笑ってよ、カッパちゃん(2)
「いた」
お引っ越しをしてから何日か後、雨が降りました。
私はいつも通りお部屋でおとなしくしていましたが、雨の音を聞いて、ついつい窓の外を見に行ってしまったのです。
引っ越した後も私の部屋の窓からは、歩道と二車線の道路が見えます。だけど、新しい家の窓は全然曇らなくて、いつも綺麗です。もしかしたら、私が寝ている間にお母さんが綺麗にしてくれているのかも知れません。
そんないつも綺麗な窓から外を眺めると、空は灰色で、道路は雨で濡れて濃い灰色になっていました。
突然の雨だったのでしょうか。傘をさし始めた人、走り出す人、平然と歩く人、スピードを落として走る自動車などが見えます。
けれど、私の目はある一点に気づきました。
黄色い花。
それは、あの日のようにくるくると楽しそうに回り、道行く人々にぶつからないようにしながら、あっちこっちに動いていました。
雨の薄暗い景色の中にあって、私はカッパちゃんに夢中になったのです。
それからどれくらいの時間が経ったでしょう。私はあることを思い出しました。
「お母さん!」
部屋を出て私にしては大きな声でお母さんを呼びます。前はお母さんに見せることができなかった。今度こそお母さんに見せてあげるんだと、大急ぎで呼びにいきました。
お母さんは最初びっくりした顔をしていましたが、私が一生懸命に手を引っ張るので早足で二階に上がって、一緒に私の部屋の窓から外を見てくれます。
「あのね、あのね、前のおうちで見えた黄色いカッパのカッパちゃんがね、またお外にいたの」
「あらあ、それは良かったわね。それで、今日はどの辺にいるのかしら?」
お母さんは、前は悲しい顔をしていましたが、今はいつもの優しい顔をしています。
私が「あそこ、あそこ」と指をさしてみせると、お母さんはそちらの方を見てから、私にこう言いました。
「あら、本当にいたわ。楽しそうね」
「楽しそうだね」
でも、お母さんにはカッパちゃんが見えていないことが、分かってしまいました。だって、指さしたところを見たときに、一瞬だけとても悲しそうな顔をしていたから。
* * *
それから三日後のある日。
部屋で本を読んでいると、ピンポーンと玄関のチャイムがなりました。
それからしばらくすると、階段を上がってくる音が三人分聞こえてきます。その足音は私の部屋の前で止まって、ノックの音と、それからほんの少しだけ遅れてお父さんの声が聞こえてきました。
「ひまわり、部屋に入るよ。いいかい?」
「うん」
そうして入ってきたのは、やっぱり三人でした。
お父さんとお母さんと、それから時代劇の岡っ引きのような格好をした女の人が一人、最後に入ってきたのです。
「ひまわりちゃん、初めまして。アタシの名前はリサ。明星リサです。よろしくね」
「よろしく、お願いします?」
リサさんはどうしてここに来たのでしょうか。自宅で知らない人から挨拶されたことに、私は途端に不安になって、お父さんとお母さんを交互に見ました。それで不安が伝わったのでしょう。
「ひまわり。お前、黄色いカッパを着た子供が見えるって言ってただろう?」
お父さんは私を安心させるように、笑顔を崩さず、優しい顔で言いました。私は小さな声で「うん」と返事をします。
「ところが、僕たちにはそれが見えないんだ。病院の先生に聞いても、お前の病気にはそんな症状はないって言うから、これはもしかしたら、良くないものが見えてるんじゃないかと思って、専門家を呼んだんだよ」
「……うん、分かった。明星さんが専門家なのね」
「そうだ」
やはり両親にはカッパちゃんが見えていなかったのです。改めてそのことが分かると、私はなんとも言えずに寂しい気持ちになりました。だけど、目の前にいる明星さんは、私のことを分かってくれるんじゃないかと、胸が高鳴ります。
「明星さん、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくね。あと、リサって呼んでいいよ」
「あ、はい。リサさん」
「じゃあ、僕たちはこの辺で。一階にいますから、何かあったら声をかけてください」
お父さんとお母さんが部屋から出て行った後、私はリサさんにカッパちゃんのことをたくさん話しました。雨の日に外を見ると必ずいること。去年から見かけるようになったこと。黄色いカッパと黄色い傘を持っていること。それから、顔が見えないことと、私がカッパちゃんと呼んでいることを。
「……なるほど。すれ違う人たちは、そのカッパちゃんのことは全然見えていないような感じなのかな?」
「はい、そうだと思います」
「ふむ」
リサさんは、難しそうな顔で顎に手を当て、そして、窓の外を見ながら黙ってしまいました。
「ひまわりちゃん、好きな花は?」
リサさんは突然、表情を柔らかくして私を見ました。
「ヒマワリが好きです。私と同じ名前だから」
「うん、分かった。ありがとう、ひまわりちゃん」
「どういたしまして。えへへへ」
「この後だけど、雨の日に来てアタシもカッパちゃんを見てみたいな」
「すぐ、すぐ、すぐ来ますか?」
なぜだか私は、もう二度とリサさんと会えないような気がして、胸が苦しくなってしまいました。
「そうだね。雨が降ったら、必ずひまわりちゃんと、カッパちゃんにも会いに来る。約束するよ」
「うん、約束。えへへ」
それからしばらく雨は降りませんでしたが、ちょうど一週間が経った日のお昼、雨が降り出して、雨と一緒にリサさんが家に来てくれました。
リサさんの手を引っ張りながら、窓からカッパちゃんを指さして教えてあげると、リサさんは、うんうんと頷いて、部屋から出ていったのです。それからすぐ、外の景色にリサさんが現れました。リサさんは傘もささずにカッパちゃんに近づいて、少し腰をかがめて、また、うんうんと頷いているのが見えました。
でも、それっきりリサさんとは会えませんでした。
お母さんからは、無理に笑顔を作って、「カッパちゃんは妖怪なんだけど、別にひまわりちゃんに悪いことをする妖怪じゃないから、今まで通りにしてて大丈夫なんだって」って教えてくれました。リサさんはきっと忙しくて、調査の結果を両親だけに伝えて、別の仕事に行ってしまったんだなと、少し寂しい気持ちになったことを覚えています。
けれど、その日から両親は今まで以上に私に優しくしてくれて、私はリサさんのことを忘れていきました。
――それから半年経った今、ベッドで横になる私の顔を、両親が泣きながら覗き込んでいます。
いつも診てくれるお医者さんが、聴診器を胸に当てたり、脈を数えたりしていますが、私はどこか夢の中にいるようでした。
だって、部屋の中にカッパちゃんが来てくれたから。
涙が止まらない両親の隙間から、その顔がやっと見えました。
彼女は満面の笑みで、とても幸せそうな顔で微笑んでいました。私とそっくりな顔で。
そうだよ。私、とても幸せだったんだ。
だから、ねえ、お父さんもお母さんも、そんな悲しそうな顔しないで。
私、とっても幸せだったんだから。
ありがとう。
* * *
「というのが、アタシが知ってる桜田ひまわりちゃんなんだけどにゃ、え? うん、うん、そう。彼女は死亡宣告のあと、三時間後に息を吹き返した。それどころか、病気もすっかり治って、そして今、アタシの前に再び現れたんだにゃ。怪盗ボン・キュボーン事件の報告書の中だけどにゃ。それで、ん? そう、そういうことだにゃ。よろしくにゃ。ところで、え? カッパちゃんは結局なんだったのかって? あれは死神だにゃ。残念ながら、何かが混ざっていて正確なところはわからにゃかったけど、ドッペルゲンガーの概念も混ざってたかもしれなにゃ。うん、うん、それ、そう。……例の件? ああ、そっちは問題ないにゃ。スケジュールさえ合えば、いつでも大丈夫にゃ」




