台所
「ーどうぞ」
私が彼の家を訪れたのは、付き合い出して3ヶ月が経った頃。春にはまだ遠い、2月の初めだった。たしか、昼ごろだったと思う。
「お邪魔します」
慣れない口調で答えて、私は玄関を跨いだ。玄関には靴がいくつかあった。彼がデートの時に履いていた見覚えのあるものばかりだった。彼の腰のあたりを見ながら、足跡を辿っていく。すぐに目線を上げることができなかった。
彼が止まった。
顔を上げると、陽の光が目に刺さる。眩しさにかかるモヤが晴れると、自分は彼のメイン部屋に着いていたことに気がついた。ワンルームの綺麗な部屋だった。あるのは仕事用の机と、大きめの本棚。物もそれなりにあるけど、整理されていた。
部屋を眺める。本の背表紙は私に挨拶をしてくれた。アルベール・カミュ、ルイス・キャロル、ヘルマン・ヘッセ。彼の好みである本は、大体外国人が著者だった。
「あ、これって」
私は一冊の本を手に取った。私が先日、彼にプレゼントした本だ。
「ごめん、まだ全部読めていないんだ」
彼は申し訳なさそうに頭を掻く。本の3分の2あたりの場所に、栞が挟んであった。本を開くと、金属に切り絵のように猫が切り抜かれた栞が目に入る。彼のお気に入りの栞だった。私は笑みを浮かべながら、何も言わずに本を閉じた。
「こんな時間だし、何か食べる?」
「うん」
「じゃあ、ソファで休んでいて」
彼は台所に向かい、冷蔵庫の中を探していた。私は部屋にあったソファに腰を下ろす。少し硬めで安心感がある。でも、落ち着かない。何もせずに待っているのが、申し訳ないように感じた。
「何か手伝おうか?」
私は彼に声をかける。冷蔵庫からいくつか材料を取り出して、彼は少し考えた。
「……じゃあ、ベーコンを炒めといて貰える?」
そう言うと、彼は野菜を切り始めた。私はすでにフライパンで準備万端のベーコンを弱火で炒める。気を抜くと、彼の右肩と私の左肩が触れそうだった。
「少し、狭いな」
彼は言う。
「……そうだね」
私は答えた。彼が野菜を切り終わると、部屋にはベーコンの油が跳ねる音だけが響いていた。2人で料理を作るのはこれが初めてだった。初めは、彼が何を作ろうとしていたのかわからなかった。けど、二つ折りのフライパンを持ってきたことで彼の意図が読めた。
「せっかくだし、バターも使おう」
「チーズは好き?」
「全部入らないよ」
「もう一つ焼こうか」
「トマトもあるし、バジルを入れてみない?」
どれが彼で、どれが私の言葉だっただろう。感情が溶け合っていた感覚があった。じっくりと、焼き上がるのを待ったんだ。
お皿に乗せて、味の違う二つのホットサンドをそれぞれ食べた。少し、塩が足りないと思った。その後は、何を話したっけ。小説の話?会社の話?将来の話?上手く思い出せない。けど、楽しかったな。
そんな他愛もない日常から、3年が経つ。
どうして、昔のことを思い出したのだろう?私は手元を見る。甘さが少し足りない菓子パン食べていたんだ。呆れるように息を吐く。
食後、私は少し外を歩いた。まだ肌寒い。初めて彼の家に行ったあの日も、同じことをした気がする。彼は駅まで送ってくれて、私はそのまま帰ったはずだ。寒さで2人とも、ポケットに手を突っ込んだままだった。
少し疲れて、公園のベンチで休憩していた。流れる雲を眺めていると、時間を経つのを忘れてしまう。私が彼にプレゼントをした本を読みながら、時間が過ぎるのを待つ。気がつけば、日は傾き始めていた。
「何してんの」
私を呼ぶ声がした。本から目を離して正面を向くと、買い物袋を持った彼が立っていた。彼も少し薄着で、体の震えを必死に抑え込んでいる。
「何でもないよ」
私はいたずらっぽく答える。彼はため息をついて、空いた手を私に差し出した。
「帰るよ」
私は彼の手を握って、ベンチを立つ。
「今日は何作るの?」
買い物袋を覗き込みながら、私は聞いてみた。
「じゃあ、ホットサンドでもどう?晩御飯だと考えると軽いかな?」
「あの狭い台所で作るんだ」
彼は一瞬考えた。そして、静かに微笑んだ。
「次の部屋も考えなくちゃね」
彼の手を握り込む。外はまだ寒い。けど、梅の蕾が開きかけていた。気がつけば、春は目の前だった。