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五月晴れ・漆


「皐月様が江戸に滞在されている訳、でございますか」

「ああ。どういう風に聞いてるんでぃ?」


 訊きながら、惣十郎は足を組み替えた。長くなりそうだと予感した女中が、二杯目の茶を用意するべく退出する。嘉兵衛も湯呑に手を伸ばし、口をつけた。


「永井様は、皐月様のお父上の件をご存知でしょうか」

「ああ、聞いてるぜ」


 嘉兵衛にとって、その答えは別段驚くべきことではなかったらしい。「それでしたら」と言って、答え始めた。


「江戸でお父上所縁(ゆかり)の方にご挨拶して回りたい、と。そのように伺っております」

「それだけかい?」

「ええ。……それが、何か?」


 怪訝そうな表情の嘉兵衛。

 やはり、彼らは真の目的を聞かされていなかった。惣十郎は得心した。


(あいつ、一人で背負(しょ)い込んでやがるな)


 国許から一人出てきて、縁者である吉田屋には何の相談もせず、慣れない江戸を調べ歩く――それは、どれだけ覚悟のいることであろうか。


 仇討は、お上に認められた正当な行為である。江戸後期になると女の仇討も数を増し、皐月のような武家の娘が、父母兄弟や夫の(かたき)を討とうとするのも珍しい話ではなかった。

 但し、それはあくまでも「仇を討とうとする」のが、である。必ずしも本懐(ほんかい)を遂げられるとは限らず、仇を探して何十年、というのはよくある話であった。それほどに、仇討とは大変な事なのである。


 ふと、皐月にも国許に残してきた者がいるだろうにとの考えが、惣十郎の頭をよぎった。


「今、家の方はどうなってんでぃ?」

「弟の主計(かずえ)様が跡目を相続なさるようですが……まだお殿様のお許しが出ていないとか。(じき)にお許しいただけるでしょうが、それまでは何かと気苦労も絶えぬでしょう」

「そうだな」


 当主が急逝した場合の相続の手続きには時間がかかる。しかし、嫡子がいるのなら、比較的容易に相続が叶うだろうと、惣十郎は思った。


「そういやぁ、亡くなった親父さんとは、面識はあったのかい?」

「それはもう。高崎のお殿様の参勤に付いて、江戸までいらっしゃることが多かったものですから。当家にも、よくお立ち寄りくださいましたよ。もっとも、直ぐに国許へお帰りになるのですがね」


 馬廻役といっても、藩主に付き従って在府するとは限らない。藩の財政が逼迫(ひっぱく)している場合は、道中の警護のみで、あとは藩へ帰されることがほとんどであった。


「なら、親父さんの死に心当たりは? 変わったことはなかったのかい?」

「変わったこと、でございますか……」


 思案顔の嘉兵衛は、庄右衛門の様子を思い出そうとしているようであったが、やがて「これといって思い当たることは」と言って首を振った。



 暮れ六つを知らせる鐘が鳴ると、惣十郎は「もうこんな時間か」と、立ち上がろうとした。思いのほか、長居をしてしまったようだ。

 しかしそこへ、嘉兵衛の声が掛かる。


「――ところで永井様はどちらのお生まれで?」


 思いがけない問いに、惣十郎の動きが止まる。鋭さを増した眼光で目の前の男を見るも、彼は知ってか知らずか、穏やかな表情のままである。世間話の延長でもしているかのようであった。


(どういうこった……?)


 一介の商人に、そのようなことを訊かれたのは初めてであった。相手の意図が分からず、黙って見つめる惣十郎に、嘉兵衛は動じることなく続ける。


「当初は江戸のお生まれかとも思いましたが、時折訛りがあるような気がいたしましたので……。わたくしも商売柄、あちこちの国の方とお付き合いする機会がございます。それで、少し気になったまでのことでございますよ。拝見しましたところ、お国は駿河――でしょうか」


(鋭いな)


 穏やかな雰囲気からは想像もできないが、こいつはとんだ食わせ者だ。惣十郎は舌を巻く。

 初めて会ってから日も経たないのに、そこまで見破られたのは、これまた過去にないことである。経験豊かな商人ならではの観察眼を垣間見た気がした。

 嘉兵衛からは明確な意図を感じることはないものの、探りを入れられているのは間違いないであろう。


「よく分かったな。確かにそっちの出だ」


 下手に隠すのは不味い。それが分かっていたからこそ、惣十郎は推測を認めた。嘉兵衛の真意はどうであれ、後ろ暗いことがないのなら、肯定すれば良いだけの話である。それに、嘉兵衛が本当に賢ければ、これ以上深入りすることはないだろう――そういった考えもあってのことだ。

 惣十郎の読み通り、嘉兵衛は「やはり」と言った後、「いえ、つまらぬことをお尋ねしました」と頭を下げた。引き際を心得ている。実にあっさりとした物言いであった。



 片付けのため、急に(せわ)しなくなった店内を抜け、惣十郎は深川へと向かう。途中、嘉兵衛との会話が頭をよぎり、彼は足を速めた。

 長屋に着く頃になると、(だいだい)色の光が、じわりと惣十郎の身体を照らし始めた。何気なく見上げた空には、雲一つない。明日も晴れだな、と思った。





 それは、(さる)の刻の出来事であった。店先から、女中の悲鳴と、陶磁器の割れる音が響く。何かよからぬ事態が起こったことを、如実に示していた。


(――来たか)


 店に程近い部屋に控えていた惣十郎は、打刀を差し、物音の先へと向かう。未だにざわめきが鳴りやむことはなく、近付くごとに、むしろ一層騒々しさが増していく。番頭の、「お引き取り下さいまし」との声も聞こえてきた。


「おぅおぅ吉田屋さんよぉ、そろそろ看板を下ろした方がいいんじゃねぇのか?」

「痛い目みたくなかったら、大人しくしてんだな!」


 そこでは、惣十郎の想像した通りの光景が繰り広げられていた。

 店内で暴れているのは、先日も吉田屋で乱暴を働いた四人。この日も縞柄の着物を肌蹴されて、大立ち回りを演じている。

 店には、まださほど被害は出ていなかったが、番頭の毅然とした態度に業を煮やしたのであろう。一人が土足で座敷に上がり込み、帳場机に向かっていく。


「二度と商いが出来ないようにしてやらぁッ! おまえら、やっちまいな!」


 前半は、帳場格子(ちょうばごうし)の先にいる番頭に。後半は後ろにいる三人に向けて。他の三人をまとめているらしい男は、指示を出す。その言葉に、「おぅ!」という声が複数重なった。

 若い女中の悲鳴が上がる。

 遂に、番頭はその言葉を口にした。


「先生――お願いいたします」


 途端、揺らめく影。


 来たか――と、破落戸たちは身構えた。事前に仕入れた情報で、吉田屋が用心棒を雇っていることは知っている。話では、用心棒は大した使い手ではないとのことであったが、油断は禁物である。彼らは番頭の視線の先を注視し、そして――。


 ゆらり、と奥から現れた用心棒を見て、座敷に上がり込んだ男はあッと声を上げた。


「て、てめぇは!」

「よぉ、大和屋の手先の……五郎、だっけな。ご苦労さん」


 惣十郎の軽口に、五郎と呼ばれた男は顔を真っ赤にさせた。


「何でてめぇがここにいやがるッ!」

「俺が吉田屋の用心棒だからに決まってんだろ?」

「何ぃッ!?」


 驚愕の表情で惣十郎を見つめる五郎。あとの者たちも各々驚き、ざわつき始めた。

 しかし、どうやら()められたと分かった五郎は、ぎッと惣十郎を睨み付けて臨戦態勢を取る。手には、既に小刀が握られていた。


「今日も、大和屋の差し金で来たのかい?」

「てんめぇ……!」


 草鞋を床に擦りつけ、五郎は腰を落とす。小刀を持つ手に唾を吐き、後方に向かって怒鳴り声を上げた。


「おまえらッ! たたんじまいなッ!」

「おぅッ!」


 一人が、勢いよく座敷に上がり込んでくる。それを、惣十郎は無言で蹴り飛ばした。


「うわぁッ」


 派手な音を立て、男は腰から落下していく。腰と背中を打ちつけたのが原因か、直ぐに立てなくなった。ぴくぴくと身体を震わせながら、苦悶の表情を浮かべる。


「くっそぉッ!」


 それを見た仲間の一人が回り込んで座敷に上がろうとするも、惣十郎は打刀の柄で額を打つ。


「ってぇッ……!」


 額を押さえてよろめく男。こちらも同じく足を踏み外し、落下する。先に落ちていた男の横で倒れた。


「どうした五郎、おめえさんは来ねえのかい?」


 いまだ間合いを詰めようとしない五郎に対し、惣十郎は挑発するような言い方で誘う。残すはあと二人。二人がかりで来たとしても、負ける気はしない。

 番頭をはじめ店の者は、予め奥に退避している。すなわち、店内にいるのは、惣十郎と大和屋の手先のみ。気兼ねなく戦えるのである。


(同時に来るか)


 五郎の視線を追い、惣十郎はそう判断する。示し合わせて襲い掛かろうということらしい。

 事実、次の瞬間には正面からは男が、右からは五郎が走り込んできた。


「ちぃッ」


 五郎の舌打ちは、最初の一撃が難なくかわされたことによるものである。小刀の扱いに慣れている印象を与えるが、惣十郎には届かない。もう一度惣十郎の懐に跳び込んだものの、これまたかわされ、勢い余った五郎はたたらを踏む。

 そこへ、もう一人の男が拳を振り上げてきたので、惣十郎は後ろ向きになっていた五郎の襟首を掴んだ。


「何しやが――ぶッ!?」


 五郎の言葉は、自身がもう一人の男とぶつかったことにより、打ち消された。あまりの衝撃に顔を押さえ、よろめく。

 惣十郎が五郎を掴んで、もう一人の男に投げつけたのだ。


「そらよ」


 もうひと押しとばかりに、団子になっている二人を、まとめて下に突き落とす。そこには、既に戦闘不能となった二人が寝転んでいた。


『ぐはぁ!』


 それは、誰の口から発せられたものであったか。

 四人は、何か大きな塊の如く、店の床に置かれていた。五郎の下敷きとなった男からは、苦しげな声が漏れる。


「なんだ、こんなもんかい?」


 息一つ乱さず、惣十郎は四人を見下ろす。愛刀を持ち出しては来たものの、抜刀すらしなかった。

 と、男の一人がじわりじわりと身体を動かしているのが、惣十郎の視界に入る。その意図を察し、惣十郎は座敷から下りた。


「ひッ、ひぃぃぃぃッ!」


 案の定、五体満足であった男は、店からの逃亡を試みようとしていた。最後に五郎と一緒に突き落とした者である。

 惣十郎は、四つん這いになって逃げようとする男の後ろ襟を掴み、店内に引きずった。男は尻餅をついて、仰向けに転がる。


「さぁて、洗いざらい吐いてもらおうじゃねぇか」


 今度は前の襟を掴んで顔を近付けると、男は観念したようにうめき声を上げた。その横で、五郎の悔しげな声が木霊する。


「ちっくしょうッ!」



・在府…大名やその家臣が江戸で勤務すること。

・暮れ六つ…18時のこと。日没を指す。

・申の刻…現在の15時~17時頃。

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