五月晴れ・捌
松平家重臣・青木邸。
恰幅の良い男が、脇息に肘を付き、目の前に出されたものを見分していた。
「――ご家老様。此度の一件、お力添えをいただきまして、有難う存じます。これは、ほんのお礼の品でございます」
その「モノ」を差し出すのは、丸顔の男である。質の良い羽織に小袖を纏い、商家の主といったところか。笑みを浮かべながらも、人の良さそうな印象を全く与えないのが特徴的である。
「気が利くではないか、大和屋。しかしのぉ、儂はまだ家老ではないぞ」
ぐいと相手に顔を近付け、冗談めかしていう青木。大和屋と呼ばれた男も笑みを深くして応える。
「これは失礼をいたしました。次期ご家老様」
「ふはははは。お主も、なかなか上手いことを言いよるわ」
「恐れ入りましてございまする」
にやにやしながら低頭する男に、青木の機嫌も一層良くなる。
「しかし、吉田屋も莫迦なことをしたものよ。大人しくしておれば良いものを」
「引き際を知らぬのでしょう。それにいたしましても、青木様もよく、あのようなことを思いつかれたのもで……」
「何? 貴様、この儂を莫迦にするのか?」
「めっそうもございませぬ。青木様のご手腕に、この大和屋、ただただ恐れ入るばかりにございます」
大げさに低頭する大和屋に、しかし青木も本気で機嫌を損ねたわけではないようであった。ぱんと扇子を打ち鳴らし、脇息にもたれかかる。
「まあ、あの脇坂とかいう者の始末には、手こずったがのう」
「勘付かれた時には、どうなることかと思いましたが……死人に口なしと申します」
「奴も、よもや国許で殺されるとは思ってもみなかったであろうな」
「ええ。あの浪人に任せて良うございました。怪しげな者と思っておりましたが、なかなか良い働きでございましたな」
大和屋はおどけた様子で、身体を弾ませた。だが、対する青木は急に神妙な顔つきになって、大和屋の方へ顔を近付ける。この場には二人以外にいないはずであるが、青木は声を落として言った。
「事が露見することはなかろうな」
「しばらくは江戸を離れるように言ってあります。金は十分に渡しましたので、問題ないかと……」
窺うような視線に、青木は「なら良い」と言って、酒を煽った。
「あとは、吉田屋に逗留しているとかいう脇坂の娘さえ始末できれば……」
忌々しそうに呟くのは、先日の失態を思い出してのことである。
脇坂の娘が江戸へ出てきたという話が青木の耳に入ったのは、十日ほど前のことになる。直ぐに大和屋に調べさせると、どうも父親の死に疑問を抱いているらしい。娘が吉田屋へ逗留し、真相を探ろうとしているならば、何らかの手を打たねばならなかった。
「まったく、使えぬ奴らよ」
「青木様?」
大和屋は、唐突な青木の言葉に怪訝な顔をした。青木家家臣の失態を知らぬ彼には、青木の機嫌が損なわれた理由が分からない。目前の男を恐る恐る窺いながら、己の言動を顧みた。
「また、そちに働いてもらわねばならぬな」
青木はぎろりと大和屋を見る。大和屋ははっとして、低頭した。
「何なりとお申し付け下さいませ」
「脇坂の娘とやらが、我らのことを嗅ぎ付けるやもしれぬ。その前に、脇坂の時と同じように始末せよ」
「畏まりましてございます」
青木に命じられる前から、「働き」の内容を理解していたのであろう。大和屋は頷き、即座に頭の中で計画を練り始める。
と、そこへ――。
「へぇ。そいつぁ、恐れ入ったぜ」
夜の黙に、男の声が響く。青木と大和屋は顔を見合わせた。
「何奴ッ!?」
青木が勢いよく障子を開けると、庭に一人の若者が立っていた。ちょうど行雲の隙間から覗いた月明かりが、侵入者の顔を照らす。
二十歳を過ぎた程度の若者は、腰に打刀と脇差を差し、悠然と佇んでいた。打刀に左腕を乗せ、開かれた障子の内を見る。
「き、貴様! 何処から入り込んだ!?」
「そこから入らせてもらったぜ」
動揺を隠せない青木にも、若者の態度は変わらない。くいと首を捻り、屋敷の門を示す。
そこへ、頃合いを見計らったかのように現れる、門番と思しき男たち。彼らが普段と違うのは、右肩を押さえていたり、足を引きずっていたりすることである。いずれもが、何とかここまで辿り着いたといった風であった。
「何をしておった!?」
明らかに狼藉者の侵入を許したであろう門番に、代官は厳しく叱責を加える。
「も、申し訳ありませぬ! そ奴、恐ろしく手練れで……」
「ええいッ! 役に立たぬ者共めッ!」
青木は扇子で手を打ち、悪態を吐いた。隣でおろおろとする大和屋には目もくれず、侵入者を睨み付ける。
「話は聞かせてもらったぜ。次期ご家老様よぉ、随分と悪行三昧を働いてるそうじゃねぇか」
「何ぃ?」
「そこの大和屋と結託し、松平家の御用達を変えてやろうって魂胆かい? 吉田屋の商いを邪魔してやがるのも知ってるんだぜ? しかも、それに気付いた脇坂庄右衛門の口を封じ、あまつさえ、父親の死の真相を探ろうとしてる健気な娘を亡き者にしようとする――とんだ悪党じゃねぇか。なぁ?」
「な、何のことやら……」
「貴様、何を証拠にそのようなことを――!」
惚ける大和屋に、逆上する青木。侵入者は、彼らを鼻で笑って言った。
「すっ呆けてんじゃねぇよ。――そら」
掛け声とともに、繁みの中に手を入れる。引きずり出されたのは、縄で縛られた一人の男であった。
「こいつが、みぃんな吐いちまったぜ」
「おおおおおまえは!」
明らかな動揺を見せたのは大和屋である。地に転がされた男――五郎を指差し、わなわなと震える。
「どうやら心当たりがあるようだな」
惣十郎の指摘に、大和屋は小さく「あッ」と声を上げた。しまったという顔をする大和屋を見て、青木は彼の失態を知る。
「くそッ!」
分が悪いと判断したのであろう。青木は再び扇子を打ち鳴らし、左右に首を回して声を張り上げた。
「出合えッ、出合えぇーいッ」
ダダダダダダダダッ
左から右から、そして後方から。四方八方から現れた侍達は、あっという間に侵入者を囲む。
「こいつぁ派手なお迎えだな、次期ご家老様」
「黙れ黙れぃッ! ええい、口の減らぬ若造めがッ。この屋敷に来たことを後悔させてやるわ!」
喚く青木のこめかみには、青白く血管が浮き出ている。彼は扇子を侵入者に向かって突き出しながら言った。
「何をしておる! この狼藉者を切り捨ていッ」
途端、重なる抜刀の音。総勢三十名弱の家臣が、一斉に刀を握る。
「へッ、それじゃあ相手してやろうかね」
あらゆる方向から切っ先を向けられているというのに、若者は全く動じることなく、左手で鍔を押す。
口の端をくいと上げ、侵入者――永井惣十郎は刀を抜いた。