冥府の王ハデスは妻のために焼肉を用意したようです
冥府の王ハデスは今、非常に困っていた。
「ほら、そろそろ食べ頃だよ。なぁ、いい加減食べてくれよ。ねぇ」
言いながら彼は、程よく焼けた牛カルビを妻ペルセポネに勧める。だが、彼女はそれに口をつけようともしなかった。何ならハデスの方を見ようともしない、「私はものすごく怒っています」というオーラを隠そうともしない妻にハデスは溜め息をつく。
愛すべき妻ペルセポネ。彼女が怒っている理由は単純明快、ハデスが浮気をしたからである。つまりはハデスの自業自得である。
だからこうしてご馳走を出して、必死にご機嫌を取ろうとしているのだが……そんな夫を見守るペルセポネの目は、冥府の河のそれより冷ややかだった。
「いや、私、あんたに食べ物勧められるのがまず地雷なんだけど」
香ばしい焼肉の香りが立ち込める中、切り裂くようにペルセポネが告げる。
「そもそも私があんたの妻になったのって、あんたの出した柘榴を食べたせいだし。おかげで一年のうち数か月を、母さんと離れてこうして冥府で暮らさなきゃいけない羽目になったんだから……」
そのくせ浮気するとか、マジありえないんだけど。
汚物を見るような目で睨まれて、ハデスはぎくりと肩を震わせる。
そう、この夫婦の馴れ初めはハデスの一方的な片思いだった。冥府の王ハデス、偉大なるギリシャ神話の三大神の一柱であるハデス。――しかし彼は恋に関して不器用な上に色々と拗らせていた。だから、恋したペルセポネに対し「自分のホームグラウンドである冥府に拉致・監禁」というヤンデレ界隈の中でも高度なムーブをかましてしまったのである。
これにペルセポネの母である豊穣の神デメテルが怒り、最高神であるゼウスが介入したことであえなく彼の恋は終わるかと思われたが……最後の最後にハデスは爆弾を仕込んだ。ペルセポネに冥府の食べ物である柘榴の実を食わせたのである。
冥府のものを食べた者は、冥府で過ごさなければならない――そのルールに則り、ペルセポネは強制的にハデスと夫婦生活を送らなければならなくなった。……そんな状況で浮気されたとなれば、ペルセポネが激怒するのも当然だろう。
焼きたての肉には目もくれず、ただただ怒り続ける妻を前にハデスは肉を焼き続ける。次の肉はタン塩だ。ジュージューと焼けるいい匂いに、ハデスはごくりと生唾をのむ。
正直、ハデスだってこの焼肉は食べたい。
ギリシャ神話の神々にとって肉は高級品だ。かつて人間と神で肉の取り分を決める際、最高神であるゼウスが脂身でくるまれた牛の骨の方を選んでしまったからである。ゆえにこの焼肉は、神々の間でも滅多に食べられない本当に本当に贅沢な品。今まで何をあげても――酒の神バッカスの最高級ブドウ酒、鍛冶の神ヘパイストスの超高級マッサージチェア、美の女神アフロディーテの高保湿化粧水、などなどを貢いでも許してくれなかった妻の機嫌を取るため苦労して手に入れた逸品。それを手ずから調理しているのだから、今度こそ少しは怒りを鎮めてほしいのだが……縮こまりながら、それでも肉を焼き続けるハデスにペルセポネは冷めた声を投げつける。
「どうせさ、どんだけ怒ったって『私が冥府で過ごさなきゃいけないという事実は変わらない』って思ってるんでしょ。だからそうやって簡単に浮気するのよ、だから適当に物で釣っておけばいいって思ってるのよ。そういうの逆に腹立つから。私のこと何だと思ってるわけ?」
「いや……妻として一番大事なのは君だから……本当に……」
「へぇ、そう。全然信じられないね。仮にそうだったとして、よその女に目移りして浮気したってことは変わらないでしょ。最低、最悪。本当、『冥府にいなきゃならない』っていうルールさえなけりゃこんな男……いや、こうなったらむしろ戦の女神アテナ様に武術を習ってあんたを冥府の住人にしてやろうかしら」
「……それは勘弁してください……」
苛立たし気に語り続けるペルセポネに、思わず敬語になるハデス。三大神の一柱、冥府を統べる王もこうなっては形無しだ。しょんぼりしているハデスは、トングから手を離す。すると今度はそのトングを、ペルセポネが握りなおした。
「まぁ、あんたの弟である偉大な最高神もずっと浮気性が治らないもんね。兄弟揃って悪いところが似ちゃった? あのゼウス様のせいで、どれだけヘラ様が泣いたと思う? 仮にも結婚の女神であるヘラ様の気持ち、今になって痛いほどわかるわ」
「いや、ゼウスの浮気癖は兄弟としてもさすがにどうかと思うから……」
「あ、やっぱり同じ男から見てもあんまりだと思うんだ。あれと一緒にしないでほしいって? こうして謝って、焼肉だってご馳走してるんだから許してほしいって? でも、一回は一回だよね。ゼウス様と同じようなこと、やらかした事実は決してなくならないよね」
自らの兄弟にして、ギリシャ神話の人間関係をややこしくしたスケベ雷神の名を出されハデスはますます委縮してしまう。
人でも神でも妖精でも、美人なら構わず手を出す彼に比べれば自分はマシなはずだ……しかしそんなことを言ったらペルセポネがますます怒るのでハデスは何も言わない。ただ叱られた子どものように、黙って俯くことしかできない。
冥府の王の情けないその姿を見て、少しは気が晴れたのかペルセポネは少し冷めてしまった肉に口をつける。だが、ハデスがほっとしたような表情をしたらすかさずその顔を睨みつけた。再びしゅんとするハデスを前にペルセポネは肉を食らう。美味しい、だがそれだけで夫を許す気はなかった。何かもっと、少しは反省するように罰を与えねば……すっかり鬼嫁と化したペルセポネはそこで、はたと思いつく。
「そういえば神々の肉の取り分って、骨も含まれるよね」
「あ、はい……そうです……」
「……なら一つ、この焼肉以外にも食べたいものがある」
ここに来てようやく、希望を述べた妻にハデスは「何!?」と食いついた。
「何でもするから言って!」と縋りつくハデスの目が一瞬、ペルセポネの焼肉に向けられた。「いや、これはあげないわよ」と冷たくあしらいながらペルセポネは焼肉を頬張り、ハデスの顔を見つめる。
「牛骨ラーメン」
「……えっ?」
「豚骨ラーメンってあるでしょ。それの、牛版。牛特有の旨味と、あっさりした後味がすごく美味しいらしいんだよね。食べてみたいな」
「っそれ用意したら許してくれる!? ならすぐ、えっと……」
そこでハデスが言い淀む。
食べ物関連のお願いときたら、豊穣の女神であるデメテルの担当だ。だが、彼女はペルセポネの母親。自分の浮気の後始末を、義母に頼む……最悪すぎる状況にさっと青ざめるハデスへ、ペルセポネはにやりと笑いかける。
「別に、母さんに頼らなくたっていいでしょ。骨をしっかり煮込んで、臭みが出ないよう香味野菜とお酒を入れて……大変だけど、素人でもできないことはない。あんたが本当に、本っ当に反省してるなら、それぐらいできるよね?」
そこでペルセポネの顔が再び冷たくなる。
「てめぇが作れや」
私は焼肉食べて待ってるから。
そう言い放つペルセポネのその顔はまさに冥府の女王というべき、冷徹なものだった。
◇
ハデスが用意した焼肉セットはそれなりに豪勢なものだったらしく、ペルセポネは数日ほど焼肉を堪能した。その食べっぷりは実に素晴らしく、死者の川の渡し守であるカローンは「ペルセポネ様のこんなに楽しそうな顔は初めて見た」と驚嘆したという。
その間にハデスは一生懸命にラーメンの作り方を学び、下処理からあく抜きまで一つ一つ丁寧に取り行い……作られたラーメンは「冥府の王ハデス至高の一品」として他の神々にも振る舞われ好評だったそうだ。




