五月晴れ・陸
川開きまであと六日ほどなった江戸・隅田川。今も夕涼みとばかりに、川岸には人が集まっている。一雨きた後の風は涼しく、今も土手の柳を揺らしていた。
戌の刻を半分ほど過ぎた頃になると、さすがに空は色を変えている。人々は薄月を頼りに、夜の散歩を楽しんでいるといったところか。
男は賑わう土手を横目に、深川へと向かっていた。八丁堀を過ぎると、徐々に明かりが少なくなっていく。静まり返った路地に、土を擦る音のみが響く。
深川に入ると、再び人の姿がちらほらと見受けられるようになった。といっても、長屋の住人は皆、戸締りをした後である。今頃は己の住まう長屋にも宵が訪れていることであろう、と浪人は思った。
潮の香りが、生温い風に乗って男に届けられる。南下するにつれ、空気は湿ったものに感じられていく。海が近いのだ。
そこは、これまで男が通って来た道とは、様相を異にしていた。雑多な場所、という表現が適切であろうか。土埃や喧騒はあれど整然とした区画であった神田に比べると、違いは顕著である。通りには、あちこちに漁業用の道具が置かれ、道を塞いでいる。もう数刻もすれば賑わうであろう場所は、今はひっそりとしていた。
しかしその一角――男が歩を進めた先で、人の声がする場所があった。見ると、四人の男が台を囲むように座っている。男は口角を上げ、その集団に近付いた。
「おぅ、俺も混ぜてくれねぇか」
男たちは、突然現れた浪人風の男に怪訝な顔をしていたが、彼の持つ酒を目にした途端、急に笑みを浮かべて招き入れた。
「旦那、浪人さんかい?」
「まあ、そんなところだな。ほれ、一杯やろうぜ」
輪の中に入ると、浪人は手にしていた酒を台の上に置いた。
男たちの笑みが深くなる。実は、酒も少なくなってきたところだったのだ。浪人の登場は、まさに絶妙の頃合いであった。
ほろ酔い加減の男たちの茶碗に、なみなみと酒が注がれる。酒壺を持つのは、来たばかりの浪人である。
「おまえさんたちは、随分と羽振りがよさそうじゃねぇか」
「へへっ、分かるかい?」
浪人の言葉に、五郎と名乗った男はにんまりと笑う。よくぞ聞いてくれた、と言いたげな顔である。
事実、浪人が促すと、五郎はすぐさま詳細を語り始めた。酒が入っている所為か饒舌で、彼らの言う「おいしい仕事」の内容を、浪人は簡単に知ることとなった。
「ほぉ、そりゃ確かにおいしいな。どうだい、俺にも一枚噛ませちゃくれねぇかい?」
浪人の提案に、男たちは顔を見合わせる。
彼らが仲間内で交わした視線の意味に気付いたのであろう。浪人は、畳みかけるように言葉を重ねた。
「こう見えても、腕には自信があるんだぜ」
「けど旦那、こいつぁ――」
「ああ、わかってるさ。大っぴらにはできねぇんだろ?」
ぐい、と円の中心に顔を寄せる浪人。五郎らは知らず、生唾を呑み込んでいた。
「そ、そりゃあ……」
「こちとら長屋暮らしの貧乏浪人。金の絡む話とあっちゃあ、どこへでも行くってもんよ。こういう仕事を受けたことも、一度や二度じゃないんだぜ?」
浪人がそう言うものの、五郎は渋い顔だ。さすがに、己の一存では決めかねる事だということを弁えているのであろう。彼らとて、雇われの身だからである。
そこで、浪人はある情報を提示することにした。
「おまえさんの言う、「さる大店」ってのは、吉田屋のことじゃねぇのかい?」
『なッ!?』
案の定、五郎を含めた全員の顔色が変わる。五郎は先ほど、「さる大店で暴れて、商いの邪魔をしている」といっただけで、屋号までは明かしていない。何故、浪人がその答えに行き着いたのか、彼らは見当もつかなかった。
「し、知ってんのかい……?」
一人が、恐る恐るといった風に尋ねる。
「越後屋の近くに構えてる、あそこだろう。腕の立つ用心棒を集めてるってんで、この前行ったばかりさ」
「なんだって!?」
五郎の声が大きくなる。彼にとっては、酔いが覚めるような話であった。
「なんでも、最近揉めてるみたいじゃねぇか。商売敵から嫌がらせを受けてるって話だったんだが……まさか、おまえさんたちのこととはねぇ」
浪人の言葉に、男たちは硬い表情だ。まさか向こうが策を講じてきたとは――。思いもよらぬ展開に、男たちは押し黙る。
そんななか、五郎だけはいち早く頭を働かせた。
「てこたぁ旦那。向こうには、腕の立つ用心棒が控えてるってわけかい?」
「さぁな。ま、俺に言わせりゃ、大したことねぇよ。俺も吉田屋に行ったことがあるっていったろ? そこで連中の腕前を見たけどなぁ……ありゃ、駄目だ。少なくとも俺の相手じゃねぇな」
「旦那なら、そいつらに勝てるってことかい?」
「ああ」
「どうする、兄貴……?」
最後は、仲間が五郎に対して問いかけたものである。問われた五郎も、「ううん」と考え込んだ。
彼らとて腕っ節には自信がある。が、それも庶民相手なら、である。腰の物を下げた武家――それも、用心棒を務めるくらいの腕の持ち主が相手とあっては、話は変わってくる。
「大和屋の旦那に相談してみちゃぁ……?」
「いや。そいつぁ駄目だ。俺らがこうして話しちまったことが、バレるじゃねぇか」
五郎の言葉に、仲間は「確かに」と項垂れる。口外してはならないと言われていたのである。酒の力が働いたとはいえ、見ず知らずの浪人に話してしまったことが知られれば、何らかの咎めを受けるであろう。
「じゃあ、どうするんでぃ……?」
「俺らだけでやるしかねぇだろ! んな弱腰でどうすんだよ!」
浪人の情報にびくつく仲間に、五郎が喝を入れる。
浪人が見たところ、威勢が良いのは五郎だけのようである。あとの連中は、最初は調子が良かったものの、もたらされた情報により、急に弱腰になった。
「じゃ、じゃあ旦那……。その、用心棒の実力ってのは……?」
「ああ、さっきも言ったろ。大したことねぇよ。向こうの用心棒は、そいつ一人だしな」
「一人だって?」
「だから、おまえさんたち全員でかかれば、恐れるような相手じゃねぇよ。しかも、俺の見る限りじゃぁ、何年刀を握ってないのか――ってくらいだ。刀の振り方を忘れちまってるんじゃねぇのかい? ってな」
おどけたように浪人が言うと、男たちからはやっと笑いが漏れた。五郎も緊張がほぐれたのか、それに加わる。
「旦那は、なんで用心棒を引き受けなかったんでぃ?」
もっともな質問に、浪人は肩をすくめた。
「ああいうお堅い連中は合わねぇんでな。ちょいとやばい話の方が、俺向きなのさ」
その言葉に、また笑いが起こる。男たちはどうやら安心したようだ。
そこからは、やれ用心棒が役に立たないだの、吉田屋の慌てっぷりだのが酒の肴にされた。特に、先日五郎らが吉田屋で暴れた時の話などは、彼の大立ち回りとともに詳細に語られた。
ひとしきり騒いだ後、そろそろお開きかという頃に、浪人は五郎に問いかけた。
「それで、次はいつ暴れるんでい?」
「三日後だ。こういうのは、一気にやらねぇとな」
五郎が同意を求めると、周りの男たちも意気込む。
「今度こそ奴らの看板を下ろさせてやらぁ!」
「腕が鳴るぜ」
「へへッ、楽しみですぜ、兄貴」
それを見て、浪人は「そうかい」と頷いた。
「――では、明日また連中が来ると?」
「ああ、間違いねぇよ」
吉田屋の奥座敷。
傷の癒えた嘉兵衛は、吉田屋の用心棒となった惣十郎と向かい合っていた。
「それで、我々は何をすればよろしいのでしょうか」
「何も。慌てず、騒がず、手筈通りにやってくれれば、それでいい」
惣十郎は、出された冷茶を口に含んだ。喉を通り抜ける、この感覚が良い。
「しかし、永井様は大したお方でございますな」
「本当は、相手の懐に潜り込みたかったんだがなぁ。奴ら、そこまでは乗ってくれなかったぜ、さすがに」
とはいえ、これで雇い主の名と、次の襲撃の日にちが判明したのである。収穫としては十分だ。
「では、明日はよろしくお願いいたします」
深々と頭を下げる嘉兵衛に、惣十郎は「そういやぁ」と、まるで世間話をするかのような口調で切り出した。
「皐月のことで、ちょいと訊いときたいことがあるんだが……いいかい?」
その言葉に、嘉兵衛ははっとして顔を上げた。
【用語】
・川開き…5月28日に行われる、江戸の年中行事。両国では8月28日まで涼み船が出る。
・戌の刻…現在の19時~21時頃。