていない限り風邪をひかないし、“彼”の告白が成就した時点で、すべてがリセットされるはずなのだ。
迷いつつ口を開く。
「ええと、それに、もうすぐ全部終わりますから」
だから車を止めてください、と口にする前に、力強く腕を握られた。
もちろん握ったのは隣の彼で、その顔は緊張の色で張りつめている。しかも顔を向けているのは私ではなく、運転席の方だった。
「じい、できるだけ早く!」
「かしこまりました、坊ちゃま」
答える声は落ち着いていたけれど、体にかかった重力で車が加速したのが分かる。一体何がどうなって、と混乱しつつ腕を引こうとすると、まるで逃がさないとでもいうように彼の手に力がこもった。
「あの…?」
振り向いた彼は、先程まで柔らかな微笑みを浮かべていたとは思えないほど、強張った顔つきをしていた。
折角の厚意を拒否するようなことを私が言うものだから、怒ってしまったのだろうか。
「ご、ごめんなさい…」
「いや、謝らなくていい。……俺の方こそ、何も言ってやれなくて、すまない」
どうして彼がそんな辛そうな顔をする必要があるのだろう。私が疑問を口にする前に、彼は言葉を重ねる。
「とにかく一緒に来てくれ。まずは体を温めないと。これからのことは、そのあと話そう」
正直に言えば、どうしてストーリー上直接関わりのないはずの彼がここまでしてくれるのか、不思議で仕方がない。
けれど、セリフの最後、強張った表情をおそらくは意図的に緩めて、柔らかく、そして少しだけ困ったように微笑んだ彼の顔を見たら、自然と首を縦に振っていたのだった。