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五月晴れ・肆


 皐月(さつき)、というのが女の名であった。惣十郎が興味本位で生まれ月を訊いてみたところ、やはり皐月の生まれとの答えが返って来た。


「父が名付けてくれたそうです」

「そうかい。いい名前じゃねぇか」

「え……」


 立ち止まって惣十郎の背を見つめる皐月に、惣十郎は振り返って言う。


「なんでい。そんなに驚いた(ツラ)して。そうは思わねぇのかい?」

「いえ、その……」


 茶化した口調で言われ、皐月は口籠る。驚いたのは確かだが、惣十郎が言うような理由からではない。


「五月晴れには、まだ先か」


 唐突に、惣十郎はそんなことを口にした。

 彼の意図を測りかねる皐月であったが、一先ずは言葉通りに受け取り、顔を上向かせる。見れば、江戸上空には障雲がかかり始めていた。

 緩やかに消えていく二人分の影。それを認めると、皐月は小走りで惣十郎に追いつき、言った。


「急ぎましょう。室町(むろまち)に着く前に降らねば良いのですが……」

「そうなったら、そうなった時のことさ」

「ですがッ」

「ま、江戸見物でもしながら行こうぜ」


 慌てた様子の皐月とは対照的に、あくまでも気楽な態度を崩さない惣十郎。皐月からは、何を悠長な、という声が聞こえてきそうであった。

 彼女のむっとした様子に気付いているのか、いないのか――惣十郎は下駄を鳴らしながら、大名屋敷の並ぶ通りを抜けていく。閑静な通りに、からんころんという下駄の音が小気味よく響く。


 「江戸見物でも」と言われたものの、とてもそんなことをする気になれない。かと言って、惣十郎を置いて室町まで走ることも出来ない。


「ふぅ……」


 溜息を一つ。

 皐月はちらちらと空を気にしながら、惣十郎に続くのであった。





 二人が向かう先は南――江戸の東に位置する室町である。


 惣十郎が今回の一件に関わると明言した後、彼は皐月に現状の説明を求めた。具体的には、彼女の滞在先を尋ねたのである。


「室町の吉田屋にご厄介になっております」

「吉田屋……」


 惣十郎は虚空を見つめる。その名前には聞き覚えがあった。


「吉田屋っていやぁ、小間物(こまもの)大店(おおだな)じゃねぇか。何でまた、そんなところに? 縁者でもいるのかい?」

「はい。亡くなった母の実家の分家です。寛永の頃に、江戸に出て商売を始めたそうで……今でも縁があります」

「ふぅん。吉田屋ほどの大店となりゃあ、どっかの大名家の御用達(ごようたし)でも仰せつかってるんじゃねぇのかい?」


 惣十郎の何気ない問いかけに、皐月は足を止めた。砂を擦る音が止んだことに気付いた惣十郎は、緩慢な動作で振り返る。


「松平能登守様のお屋敷に……」


 僅かな逡巡の後に出た名は、つい先ほど惣十郎が口にしたものであった。


「へぇ」

「先ほどの者たちは、やはり――」


 立ち止まり、考え込む皐月。

 難しい顔をする彼女の頭上を、惣十郎のカラッとした声が通り抜けた。


「そりゃあ調べてみねぇことには、何とも言えねぇな」


 至極もっともな言葉にも、皐月の表情は晴れない。今気にしても仕方がないと分かっていながら、それでも考えずにはいられないのであろう。


 生暖かい風が彼女の頬を撫でる。空を見上げると、灰色の雲がゆっくりと江戸を流れていくのが見えた。


「こんなところで、あれこれ悩むことじゃないってこった。まぁその吉田屋に案内してくれねぇか。話はそっからだ」

「……はい」


 皐月とて、そう易々と納得したわけではなかろう。が、ここで立ち止まっていても事は進まない。

 こうして、二人は皐月の逗留先である吉田屋に向かうことにしたのである。





 和泉(いずみ)橋を渡り神田に至ると、人の往来が急に多くなった。


 神田市場は江戸最大の青物市場(あおものいちば)であり、多町(たちょう)二丁目・連雀(れんじゃく)町・佐柄木(さえき)町・須田(すだ)町がこれに含まれる。青物市場といっても、青物だけでなく土物や水菓子を扱う問屋も同地に密集していた。当時の江戸の問屋総数が二九〇軒であるのに対し、実に一〇〇軒近くの問屋が、この神田市場にあったというのだから、その規模は非常に大きなものであったといえる。


 二人は須田町の通りを歩きながら、市場の喧騒を感じていた。


「御免なすって」


 皐月の隣を、まだ若い蔬菜売(そさいうり)が、通りを駆けていく。一通り長屋を廻った帰りなのであろう。背負った籠の中身は少ない。


「きゃッ」


 そうこうしているうちに、後ろから走ってきた棒手振(ぼてふり)の天秤棒が、皐月の腕を掠めた。とっさに反対側へ身体を寄せた皐月は、隣を歩いていた男に軽くぶつかる。


「おっと」

「あッ、申し訳ありません」


 急いで身体を離そうとする皐月を、男――惣十郎は引き留めた。彼女の右腕を引き、自分の方へと寄せる。


「江戸には慣れねぇかい?」

「はい。話には聞いておりましたが、ここまでの人とは……」


 皐月は周囲を見回す。

 通りにひしめき合う店、路上の振売り、行き交う人々――その光景は、目が回りそうなほどである。店先から聞こえる威勢のいい掛け声も、皐月の細い声を掻き消していく。おかげで、惣十郎に言葉を伝えるのも一苦労であった。

 振売が駆けるたびに、乾いた地面から土埃が舞う。口元を袖で押さえながら、皐月は惣十郎の方へ寄った。こうしなければ、簡単に迷子になってしまいそうだ。


「大丈夫かい?」

「はい、何とか」

「ま、高崎から出てきて間もないとあっちゃあ、きついかもしんねぇな」

「ええ……高崎(くに)とは全く違いますから」


 国許を思い出したのか、皐月はそれきり黙ってしまった。

 江戸に出てきたばかりの者が、なかなかこの土地に馴染めないというのは、よくある話である。最近同じ長屋に入った浪人も、江戸を理解するのに苦労しているようであったことを、惣十郎は思い出した。



 今川橋を渡ると、もう本銀(ほんしろがね)町である。こちらもまた、表店(おもてだな)がひしめき合っているが、同じくらい振売の姿が見える。


「お嬢さん。寄っていかんかね」


 若い娘の姿を認めた易者(えきしゃ)が、皐月に声をかけた。武家でも、こうした庶民の文化を好む者は多い。若い娘となれば、占いに興味を覚える者も少なくなかった。


「どうしたぃ?」

「い、いえ……」


 一瞬足を止めた皐月であったが、惣十郎に呼ばれ、直ぐに足を動かした。


「なんでい。おまえさん、ああいうのに興味があるのかい?」

「そんなことはありませんッ」


 ぴしゃりと言う様は、まさしく武家の娘である。喧騒に負けないくらいの声量は、隣を歩いていた惣十郎には、一層はっきりと聞こえた。


 そんな皐月の様子に、惣十郎は目を丸くした後――声を立てて笑った。それに、皐月は呆けた顔をする。何故彼が笑ったのか、分からなかったのだ。

 しかしそれも一瞬のこと。どうやら己の言動が彼の笑いを誘ったらしいと自覚すると、途端に口をぎゅっと結んだ。眉を吊り上げ、立ち止まって笑い続ける惣十郎を置いて、通りを歩き始める。


「お、おいおい」

「早く行かねば、日が暮れてしまいます」

「室町なら、すぐそこじゃねぇか」


 惣十郎の声を背に受け、皐月はずんずんと進む。惣十郎が言うように、室町とは目と鼻の先である。勝手知ったる、とまではいかないものの、ある程度は心得た場所であった。



「あそこです」


 越後屋の巨大な看板が目を惹く室町。一歩脇道を入れば、両替屋の集う駿河町である。その越後屋を少し通り過ぎた辺りで、皐月は足を止めた。


「……やけに静かだな」


 惣十郎が気になったのは、吉田屋の店先だけが、妙に人が少ないということであった。そのわりに、吉田屋に視線を向けている者がちらほらと見える。遠巻きに観察している野次馬の存在が、不穏な空気を作り出していた。

 一体何が起こったのか――店へ急ごうとする皐月の前で、暖簾が揺れた。


「あッ」


 中から現れたのは、肌蹴(はだけ)(しま)柄の小袖を身に付けた、いかにも破落戸(ごろつき)といった風体の男たちであった。そのうちの一人が、店の奥に向かって叫ぶ。


「へっ、今日のところは、これくらいにしといてやらぁ!」


 その声に、下卑た笑いが重なった。

 満足したのか、彼らは野次馬を蹴散らしながら、吉田屋を後にする。同心円状に広がっていく、微かなどよめきを残して。


「ッ……!」


 嫌な予感は的中した。

 その野次馬を見ようともせず、皐月は店の中に駆け込んだ。



【用語】

・寛永…江戸初期の元号。1624年~1644年。1644年12月、正保に改元された。

・小間物屋…舶来品を扱う店。櫛・笄・白粉・煙草などを売る。

・青物…主に葉野菜を指す。なお土物は根菜類、水菓子は果物のこと。

・蔬菜売…青物売とも。八百屋のことで、振売(行商の物売)も行った。

・越後屋…三井越後屋のこと。江戸時代を代表する豪商。江戸後期には、室町~駿河町に巨大店舗を構えている。


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