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五月晴れ・伍


嘉兵衛(かへえ)さん! これは一体……!?」


 吉田屋に駆けて行った皐月が目にしたのは、物が床に散乱した状態の店内と、(うずくま)る壮年の男であった。


「これは……お嬢様」


 負傷している男――嘉兵衛に駆け寄ろうとする皐月に、奥から別の男の声が掛かった。見れば、手に薬箱を持っている。これから、急ぎ手当をするつもりなのであろう。


「番頭さん、一体何が……」

「大和屋の連中ですよ」


 「番頭さん」と呼ばれた初老の男は、忌々しそうに、その名を口にした。


「奴ら、遂にうちのお客さんにまで手を出しやがりましてね。旦那様が追い返そうとして、この有様です。手前(てまえ)がいながら、情けないことで……面目次第もありません」

「それは良いのです。他の者に怪我は?」

「いえ。旦那様以外は、目立った傷を負った者はおりません」


 言いながら、番頭は嘉兵衛の止血をしていく。時折、嘉兵衛の口からは「うッ」という声が漏れた。

 心配そうにその様子を見守る皐月であったが、刀傷がないことが分かると、ほっと息を吐いた。番頭の話では、転倒が怪我の要因であったようで、出血よりも、むしろ打ち身の方が心配とのことであった。


「旦那様。後は奥で手当ていたしましょう。――お(まん)さん、旦那様をお願いしますよ」

「お任せくださいまし」


 ようやく立ち上がれるようになった嘉兵衛を支えるのは、まだ若い手代である。お万と呼ばれた女は彼らの先に立ち、奥へと誘導する。


「大事なければ良いのですが……。念のため医者を呼んでは?」

「ええ、そういたしましょう。――長吉(ちょうきち)紹庵(しょうあん)先生のところまで、走ってきておくれ」


 丁稚(でっち)を町医者まで走らせると、番頭は店内の指示を出し始めた。


 吉田屋では高価な舶来品を扱っているが、店先に直接商品を出すような真似をしていなかったのが幸いで、売り物の損害はほとんどなかった。僅かに白粉が散っているのは、接客の折に奥から出していたからである。

 だから、使用人が素早く片付けを行うと、店内は落ち着きを取り戻した。いくつか壊された備品があったが、損失からいうと微々たるものである。



「……本当に、大和屋さんが?」


 店内を一通り確かめた番頭に、皐月は尋ねる。その声には、まさかという言葉が含まれていた。


「そうに違いありませんよ」


 番頭は憤慨した様子で言い切った。しかし、きっぱりとした言葉とは裏腹に、根拠を明らかにしない。確たる証拠はないようだ。

 皐月が何と言って良いものかと迷っていると、


「その、大和屋ってのは?」


 突如降ってきた声に怪訝な顔をする番頭。皐月は「あッ」と声を上げた。

 一体今まで何処に行っていたのか――疑問はあったが、とりあえず彼女は説明を加える。


「先ほど、危ないところを助けていただいたのです。それでお礼を、と思ってお連れしたのですが……」

「ああ、左様でございましたか。それはそれは、有難うございます。せっかくお運びいただいたのに、かような有様で、お恥ずかしいかぎりです。少しお待ちくださいましね。(あるじ)に言って参りましょう」


 もう診察も終わっている頃であろう。そう思って、番頭は奥へと引っ込んだ。

 番頭の後ろ姿を眺めた惣十郎であったが、程なくして踏込(ふみこみ)へ、どかりと腰を下ろす。


「で、その『大和屋』云々ってのは何でい?」

「ここ最近、力をつけてきた小間物問屋です。お大名家の御用達を増やそうと、躍起になっているようですが……」

「そいつらが、同業者の邪魔をしてきたってわけか」

「それは、まだ何とも……」


 番頭の話を聞く限りでは、その可能性が高い。しかし、それを肯定するには材料が少なすぎた。


「いつからなんでぃ?」

「確か……二月(ふたつき)ほど前からと聞いております」

「二月前ねぇ」


 惣十郎は懐手にして、天井を見上げる。(はり)までが遠い。越後屋には及ばないものの、吉田屋もやはり江戸を代表する小間物問屋であった。そこへ、


「お待たせして申し訳ありません。奥へどうぞ」


 番頭が現れ、惣十郎を奥へと促す。礼をするから奥まで来てほしい、ということであろう。

 元より、皐月の一件に関わるつもりで来た惣十郎である。彼に断る理由はなかった。



「こちらでございます。――旦那様、お連れしました」


 番頭が断ってから襖を開けると、そこには寝間着姿に着替えた嘉兵衛がいた。部屋の奥に敷かれた寝床で、上体を起こしている状態である。

 顔色は悪くないし、上半身に目立った手当ての様子はない。おそらく足の方を悪くしたのだろうと、惣十郎は考えた。


「このような姿で申し訳ありませぬ」

「いんや、気にしないでくれ」


 そこへ、女中が入ってきて、惣十郎の前に湯呑を置いていく。さっそく、彼はそれを取った。


(かーッ、うめぇ!)


 出された茶は、ほどよく冷めていた。ぐっと飲み干すと、一気に喉が潤う。

 この暑さのなか、王子から歩いて来たのだ。神田市場の砂埃を吸ったことも相俟って、喉はカラカラに乾いていた。


「吉田屋の主、嘉兵衛と申します。この度は、家の者がお世話になりましたようで」


 嘉兵衛は、布団の中で上半身を曲げて頭を下げた。


「大したことはしてねぇよ」


 言いながら、惣十郎は「へぇ」と思う。

 嘉兵衛は「家の者」、と言った。単に縁者を逗留させているだけかと思いきや、そうでもないらしい。随分と親しげだ。


「失礼ですが、お侍様は――」

「永井惣十郎。今は浪人だ」

「永井様でございますか」


 嘉兵衛は頷く。

 ただ、それだけであった。


(ひょっとして、知らねぇのか?)


 皐月が追っている仇、「永井惣十郎」のことを。


 まじまじと嘉兵衛を見るものの、別段変わった様子はない。本当に知らないようだと、惣十郎は判断した。皐月が一言でもその名を口にしていようものなら、無反応であるはずがないからである。


(てこたぁ……まさか――)


 後ろを振り返ると、ぴしりと正座をした皐月と目が合った。彼女の明眸(めいぼう)が細められる。


(余計なことは言うなってか)


 無言の指示を受けて、惣十郎は再び前を向く。女中が持ってきた替えの茶を、これまた一気に口に含むと、今この場で聞いておきたいことを尋ねることにした。


「それより、随分と困ってるようじゃねぇか」

「……お恥ずかしい限りでございます」

「良かったら、事情を話しちゃくれねぇかい? これも何かの縁だ。力になれることがあるんなら、手を貸すぜ」


 人好きのする笑みを見せると、嘉兵衛は言葉に詰まった。おそらく彼の頭の中では、知り合ったばかりの赤の他人に、易々とこちらの事情を話しても良いものかという迷いがあるのであろう。それは後ろに控える番頭も同じであったようで、惣十郎はぴりりとした緊張を背に感じていた。


 しばし、沈黙が続いた。

 嘉兵衛は、その商売人特有の眼力を以て惣十郎を見つめる。目尻の下がった、人の良さそうな表情をしていながら、目の奥は笑っていない。炯眼(けいがん)――まさしくその言葉が当てはまる目つきであった。


(――なるほどねぇ)


 目の前の浪人の意図を読み取ろうとする嘉兵衛。それに気付き、惣十郎は感心した。やはり大店の主、といったところか。


 と、ふっと嘉兵衛の目が和らいだ。緊張が一気にほぐれる。


「よくある話でございます。どこかの同業者の仕業でしょう」


 当たり障りのない返答だ。いかにも商売人らしいやり方に、惣十郎は隠しもせず口を曲げる。


「俺は回りくどいのは好きじゃないんでね。言わせてもらうぜ。大和屋って連中のせいなんだろ?」

「……それは……どうでございましょうか」

「まあ証拠がねぇってのは分かるぜ。けど、大方予想はついてんだろ?」


 惣十郎の一押しに、嘉兵衛は黙る。そこに、番頭から「旦那様……」との呼びかけが発せられた。

 後ろを振り返らなくても、惣十郎には番頭の様子が手に取るように分かった。番頭はこう言っているのだ。ここは事情を話し、手を借りるのも良いのでは、と。


「要は、さっきの連中の雇い主を見付けりゃいいんだろ? 簡単じゃねぇか」

「それは、そうなのですが……」


 嘉兵衛は困ったように目を伏せた。それが出来たらとっくの昔にそうしている――そう思っているのかもしれなかった。

 しかし彼とて、このまま手をこまねいているつもりはないのであろう。この浪人の力を借りるか否か――そろそろ見極めねばならない時である。


 そんな吉田屋の主に、惣十郎の軽快な言葉が投げかけられた。


「なんなら、俺が調べてきてやるよ」

「永井様が?」


 驚きを隠せない嘉兵衛に、惣寿老は「ああ」と答えてから、にやりとする。


「まぁ任せな。ちょいといい案があるんでな」



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