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五月晴れ・壱



 昨晩から降り続いていた雨も今朝方には止み、今はお天道様が顔を出す江戸・王子。永井惣十郎(ながいそうじゅうろう)は、王子権現からの帰り道を、前方に藤堂(とうどう)家の屋敷を臨みながら歩を進めていた。

 皐月(さつき)下澣(かかん)に入ろうかという江戸では、歩けば汗ばむ陽気である。


(あちぃな……)


 惣十郎は空を仰ぎ見た。雲は少ないものの、長引く五月雨(さみだれ)により、じめっとした空気が払われない。快晴の空がいい加減恋しくなるこの頃である。


(とっとと(けぇ)るか)


 寄り道をする場所もなし。彼は真っ直ぐに長屋へ帰ることにした。


 惣十郎が藤堂家屋敷の前を通っていると、前から女中と思しき女がやって来た。使いにでも出されたのであろう。手に風呂敷を持ち、足早に通りを行く。

 と、その女が惣十郎の姿を認めて足を止めた。


(んん?)


 女の視線を感じ、惣十郎もそちらを見る。すると、女はさっと顔をそむけて、また歩き始めた。


(何だってぇんだ?)


 惣十郎は首を傾げる。女.が顔を隠すように立ち去っていったので、彼女の表情の変化に気付かなかったのだ。

 もし女の顔をまともに見ることができれば、気付けたであろう。彼女の頬が、口にさした薄紅と同色であることを知れば、その心中を推し量ることは難しくない。


 惣十郎は、今年で二十二を数える男である。精悍な顔立ちに、ほどよく鍛えられた身体。どちらかと言えば細身ではあるが、軟弱さはまるで感じさせない。眩しいほどの容姿は、人の目を集めることに慣れている。

 着流しに打刀(うちがたな)を差している恰好は、武の道に生きる者であることを、そして月代(さかやき)にしていない髪型は浪人を思わせた。こうして、周りの風景を楽しむともなく歩く姿にも、一分の隙もない。今も、彼はすれ違ったばかりの女中の視線を背中に感じているほどである。


 通りを歩けば、自然と女の視線を集めることのできる男――それが惣十郎であった。



 女中の目が遠ざかると、惣十郎は別のものに意識を集中させた。


(ふん。まだ付いて来やがる)


 王子権現の辺りから、薄々は感じ取っていた気配。それがはっきりとした形になったのは、大名屋敷の並ぶ、この区画に入ってからである。

 こちらが気付いていることを悟られないよう、歩く速度を落とさずに考える。


(ちょいと誘い出してみるか)


 長屋まで連れて帰る気は毛頭ない。惣十郎は興楽寺(こうらくじ)へと方向を変えた。向こうには竹林がある。大名屋敷の前で大立ち回りは勝手が悪いが、あちらならば邪魔は入るまい。

 不自然にならないよう、わざと風景を眺めるふりをして、興楽寺を目指す。迷いなく歩を進める様は、彼がこの地に慣れた者であることを想像させた。


(やっぱり付いてくるか)


 思った通りの展開に、惣十郎は口元を緩める。面白くなってきた。


(ここいらで仕上げといくかね)


 佐竹(さたけ)家の屋敷をぐるりと回り、そのまま竹林へと進む。速度を速めながら、しかしあくまでも自然に。

 念のため、懐手(ふところで)にしていた片手を出した。惣十郎の勘が正しければ腰の物は必要ないであろうが、油断はしない主義である。



 竹林は冷涼な空気を纏っていた。人畜の姿はなく、ただ笹の葉がそよぐ音が聞こえるのみである。

 じゃり、と粗い砂が擦れる。日陰となる部分の多い場所ではあるが、地面はすっかり乾いていた。ところどころ足裏に感じる砂利を確認しながら、惣十郎は速度を緩める。


(そろそろ来ても良さそうなもんだが)


 人っ子ひとりいない林。襲撃にはおあつらえ向きな場所であろう。


(これ以上奥に行くとなぁ)


 惣十郎は前方を見やる。

 繁みが深くなるにつれて、日の光が遮られる。視界が悪くなることもさながら、足場がやや不安になるのだ。

 進むか、それとも――。

 一瞬の迷い。それは、後方の人物にも伝わったようであった。


 ザッ


 砂の擦れる音。

 気付いてはいたが、相手は女だ。小刻みに聞こえる足音は、小股で歩いているためである。


(来たな。相手は……武家の女か?)


 地面を鳴らすのは下駄ではない。歩き慣れた草履の音であった。


 ザッ、ザッ


 徐々に大きく、そして早くなる足音。近い。


(さぁて、顔を拝んでやるかね)


 ゆっくりと振り返る。

 女はここで仕掛けてくる。その確信があった。


 ザッ


 足音が止まった。


 若い女だ。俯いていて顔が良く見えないものの、年の頃は十八、九といったところか。

 松葉色の小袖が惣十郎の目に入る。よく見ると小花が散らされているが、ほとんど主張をしておらず、遠目には無地に見える。

 落ち着いた色合いから、確かに松葉色は人気がある。柄も地味ではあるが、気品を感じさせる。しかし、年頃の女が着るには些か地味であった。


(後家か?)


 そんな考えが、惣十郎の脳裏を掠めた。


 艶やかさとは縁遠い出で立ちの女は、持っていた風呂敷を胸元に寄せ、くっと顔を上げる。瞬間、惣十郎はそこに白い杜若(かきつばた)が咲いたのを見た。


(へぇ)


 思わず、食い入るように見てしまったのは仕方がなかろう。それほどに、女の容姿は整っていた。

 白粉を塗っているかのような白い肌。染み一つない顔は、日に焼けることを知らないようである。精巧な雛人形を思わせる顔立ちは、しかし頬に差した赤みによって、人であることを証明していた。

 薄い唇からは、小さく息が漏れている。それは緊張か、はたまた単純に体力の問題か。長い間歩かされた女は、呼吸を整えるようにして、再び足を踏み出した。


(来るか――?)


 女は、先ほどすれ違った女中とそう変わらないようにも見える。どこぞの大名家に仕える者と言っても不自然ではない。

 しかし惣十郎は、彼女の目の動きを見逃さなかった。


「で。一体、何の用でい?」


 言い終わるのと、女が動くのとはほぼ同時だった。

 風呂敷が地面に落ちる。踏み込んだ女は一気に距離を詰め、


「っはぁッ!」


 手にしたモノを突きだした。


「おっと」


 惣十郎が左肩を引くと、それ追うように女の身体が動く。裾がはだけるのも構わず、彼女は相手の動作に合わせた。


「なんだってぇんだ」


 向かい合うかたちで問えば、女は刺すような視線を寄越しただけであった。

 美人が睨むと迫力がある。が、それで怯む惣十郎ではない。


「ふん。だんまりかい。……ま、いいけどよ」


 面白くなさそうに、惣十郎。

 その表情に何を感じたのか、女は口を開いた。



「――永井惣十郎、覚悟!」




【補足】

 数え年なので、実年齢はマイナス1~2歳。


【用語】

・皐月…陰暦5月のこと。

・下澣…毎月の20日以後のこと。

・月代…頭髪を前額側から頭頂部にかけて半月形に抜き、または剃り落としたもの。

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