わたしにはお父さんが2人います
1.
わたしには、お父さんが2人います。きよパパとれんパパです。
きよパパの頭はスーパーコンピューターみたいです。むずかしい計算をでんたくを使わないでさっと解いてしまいます。きおく力も良いです。しんけいすいじゃくはいつもきよパパの1人勝ちです。
れんパパは物知りはかせです。むずかしい本をたくさん読んでいて、何でも知っています。分からない事はれんパパにきけばすぐに教えてくれます。
わたしには、お父さんが2人いるけれど、わたしの顔はお母さんに似ているから、どちらが本当のお父さんなのかは、分かりません。
近所の人たちは、DNAかんていをして白黒つければいいのにと、かげでコソコソ言います。でも、それはできません。白黒つけるという事は、どちらかのお父さんを捨てる事でもあるからです。どちらのお父さんも大切な家族です。だから、お母さんは、近所の人たちからどれだけ悪口を言われても、ぜったいにDNAかんていをしません。
「身をころしてたましいをころしえぬ者どもをおそるな。身とたましいとをゲヘナにてめっしうる者をおそれよ」
お母さんは、イエス・キリストのこの教えが好きです。
どういういみなのか、お母さんにたずねたら、お母さんはこう答えました。
「イエスは弟子たちをあつめてこう言ったの。『あなたたちは、これから、差別やはくがいを受けるでしょう。命を落とす人もいるかもしれません。けれども、はくがいをする人たちは、あなたたちの身をころす事はできても、たましいをころす事はできません。たましいをゲヘナの谷でほろぼす事ができるのは、神さまだけです。はくがい者をおそれてはなりません。おそれるべきは神さまだけです』。この教えは、マイノリティにとって、はげみになるの」
わたしたちはマイノリティです。差別をたくさん受けます。
でも、どれだけ差別を受けても、家族のきずなにヒビが入る事はありません。身をころしてたましいをころしえぬ者たちに、家族のきずなをたち切る事はできないのです。
きよパパもれんパパもわたしと名字はちがいますが、大切な家族です。わたしは、いつまでも、2人のお父さんを、大切にしていきます。
2.
市の教育委員会が作文コンクールを開催するにあたり、市内の各小中学校に向けて、児童生徒に作文を書かせるよう指示した。書かせた作文の中から上手なものだけを担任教師が選び、コンクールの審査員会に提出する。毎年の恒例行事であった。
木下先生のクラスで1番の優等生は、真理恵だった。どちらが生物学的な父親なのか不明だが、しかし、さすが、予備校の名講師 田中清彦と、海外でも売れている小説家 北川蓮太の2人を父親に持つだけのことはある。おまけに、母親は男女平等論者で法学者の秦百合子教授だ。要するに、この家族は、全員インテリなのである。
真理恵の作文は、まず、担任の木下先生によって市の作文コンクールへ送られ、一次選考も二次選考も高評価で通過、残すは最終選考となった。
木下先生は、我が子の合格発表を待つ心持ちで、最終選考の結果を固唾を飲んで待った。だが、結果は、努力賞にすら選ばれなかった。
木下先生は、大学の同期で、コンクールにたずさわった男に、電話をかけた。
「マリエちゃん、残念だったな。たしかに、一次選考と二次選考は、高い文章力と差別に立ち向かう姿勢が、審査員たちの間で好評だった。でも、一次選考と二次選考は、学生のバイトみたいな連中が審査員だ。最終選考は違う。最終選考は、お偉い先生方が審査するからな」
と、電話の向こうの同期が語った。
木下はたずねた。
「それで、最終選考のお偉い先生方はなんて言ってた?」
「内容が倫理に反するから、賞なんてあげられるもんじゃないって」
「どこがどんなふうに倫理に反するって?」
「あまり怒らないでくれよ」
「ああ。怒らない」
「まず、作文を書いた女の子には父親が2人いる。どちらが血のつながった父親なのか、ハッキリさせる気はこの人たちにまったくない。おまけに、自分と父親の名字が違うということは、この子の母親は結婚していないっていうことになるじゃないか。いったいどんな母親なんだろうと、お偉い先生方は、母親について調べた。そしたら、秦百合子教授であることがわかった。わかった途端に、先生方の顔色が変わった。秦教授は、いろんな人に毛嫌いされてるからな」
怒らないでくれよと言われたけれど、木下は、さっそく、はらわたが煮えくりかえりそうになった。
電話の向こうの同期は話を続けた。
「夫婦別姓を認めろ。婚外子差別をなくそう。そこまではいい。結婚しなくても子どもを産める環境をつくろう、とか、不倫と呼ぶな婚外恋愛と呼べ、とか、公人が婚外恋愛をしたら辞職しなくちゃいけないのはおかしい、とか、重婚を認めろ、とか、1人のパートナーだけを一生愛し続けるのは自然の摂理に反する、とか、そんなメチャクチャな主張を世の中に向かって声高に叫ぶもんだから、秦教授には敵がいっぱいいる。おまけに、あの人自身、男が2人もいるもんだから、なおさら世間様からの評判が悪い。そして、作文コンクールのお偉い先生方は、みんな、秦教授をこころよく思ってない人たちばかりだった。特に、女性陣がね」
受話器の向こうから、タバコに火をつける音が聞こえた。
同期は話を続けた。
「母親の正体がわかれば、れんパパの正体もおのずとわかった。小説家の北川蓮太だよ。北川蓮太ほど世界中から蔑まされてる人間はいない。とにかく低俗な小説しか書かないからな」
「でも、北川先生ほど多彩なジャンルを書く小説家はいないよ。知識とか想像力とか才能がよほど豊かでないと、そんな芸当はできない」
と、木下は怒りを噛み殺しながら言った。
「けど、北川作品を深く読まない人は、とにかくレベルが低い小説家という見方しかできないんだよ。作文コンクールのお偉い先生方もそうだった。生徒たちに読書をすすめる立場ではあるけれど、北川作品だけは読んでほしくない。だけど、生徒たちが読書感想文の題材に選んでくるのは、決まって北川蓮太だ。読みやすいからな。そこが先生方にはなおさらお気に召されない」
「田中先生は?」
「きよパパのことか?」
「そう」
「きよパパの正体はちょっとわからなかった。週刊誌でも一般男性としか報じられてないからな。でもここまで来ると、ヤツらを止めることはもうできない。ふたを半分だけ開けてもう一度閉めるなんてことは、人間なかなかできないものだ。ふたを一度開けたら最後まで開けて中を全部覗きたくなるのが、人間のサガってやつなんだよ」
受話器の向こうから、冷蔵庫を開ける音と、缶ビールのふたを開ける音が聞こえた。この男は酒を飲むとおしゃべりになる。だからあえて晩酌中の時間を狙って電話をかけた。
同期はほろ酔いで話を続けた。
「ヤツらはきよパパの正体を調べた。そしたら、元教師で今は予備校の講師をやってる田中清彦であることがわかった」
「あの人、元教師だったの?」
「そうだよ」
数学と英語の名講師 田中清彦もまた有名人だった。彼の講義はわかりやすいと評判で、どんなに数学と英語が苦手な者でも、田中が教えればあっというまに得意科目と化した。本職の教師ですら、教え方を勉強するために田中の講義を聴講しにくるほどだ。木下も、それから木下がいま電話をかけている相手も、ともに田中の講義を聴講しにいったことがある。田中の講義はビデオ販売もされ、これが飛ぶように売れていた。
電話の相手は話を続けた。
「田中先生は高校の数学教師だった。公立のね。オレらと同じ公務員だ。田中先生の専門は数学だったけど、他の教科も全般的にできた。だから、生徒は、わからないことがあると、なんでも田中先生に聞きにいった。あのとおり、教えるのがうまいからな。とても優秀な先生だった。でも、他人の嫁さんと不倫をしてた」
受話器の向こうから、ハッピーターンを食べる音が聞こえた。
同期はハッピーターンを食べながら話を続けた。
「まず、不倫がダンナさんにバレた。ダンナさんは仕返しに、田中先生の職場にチクった。かばってくれる仲間はいなかった。田中先生は生徒からは慕われてたけど、他の教師からは疎まれてたからな。こうして、田中先生は懲戒免職になった。教師、それも公立学校の教師は、不倫をしたら即クビだからな」
「田中先生にそんな過去があったんだ…」
「そうだよ。で、話を作文コンクールに戻すと、きよパパの正体が田中先生であることがわかった。お偉い先生方は、あきれやら不快感やらを通り越して、笑ってしまった。不倫でクビになった高校教師が、今はなにをしてるのかと思いきや、低俗な小説しか書けない低能作家と、バイタみたいな女を仲よくわけっこしてる、ってね」
「バイタとは聞き捨てならないな。本当にそんなこと言ってたの?」
「言ってたよ。たとえどんなに作文を書くのが上手でも、バイタの子どもに賞をあげるわけにはいかないって」
「偉い先生方がそんな差別していいのかよ…」
「世の中そういうもんだよ」
3.
木下先生の心は憤怒で満ちていた。
しかし、いっぽう、作文を書いた本人は、なんにも思っていなかった。
もちろん、木下先生は、落選した理由を、真理恵には伝えなかった。真理恵だけでなく、他の誰にも伝えなかった。
真理恵は、休み時間に、教室で、『ダ・ヴィンチ・コード』の英語版を読んでいた。
クラスメイトが真理恵の周囲に群がる。そして口々に言う。
「マリエちゃんえーご読めるの?」
「これなんて書いてあるの?」
「これどーゆーいみ?」
うっとうしいなあ。日本語版だと漢字が読めないから英語版を読んでるのに…
真理恵は、教室で本を読むのをやめて、図書室で本を読むことにした。
真理恵は図書室が好きだ。給食と鬼ごっこやドッジボールのために学校に来ているような連中は、図書室に寄りつかない。だから真理恵は図書室が好きだ。
うっとうしい連中から逃れるために図書室に来たのに、今度は木下先生がやってきた。
「なに読んでるの?」
作り笑いをしながら木下先生が真理恵に声をかけた。
真理恵は、そっけなく、
「ダ・ヴィンチ・コード」
「ああ、あの映画の原作ね。英語読めるんだ。すごいね」
「漢字が読めないから、英語版を読んでる」
木下先生は言葉を失った。
咳払いをして自分の襟を整えると、木下先生は真理恵の向かいに座り、
「作文コンクール、落ちたのは残念だったね」
真理恵は、本から顔をあげて先生の顔をまっすぐ見ると、まるで当たり前のように、
「そうだね。先生が残念だったね」
木下先生は狼狽した。
「マリエは残念じゃないの?」
「私が賞を取れば、先生は褒められる。でも私は賞を取れなかった。だから、残念なのは、先生のほうでしょ」
木下先生はまた言葉を失った。
「ねえ先生。イエスに子孫がいたら、なんでダメの?」
突拍子もない質問をされて、木下先生は少々面食らった。しかし、真理恵の手元にひろげられている本を見て、
「ああ、ダ・ヴィンチ・コードの話か…。そうだなあ…」
と、視線を上にあげながら(人は考えるときたいてい空を仰ぐ)、ダ・ヴィンチ・コードのあらすじを思い出した。イエスには子孫がいる。けれどイエスに子孫がいてはいけない。端的にまとめるとそういう内容だ。
木下先生は答えた。
「イエス・キリストに子孫がいたら、その子孫があがめられてしまうからじゃないかな。そうなると、教会にとっては不都合なんだよ」
「どうして?」
「人は、教会にではなく、イエス・キリストの子孫に寄付金を払ってしまうから。そうなったら、教会は商売あがったりでしょ?」
「ふーん。やっぱり、お金なんだね」
「そうだよ。世の中、カネだ」
言ってから、木下先生は、自分の発言が他の教師に聞かれていないか、周囲を見まわした。さいわいなことに、図書室には児童しかいなかった。世の中、カネ。それはたしかに事実ではあるけれど、教師が児童にそんなことを教えたら、始末書モノだ。
「それでね。先生。れんパパが、はたさんはイエスの子孫だって言うの。だからママも私もイエスの子孫なの。どうしよう。イエスの子孫なら、ママも私も、カトリック教会から消されちゃう」
秦一族が、朝鮮半島から日本に渡来して、日本に高度な知識と技術を伝えたことは、歴史の教科書に載っている。一寸の狂いもない完璧な円丘を頂いた古墳は、高度な測量技術と数学の知識がなければ造れない。では、測量と数学を日本に伝えたのは誰か。秦一族である。
秦一族が日本にもたらしたものは、測量と数学だけではない。製鉄や、養蚕や、はた織りも日本に伝えた。はたさんが持ってきた技術だから、はた織りと呼ばれている、という説がある。
その秦一族が、イエスの子孫…?
「大丈夫だよ。ダ・ヴィンチ・コードはフィクションだよ」
と、カトリック教会から消されることを心配する真理恵をなだめつつ、
「そうだ。オセロしないか?」
と、図書室にあるオセロ盤を持ってきた。図書室には将棋もオセロも囲碁もある。
4.
たしかに四隅はこちらが抑えた。そうであるにも関わらず、木下は真理恵にオセロで完敗した。木下は白で、真理恵は黒。オセロ盤は、四隅だけが白で、他はすべて黒にいろどられていた。
木下は、真理恵の才能に心をときめかせていた。将来はどんな大人になるのだろう。しかし、いっぽうで、この子どもの才能を摘み取ろうとする大人たちもいる。
職員室に戻り、自分のデスクに着くと、木下先生は、市の教育委員会が発行した広報をひろげた。作文コンクールの記事を探す。あった。最終選考の審査員たちの名前もちゃんと載っていた。どれも偉い肩書きを持つ先生方だ。昔に比べて、女性の審査員がずいぶん多くなった。政治の世界でも、女性の閣僚が何パーセントと逐一報じられるご時世だ。ある程度の数の女性を登用しておかないと、世間からバッシングを受けるのだろう。それは作文コンクールに関しても同じことだ。
「バイタの子どもに賞をあげるわけにはいかない」
こんなこと言ったのは、どいつだ? こいつか? それとも、こいつか?
「木下先生」
広報とにらめっこをしていたら、背後から声をかけられた。ふりむくと、隣のクラスの担任だった。
隣のクラスの担任は言った。
「木下先生。また、保護者の方から、苦情なんですよ。いい歳して結婚していない先生に子どもをまかせられないって。木下先生。あなたはいつになったら結婚するんですか? 保護者から苦情を聞く身にもなってください」
それはおかしい。あなたのほうが、よほど、苦情になるようなことをしている。授業中に子どもたちが立ち歩いて遊んでいるクラスは、あなたのクラスだけだ。いつもいつも、保護者たちと世間話やウワサ話に花を咲かせて、まともに仕事をしない先生がクラスを受け持てば、当然、そのクラスの子どもたちは、まともに勉強をするわけがない。子どもは大人のマネをするのだから。
…と、木下先生は、目の前の、セメントを塗り固めたような厚化粧のババアに言ってやりたかったが、しかし、このババアに苦情を言う人間は1人もいなかった。子どもたちだって、新年度の担任発表のとき、ババアが新しい担任になれば、大喜びするぐらいなのだから。
…いや、ババアに苦情を言った人間が、過去に、3人いた。1人の母親と2人の父親である。
うちの娘はとても勉強ができるのに、なぜこんなにも成績が低いのですか?
去年の1学期の終わりに、その3人は、娘の成績表をたずさえて学校に乗り込んできた。3人とも頭がキレる人たちだったので、ババアがまともにテストを実施していないことや、ババアのクラスは授業が成り立っていないこと、それから、成績はババアの気分次第であることが、すぐにあかるみになった。ババアは涙をポロポロ流して、これでも私は精一杯がんばってるんですと、3人に許しを乞うた。では、具体的になにをどのようにがんばっていらっしゃるのか、ご説明ください、と、秦教授は論理的な口調で追及してきた。だが、ババアは泣くばかりで、話にならない。しまいに、3人は、校長になだめられて帰された。学校を出るなり、すぐに、北川蓮太が腹をかかえて笑った。ババアの厚化粧が涙で崩れて、その顔が、まるで、しっくいがボロボロにはがれた塗り壁のオバケみたいで、ずっと笑いをこらえていたのだという。
後日、ババアは、秦親子のせいでクラスがメチャクチャになっていると、保護者たちに言いふらした。秦百合子は、ますます、嫌われ者になった。しかし、だからといって、百合子はよその保護者たちになんの釈明もしなければ、ババアへの仕返しもしてこなかった。
「あんな嘘を信じる人は、頭が悪いんだから、相手をするだけ時間のムダでしょ」
聡明な百合子は、その一言ですべてを片付けてしまった。
「ちょっと! 聞いてるんですか!? 私は苦情対応係じゃないんです!」
耳をちくわにして聞き流しながら去年のことを思い出していた木下先生に向かって、ババアが声を荒げた。職員室にいた教師たちが、何事かと、こちらを見る。
うるさいなあ。なにが苦情対応係だ。みずから好んで人のウワサ話に首をつっこんでるくせに。
だが、ババアと争うのは無益だ。時間のムダだ。
それよりも、有益なことに時間を使いたかった。ひさびさに、田中先生の講義を聴きにいきたいな。秦一族がイエス・キリストの子孫だという説も、北川先生から詳しく聞きたい。
5.
ざっと200人ぐらいは収容できる大きな教室は、満員御礼だった。高校生や浪人生の他に、社会人の姿もある。どの顔も真剣だった。ふざけている者も、教科書にラクガキをしている者も、居眠りをしている者も、1人としていなかった。だいたい、ここは学校ではない。予備校である。
田中清彦講師は、マイクを手に教壇に立った。大きな教室だから、マイクが必要なのだ。そして、聞き取りやすさを意識した声のボリュームとトーンとリズムで、講義を始めた。
「このクラスを受講されるみなさんは、数学が大の苦手であると、うかがっております。数学どころか、小学生のときからすでに算数が苦手だった、というふうにも、うかがっております。そういうわけで、初回の本日は、算数からおさらいしたいと思います。いきなりですが、この式、解けますでしょうか」
田中講師は、大きな黒板に、教室の最後尾の席にいる人にも見えるぐらい大きな字で、0.3÷0.5と書いた。
「そこのあなた、わかりますか?」
田中講師は、前列から6番目の席にいる、いかにも歴史オタクといった風貌の男子学生を指名した。
「えーっと、えーっと…」
歴史オタクは、一生懸命、自分のノートに筆算をした。えーっと、小数点を右にずらして…。彼は、第二次世界大戦中のイギリスとドイツの暗号解読合戦を語ればピカイチだが、しかし、計算は大の苦手だった。
「0.6です!」
ようやく答えを導き出せたとき、歴史オタクの心は達成感で満たされた。
「正解です。ただし、解くのに1分かかっています。本番の入試なら時間オーバーです」
歴史オタクはしょぼくれた。
「あなた方は、小学校で、まず、小数点を右にずらして、小数を整数にしなさいと教えられたはずです」
田中講師は、黒板に、歴史オタクと同じ方法、つまり、小学校で教えられたとおりの筆算で、この問題を解いてみた。
「まず、小数点を右にずらして、0.3÷0.5を3÷5にします。3を5で割ることはできないので、とりあえず答えを0.にして、3を30にします。そしたら、九九の5の段を順番にそらんじて、答えが30になるものを探します。ごいちがご、ごにじゅう、ごさんじゅうご、ごしにじゅう、ごごにじゅうご、ごろくさんじゅう。5に6をかけると30になる。だから答えは0.6です」
田中講師はチョークを置くと、受講生たちに向き直り、
「これが、小学校で教えられた、正しい計算方法です。しかし、この計算方法では、時間がかかってしまう。じゃあ、どうすれば時短になるのか」
自分の声に傾聴する受講生一同を見まわしてから、田中講師は、黒板にこう書いた。
0.3÷0.5=0.6÷1
「÷0.5を÷1にしてしまえばいいのです。0.5を1にするには、2をかければいいですね? だから、式全体に、2をかけます。こうすれば、一気に問題が簡単になりますね」
教室中から、まさに目からウロコといわんばかりの声が漏れた。
「次は、ちょっと難しくなりますが、同じ方法で解いてみれば、そんなに悪戦苦闘しないはずです」
0.112÷0.25
黒板にそう書くと、田中講師はふたたび歴史オタクを指名して、
「答えはわかりますか?」
「すごい! すぐわかりました! 0.448です!」
「正解。あんなに難しかった小数の割算が、一気に簡単になりました。式全体に4をかければ、÷0.25が÷1になりますね」
そして黒板にこう書いた。0.112÷0.25=0.448÷1
田中講師は、教室を見まわして、流れに追いついていない受講生がいないか、確認をした。大丈夫だ。数学が苦手とはいえ、このクラスは国立大学志望者のためのクラスだ。現時点で、つまずいている者はまだ誰もいない。過去に、偏差値3の高校生を個別指導したことがあったが、あれは骨が折れた。数学よりも、まずは足し算と引き算と漢字からだった。よく高校に入れたなと感心したら、自分の名前さえ書ければ入れる学校なんだと答えた。英語と数学だけはかろうじてできるようになったものの、漢字の読み書きだけはどうにもならなかった。だから日本の大学はあきらめて、マサチューセッツ工科大学を受験した。あそこなら漢字の読み書きができなくても問題はない。結果、合格した。今はパラリンピックアスリートのための義手や義足を設計している。
あの偏差値3に比べたら、今のクラスの講義は、流れ作業みたいなもんだ。なにも考えなくていい。
つまずいている受講生がいないことを確認すると、田中講師は、講義を進めた。
「学校のお勉強は、基本的に、苦行です。ひたすら暗記して、苦しい思いをするのが、学校のお勉強です。ですが、数学だけは、例外です。数学は、いかにラクをするかが、重要なんです。ですから、この講義では、いかにラクして問題を解くのか、それについて、重点的に、お教えしたいと思います。では、次は、分数です」
6.
「田中先生!」
講義が終わり、教室から出ていこうとする田中講師の背中を、聴講生が呼び止めた。田中講師は足を止めて振り返り、
「ああ、これはこれは、木下先生。娘がいつもお世話になっております」
ゆっくりとお辞儀をした。育ちのよさがあふれ出ている。
木下先生も一礼をすると、まずは、講義を褒めた。
「田中先生の講義はいつ聴いても参考になります。ちょうど、私の児童が、分数の計算でつまずいていて、私がどれだけ個別で教えても、理解してくれなくて、でも、田中先生のおかげで、こう教えればいいんだということが、わかりました」
「それはよかったです。お役に立てて光栄です」
「ところで、マリエさんがですね…」
木下先生が、言葉を続けるより早く、田中講師がまたたくまに血相を変えて、
「うちの娘がどうかしましたか!?」
「いえ、マリエさんが、自分はイエス・キリストの子孫だと、北川先生から聞いたとおっしゃるもんですから、北川先生から詳しくお話をうかがえないかと思いまして… 個人的に興味があるものですから」
田中講師は、おだやかな表情に戻って、
「ああ、そのことですか。ですが、あいにくと、レンは取材旅行中ですからねえ… あいつは、いったん取材旅行に行くと、なかなか帰ってこないんですよ」
「そうなんですか…」
「けど、私がわかる範囲であれば、お答えしますよ。その話は私もレンから聞きましたので」
「ありがとうございます」
「だがその前に腹が減った。一緒にメシでも行きませんか」
7.
2人はお好み焼き屋に入った。
生地をかき混ぜながら、田中が言った。
「レンはこだわりが強くてね。一緒にお好み焼きを食べにいくと、混ぜ方が違うだの、焼き方が違うだの、こまごまとした指摘から入って、しまいには小一時間ぐらい講釈です。だから、せっかくのおいしいお好み焼きも、味がしなくなる」
北川のことを揶揄しながらも、木下が生地を混ぜると、そんな混ぜ方ではダメだと言って、混ぜるのも焼くのも田中が担うことになった。
混ぜた生地を鉄板に流しこむ。熱せられた鉄板と高温の油と冷たい生地が反応して、三重奏をかなでる。流した生地の上に豚バラ肉のスライスをのせる。
田中は、お通しのキャベツの浅漬けをパリパリ食べて、
「うちの家族で1番の金持ちはレンですよ。アメリカじゃ、キリスト教系の団体が、レンの本を買い占めてるそうです。たしか、洗礼会っていったっけかな? アメリカじゃメジャーな団体で、信者も結構いるみたいです」
「へえ… その洗礼会が、なんで北川先生の本を買い占めるんですか?」
「青少年に読ませないようにするためです。レンの小説は、アメリカじゃ、青少年をアホにしてしまう有害図書なんだそうです」
「でも、おかげで、北川先生の本はよりいっそう売れる」
「まったくもってそのとおりです。皮肉なもんだ。洗礼会は、宗教団体というより、教育団体としての色が濃くてですね。日本の漫画を、ほとんど、有害図書に指定してるんです。日本の漫画は暴力シーンが多いですからね。でも、字だけの本で有害図書にされてるのは、唯一、レンの小説だけなんですよ。それは誇りに思うべきなのかどうか… まあ、おかげで、レンはわが家で1番の金持ちです」
レンが1番の金持ちだと言いつつも、田中が身につけているものもそれなりに高価だった。ロレックスの腕時計に、肩幅から袖口から脚や腕の長さ太さといった、ありとあらゆる箇所が体型に完全にフィットしたスーツ。あきらかにオーダーメイドだ。左手の薬指には、シンプルなデザインながら、100万円はくだらない結婚指輪がはめられていた。
さて、サイドメニューの天ぷらの盛りあわせが運ばれてきた。
田中は、揚げたての天ぷらをひとつ食べて、
「さてと。洗礼会の悪口を言っても仕方がありませんね。秦一族の話をしましょう」
「お願いします」
「秦一族は、弥生時代から古墳時代へ移る時期に、朝鮮半島から日本に渡ってきました。鉄のスコップとハイレベルな土木技術をたずさえてね。こうして、秦一族がもたらした鉄器と土木技術のおかげで、田畑が格段に広がり、古墳も造られるようになりました。ここまでは学校の教科書に載ってることです」
そこでいったん話を区切ると、田中は店員を呼び止めて、ハイボールのおかわりを頼んだ。木下もビールのおかわりを頼んだ。
田中は話を続けた。
「ここから、教科書に載っていない話をします。秦一族は、元々、弓月の国にいました。今のカザフスタンと新疆ウイグル自治区の国境あたりです。緑はほとんどなく、見渡すかぎり砂漠です。そんな弓月の国から、はるばる日本に、王がみずからやってきました。弓月の王は言いました。『われわれが住んでいる場所は住みづらいので、日本に移住したい。その代わり、日本にはないモノをさしあげます』。日本はこのとき仲哀天皇の時代でした。ヒミコの正体は仲哀天皇の奥さんといわれていますが、さだかではありません。まあ、とにかく、弥生時代の終わりごろです」
ハイボールとビールのおかわりが運ばれてきた。鉄板の上のお好み焼きに気泡ができている。木下がお好み焼きを裏返そうとすると、田中が、
「まだ早いですね」
と、制した。
田中は話を続けた。
「日本から移住の許可をもらった弓月の国の人たちは、たくさんの困難を乗り越えて、日本に渡ってきました。これが秦一族です」
木下は、即座に、こう質問した。
「ちょっと待ってください。秦一族のルーツは、今のカザフスタンと新疆ウイグル自治区の国境あたりなんですよね? これがどうしてイエス・キリストの血筋につながるんですか?」
「秦一族が弓月の国を建てる少し前、ローマ帝国は滅亡への一途をたどっていました。このとき気候変動があって、地球全体が寒くなったんです。おかげで農作物は不作になるわ、北国に住む異民族はあたたかい土地を求めてローマ帝国に攻めこんでくるわ、攻めこんできた異民族が天然痘のウイルスをローマ帝国に持ちこんでくるわで、社会が大混乱になりました。社会が混乱するとブームになるのが、新興宗教です。キリスト教は元々マニアックな宗教でしたが、ローマ帝国が滅びそうになると、爆発的に信者を増やしました」
そこで話を区切ると、田中はお好み焼きを裏返した。最高の焼き加減だ。
田中は話を続けた。
「社会が混乱すると、まず落ちるのが皇帝の支持率です。ローマは民主主義の国ですから、支持率が低い皇帝は玉座から引きずり下ろすことができます。だから、玉座から引きずり下ろされないように、皇帝は防衛策を講じました。皇帝に逆らうな、皇帝をあがめよ、あがめぬ者は死刑にする、という法律を作ったのです。おおかたの国民は、死刑が怖いから皇帝をあがめました。ところが、皇帝をあがめない人たちがいました。キリスト教徒です」
8.
サイドメニューの天ぷらがなくなった。田中のハイボールもカラになった。
木下は店員を呼び止めた。ハイボールおかわり。自分はビールやめてバーボンにしようかな。
田中は礼を言うと、話を続けた。
「キリスト教徒たちは言いました。『私たちがあがめるべきは、神であって、皇帝ではない。それでも皇帝をあがめよと言うのなら、今この場で首をはねてください』。お望みどおりに、たくさんのキリスト教徒が首をはねられました。すると、首をはねられた人たちが、キリスト教内で、殉教者として英雄視されました。首をはねてもはねても、キリスト教徒は減るどころか、どんどん増えていく。殉教者が増えれば増えるほど、キリスト教内はお祭りみたいになっていく。とうとう、皇帝は、キリスト教徒を死刑にするだけでは対処できなくなりました。そこで皇帝はどうしたか。逆にキリスト教を利用したんです。…もう焼けましたね」
鉄板のお好み焼きにソースとマヨネーズをたっぷりかける。ソースの香りがただよう。そしてかつおぶしと青のりをトッピングする。かつおぶしが熱で踊って、これまた良い香りを放った。
田中は、木下の皿にお好み焼きを入れてから、自分の分のお好み焼きを自分の皿にのせた。
アツアツのお好み焼きをハフハフ言いながら食べる。北川先生の手ほどきを受けたおかげで、田中が焼いたお好み焼きは中はフワフワ外はカリカリしてウマい。おかげで酒がすすむ。
田中は話を続けた。
「キリスト教徒は死を恐れない。名誉のためなら死ぬことをいとわない。これは利用できると思った皇帝は、キリスト教をローマの国教にしました。ところがこの時点で、すでに、イエスの死後300年も経っている。この300年の間に、キリスト教は数えきれないほどの宗派にわかれていました。ローマにとって最初の大仕事は、宗派を統一することでした」
田中は酒をハイボールからジンライムに変えた。さっきは豚玉を食べたから、次は海鮮ミックスにしよう。エビの姿焼きも食べたい。
海鮮ミックスの生地を混ぜながら、田中は話を続けた。
「キリスト教の宗派を統一するにあたり、小難しいことを言っている宗派は、まず排除されました。なにしろ、大多数の人間が字を読めない時代です。教義はシンプルであればあるほどいい。そこで注目されたのが、アタナシウス派です。アタナシウス派は、イエスの教えを説くよりも、光の輪を頭にのせた、いかにもご利益がありそうなイエスの絵を見せて、このお方を拝めば天国に行けますよと、民衆に説いてまわりました。この布教方法は、字が読めない人たちに対して、成果があったようです。戦争やら疫病やら飢饉やらで人がいっぱい死んでましたから、なおさら効果があったことでしょう」
生地を鉄板に流しこむ。尾頭つきのエビも一緒に鉄板で焼く。
田中は話を続けた。
「ローマはアタナシウス派を正統な宗派に選び、他をすべて異端としました。異端を信奉する者は火あぶりの刑です。それまでイエスはただの人間にすぎなかったのに、このとき神に昇格されました。そのほうが教義を単純化できるし、布教活動もしやすいからです。聖母マリアの処女懐胎とか、イエスが湖の上を歩いたといった話は、たぶん、このときに作られたと思われます」
鉄板の上で、熱を加えられたエビの色が徐々にあざやかな赤に変わり、そして、エビが背中を丸めていく。
田中は話を続けた。
「ここまでは順調でしたが、イエスを神に仕立てたことで、ひとつ問題が発生しました。イエスが神なら、その子孫も神です。だから、イエスに子孫がいたら、まちがいなく、民衆はイエスの子孫をあがめます。下手したら、イエスの子孫が皇帝になりかねない。だから、ローマは、まず、聖書を改編しました。聖書から、イエスの妻や子どもに関する記述を、ゴッソリ削除したんです。それから、イエスの子孫を、なんとしても消そうとしました」
「そうか。話がつながりました。イエスの子孫は、消される前に逃げた。逃げた先が、弓月の国ってわけですね」
「ご名答」
「で、そこからさらに日本へ行って、秦一族になるってわけですね」
「そういうことです」
「でも、ここで、疑問がわいてきます」
「なんでしょうか」
「なぜ、イエスの子孫は、弓月の国から、さらに日本に移住したんでしょう? なぜ、移住先に日本を選んだんでしょう?」
「それは私も思いました。同じ質問をレンにしたら、レンはこう答えました。日本人の祖先をたどると、じつはユダヤ人に行き当たる。イエスもユダヤ人だから、イエスの子孫は親戚を頼って日本に逃げてきた、と」
「へええ?」
「ユダヤには12の支族がありました。12の支族は仲たがいをして、10と2にわかれました。そこへアッシリアという国に攻めこまれて、わかれたうちの10支族はアッシリアへ連れていかれて、奴隷にされました。アッシリアはすぐに他の国に滅ぼされて、奴隷にされた10支族は解放されました。解放されたあとの10支族の足あとが、わからないんですよ」
エビは、とっくに焼けて、2人の胃袋に入っていった。エビの頭だけが、皿の上に無造作に並んで、なにも言わずに、それぞれが違う場所を、けれども同じ虚空を、ただただ見つめていた。
田中は話を続けた。
「旧約聖書には、『パレスチナ滅ぼされし時は東へ行け。東の海の向こうに楽園がある』と書かれてあります。アッシリアで奴隷にされた10支族は、解放されたあと、旧約聖書にのっとって、東へ行ったのではないかといわれています」
「そして海を渡って、日本にやってきた」
「そうです。たしかに、日本は、パレスチナやアッシリアや弓月の国に比べれば、緑ゆたかな楽園です。あちらは砂漠ですからね。ちなみに、この、日本人の祖先はユダヤ人であるという説を、日ユ同祖論といいます」
「…その日ユ同祖論は、なにか根拠があるんでしょうか?」
「日本の神社に、六芒星(ダビデの星)が刻まれた神社があります。名前は忘れましたが、たしか、京都の神社だって、レンが言ってました。それから、皇室の菊の御紋は、イスラエルの城門にも見られるそうです。他にも、旧約聖書と日本神話には共通点がたくさんみられるそうです」
「でも、六芒星はアフリカにもあるし、菊の御紋によく似た紋章はインドにもあるし、あと、神話だって、どの国も内容はよく似てるそうですよ」
「よくご存知ですね。…おっと、これを忘れちゃいけない。伊勢の伊雑宮は、じつは、旧約聖書のイザヤを祀ってるそうです」
「いざわのみやにイザヤ… もはや、ダジャレじゃないですか(笑)」
「そうです。ダジャレです(笑)。まあ、レンも言ってましたが、私がお話した内容は、これ全部、どこまでが本当なのか、わからないんですよ。秦一族は弓月の国から来たことになっていますが、弓月の国がどこにあったのか、じつはハッキリとわからないんです。だいたい、イエスに子孫がいるっていう話だって、ほぼ都市伝説みたいなものなんです。そもそも、イエス・キリストなる人物は存在したのか、そこからすでにあやしいんです。日ユ同祖論に至っては、ほとんどこじつけみたいなもんです。それに、もし、秦一族が本当にイエスの子孫だったとしても、年代があわないんですよ。イエスの子孫がローマ帝国から逃げるよりも、先に、日本では古墳造りが始まってるんです。矛盾してるでしょ?」
「でも、古墳の造り方を教えたのは、秦一族以外の誰かで、秦一族は、そのあとに来たのかもしれませんよ」
「そういう解釈もできます。歴史というものは、あとからいくらでも作れますからね。ところで、日本最古の歴史書は、なんだかわかりますか?」
「古事記です」
「そう、古事記です。学校ではそう習います。でも、古事記よりも古い歴史書があったことを、ご存知ですか?」
「なんていう歴史書ですか?」
「あいにくと、歴史書の名前はわかりません。古事記と日本書紀ができたあとに燃やされたので」
「なるほど。歴史はあとからいくらでも作れる、ですか」
「そうです。後世に残したくない歴史は燃やしてしまえばいい。おかげで、真相は闇の中です」
9.
さて、ババアのクラスは今年も学級崩壊を起こしていた。授業中に立ち歩いて遊んでいる子どもばかりで、授業がまったく成り立たない。
そんなババアのクラスだが、唯一、授業が成り立つ時間がある。体育のドッジボールだ。
ドッジボールのルールは簡単だ。敵に向かってボールを投げればいい。敵が投げたボールが体に当たればアウト、敵のボールをキャッチできればセーフ、敵のボールが顔に当たった場合もセーフだ。
そのドッジボールでいつも的にされるのは、一星だった。ボールは必ず一星の顔めがけて投げられた。1番の星になれるよう願いをこめて一星と名づけられたのに、一星は勉強もできなければスポーツもできなかった。一星ができることといえば、日本全国の駅名を全部言えることぐらいだった。
スポーツができる子どもならば、顔めがけてボールを投げられてもキャッチするなり避けるなりできるが、しかし、いかんせん、一星は体の動きがノロノロと遅いので、敵が投げたボールはすべて顔に当たった。顔にボールが当たった場合はセーフになるので、コートから脱落はしない。授業終了のチャイムが鳴るまで、一星はひたすらボールを顔に当てられた。
体育の次は、昼休みだった。今日は晴れているから平和だ。晴れた日は、だれもかれも運動場で遊びたいから、一星のことなど構わずに、給食を一心不乱にかきこんで、みんなさっさと運動場に行ってしまう。だが雨の日は大変だ。牛乳を一星のごはんにかけて、牛乳かけごはんを作ってくれたりする。
「おい! ちゃんと食えよ!」
「残したら先生にチクるぞ!」
自分を取り巻いたクラスメイトたちが口々に言う。頭をたたいてくる者もいる。
正直なところ、牛乳かけごはんなんて残したかった。釈迦が厳しい断食修行で命を落としかけたとき、ミルクがゆのほどこしを受けて一命をとりとめたという話は、一星も知っていた。でも、牛乳とごはんがこんなにも合わないものだとは… ミルクがゆの正しいレシピを知ったのは、何年もあとのことだった。
…とはいえ、今日は晴れていてクラスメイトたちが早々と外へ遊びにいってしまったから、おいしく給食を食べることができた。今日の給食は一星の大好きなハンバーグだった。ハンバーグに牛乳をかけられたらたまったものじゃない。
食後に図書室に行った。図書室では、去年一緒のクラスだった秦真理恵が、木下先生をオセロで完敗させていた。木下先生はオセロを片付けて、職員室へ戻っていった。
一星は、真理恵の視界に自分が入り、なおかつ自分の視界に真理恵が入る席、要するに、2人が同時に本から顔をあげれば目があう席を選び、カール・マルクスの『ヘーゲル法哲学批判序説』(日本語版)を読んだ。いっぽう、真理恵は、ダ・ヴィンチ・コードの英語版を静かに読んでいた。
マルクスにしても、ダ・ヴィンチ・コードの英語版にしても、学校の図書室で借りた本ではない。そんな難しい本が、小学校の図書室にあるわけがない。ダ・ヴィンチ・コードは蓮パパから借りたもので、マルクスは市の図書館で借りたものだった。
秦さんは難しい漢字が読めない。でも英語は読める。
ボクは英語が読めない。でも漢字は読める。
秦さんに英語を教えてもらって、ボクが漢字を教える光景を、一星は妄想した。その妄想はとても幸せなものだった。
しかし、真理恵と一星の間を隔てる身分の差は、とうてい埋められないものだった。身分制度なんてとっくの昔に廃止され、日本国憲法は国民の平等をうたっているけれど、それはあくまでも法律上の話であって、現実の学校では、子どもたちの間に、インドのカースト制よりも厳しいヒエラルキーが存在する。真理恵は高貴な身分で、自分は下賤な身分。だから、自分が真理恵に話しかけることは、あってはならない。
10.
真理恵とおたがいに英語と漢字を教えあう妄想にふけっていたら、あっというまに昼休みが終わってしまった。マルクスの本はまったく頭に入らなかった。頭に入ったのは、宗教はアヘンであるというマルクスの言葉だけで、なぜ宗教はアヘンなのか、その理由までは頭に入らなかった。おまけに、せっかく真理恵と目があう席を選んだのに、真理恵と目があうことはなかった。
昼休みのあとは国語の時間だった。
一星のうしろの席は、授業中に、何度も子どもが入れ替わる。入れ替わり立ち替わり、一星をうしろから蹴ったり、背中や後頭部を殴ったりする。けれども一星はガマンをする。国語の時間さえ終われば、あとは終わりの会だ。でも、この終わりの会が、1日でもっとも長い。
チャイムが鳴った。さあ、終わりの会の始まりだ。
終わりの会の司会は日直の児童がおこなう。教卓の前に立った日直が、教室中のクラスメイトたちに向かって、言った。
「きょうの、イヤだったことを、言いましょう」
クラスの児童たちが、威勢よく、ハイ! ハイ! と声を出して手をあげる。ババアのクラスで子どもたちがすすんで挙手をする時間は、このときだけだ。
あまりにも手をあげるクラスメイトが多いので、日直は、仲がいい子を指名する。指名された児童が立って言う。
「きょう、イッセーくんに、じゅぎょう中にうしろからなぐられたので、イヤだったです」
日直の弾劾の声がひびく。
「イッセーくん立ってください。なんでそんなことをしたんですか?」
立たされた一星は考える。考えたところで、なにも答えは出なかった。殴られたのはボクのほうなのに。でも、毎日終わりの会でこんなことをさせられていると、今日殴られた記憶は嘘で、本当は自分が殴っていたんじゃないかと、思えてくる。
「黙ってないで、ちゃんと答えなさい!」
一星が黙って立ち尽くしていると、黒板の端のあたりでパイプ椅子に座っていた担任のババアが怒り出した。
一星は、しどろもどろに、
「授業中に、う、うしろから殴って、ご…ごめんなさい…」
と、先生にあやまった。
「私にあやまってどうするの! ちゃんと殴った相手にあやまりなさい!」
ババアがヒステリックに怒鳴った。
一星は、自分からずいぶん遠く離れた席の、自分が授業中にうしろから殴ったことになっているクラスメイトに向かって、あやまった。
一星が着席するや否や、日直は、
「つぎのひと」
ハイ! ハイ!
またみんなが一斉に手をあげる。
11.
長い終わりの会がようやく終わった。
クラスメイトたちが、このあと遊ぼうという約束を友達としているのを横目に、一星は手早く荷物をランドセルにまとめ、急いで学校を出た。
だが、一星にとっての”手早く”や”急いで”は、他の子どもたちから見れば、カタツムリのごとく動きが遅かった。
一星が学校を出るころには、空き地でたたかいごっこに興じているクラスメイトたちがいた。ああ、終わった…
予想どおり、彼らは一星を見つけると、たちまち彼らの輪の中に立たせ、必殺技の練習台にした。
早く終わらないかな…
痛みに耐えながら一星がそう願っていると、
「やめなよ! かわいそうでしょ!」
と、女の子の声がした。
男子たちは手を止めると、
「なんだマリエか。オマエ、イッセーのことが好きなのか?」
ニヤニヤと真理恵をはやした。しかし、口は不敵に笑っていても、目が困惑していた。子どもたちは、真理恵が英語の本を読んでいると物珍しそうに寄ってくるものの、それ以上深く関わろうとしなかったし、ましてや誰も真理恵と争いたがらなかった。真理恵のことを気持ち悪いと感じる大人さえいるほどなのだ。たとえば去年の担任のババアのように。
真理恵は、堂々と、頭の悪そうな男子たちに歩み寄ると、
「そうだよ。好きだよ。駅の名前全部言えるところが」
「オマエんち、トーチャンが2人いるじゃんか! オマエんち、ヘンなんだよ!」
彼らの中でとびきり頭が悪い男子が、つばを飛ばしながら、一生懸命、反撃した。
「それがなにか? オマエの家なんかより、よっぽど楽しいけど?」
言い返された側は、早くも戦意消失してしまった。
「他になにか言いたいことある?」
真理恵は自信満々に彼らを見まわした。彼らは舌打ちだけして去っていった。ザコめ。
一星は手足をプルプルふるわせ、
「あ、あの、あ、ありがとう」
どもりながら礼を言った。
すると、真理恵は怒って、
「いや、オマエもオマエだろ! なんでアイツらがいる道をわざわざ通っていくんだよ!」
「い、いや、だ、だって、通学路が、き、きまってるから…」
「だったら、通学路が工事で通行止めになってても、ちゃんと通学路を通るの? 動物園から逃げたライオンが通学路をウロウロしてても、ちゃんと通学路を通るの?」
「いや、それは…」
「そうでしょ? 通らないでしょ?」
「うん…」
「じゃあ一緒に帰ろうか。アイツらが仕返しにくるといけないから。駅の名前、全部聞かせてよ」
まさに夢のようだった。今までしゃべったこともない、声をかけることすらおそれ多い、マリエ様と一緒に帰れるとは!
「わっかない、みなみわっかない、ばっかい、ゆうち、かぶとぬま、とよとみ、しもぬま、ほろのべ、」
一星は、意気揚々として、駅の名前を、最北端の稚内から、どもることなく、スラスラと、順番にそらんじていった。富良野まで言ったところで、一星の家に着いた。
「じゃあ、また今度、続きを聞かせてね」
真理恵はバイバイと手を振って、去っていった。
真理恵の背中を見送りながら、なぜ人は嬉しくなるとスキップをしたくなるのか、一星は、はじめてわかったような気がした。
12.
翌日、真理恵とまた一緒に帰りたくて、放課後、昨日と同じ空き地で、わざとクラスメイトたちにいじめられにいった。ところが、真理恵は、知らぬ顔をして、素通りしていった。
やはり、昨日のあれは、夢だったのだろうか。
13.
北川蓮太は、ソンブレロにポンチョという異様な格好で帰国してきた。メキシコにでも行ってきたのかと田中清彦がたずねたら、バッグから出したおみやげは、ヘブライ語が書かれたワインやチーズやチョコレート、それから、死海の泥で作ったフェイスパックだった。イスラエルに行ってきたらしい。
まだ昼だったが、休日で天気もよかったので、自宅のウッドデッキで昼から飲むことにした。イスラエルみやげのワインをさっそく開栓する。真理恵にはイスラエル産の子ども用ワイン(というよりぶどうジュース)をあげた。菊の御紋がイスラエルにもあるように、子ども用のワインもイスラエルにある。やはり、日ユ同祖論は本当なのかもしれない。
ウッドデッキの丸いテーブルの上には、出前のピザが並んだ。ひさびさの家族だんらんだ。
「イスラエルではベーコンピザが食えなかったんだよ」
と、ベーコンピザをウマそうにほおばりながら、レンが言った。
「お肉とチーズを一緒に食べちゃいけないんでしょ?」
ビリー・ジョエルのTシャツを着た百合子が言った。
レンはこう答えた。
「そうなの。イスラム教は豚を食べちゃいけないけど、ユダヤ教は食べたらいけないものがもっとたくさんある。肉とチーズなんかはその代表例だよ。肉とチーズを一緒に食ったらウマいのにな」
ベーコンピザがもうなくなった。
「どうしてイスラム教は豚肉を食べたらいけないの?」
真理恵が蓮パパにたずねた。
「イスラム教は、というより、ユダヤ教も豚肉を食べちゃいけないんだよ。理由は、旧約聖書に豚を食べてはいけないって書いてあるから。この決まりを守らないのは、キリスト教だけだ」
汚職にまみれたユダヤ教を正すためにキリスト教が生まれ、そのキリスト教も汚職がはびこったからイスラム教が生まれたことは、真理恵はすでに知っていた。
蓮パパは娘に説明を続けた。
「でも、旧約聖書に書いてあるから、っていうことだけが理由じゃない。豚って、なんでも食べるんだ。ウンコですら食べるんだ。なんでも食べる生き物は、地球にとってはありがたいお掃除屋さんだけど、もし豚が食べたウンコに、病気のウイルスが入ってたらどうなる?」
「ウイルスが広がる」
「そう。だから豚を食べちゃいけない」
「それでも豚肉を食べてたから、キリスト教圏では病気がまん延してたんだね」
と、ママが蓮パパに言った。ペスト、コレラ、チフス。中世ヨーロッパでは、不衛生が原因で、幾多の人が病気にかかって死んだ。
「じゃあ、なんでユダヤ教はお肉とチーズを一緒に食べちゃいけないの?」
今度は真理恵がたずねた。
蓮パパは、お手上げの様子で、
「うーん。それはわからない」
「でも、キリスト教が、食の戒律をユダヤ教から引き継がなかったからこそ、こうして、ウマいピザを食べることができる。イエスに感謝しよう。アーメン」
清パパがキリスト教信者みたいに十字を切った。
「それで、イスラエルでなにしてたの?」
妻がレンに聞いた。
「古い聖書が発見されたって聞いたんで、行ってきたんだ。いま世界で出回ってる聖書は、後世の人たちが勝手に作りかえたものだからな。古い聖書には、驚くべきことがたくさん書かれていた。イエスはたしかに有能な指導者だったけど、とても暴力的だった。隣人愛をうたうキリストとはほど遠い人物だった」
「そんな聖書が発見されたら、世界中が蜂の巣をつついたような大騒ぎになる」
ニヤニヤしながらキヨが言った。
「そうでしょ。結局、ニセモノだったんだから」
レンは妻とキヨのグラスにワインを注ぎ足し、娘のグラスにも子ども用ワインを注いだ。それから、家族に向かって、演説をするように、こう言った。
「オレはね、秦一族の小説を、10年も前からあたためてきたんだ。こいつを世界に発表して、世界をあっと言わせたかった。けど、ダ・ヴィンチ・コードに先を取られてしまった。いま、イエスの子孫の話を書いたところで、それはダ・ヴィンチ・コードの二番煎じにすぎない。それはわかっている。それはわかっているけど、でも、書きたいんだよ」
「書くのはいいけど、そんなのが世界に発表された日には、私とマリエが消されちゃうから、ちゃんと責任持って守ってね」
ママが冗談まじりに言った。
「もちろんだよ」
蓮パパはにこやかに答えた。
だが、子どもの真理恵には、それが冗談には聞こえなかった。
そして、この3年後に、蓮パパが書いた小説のおかげで、ちょっとした事件が起きてしまったのだ。
14.
一星の母親は悩んでいた。
一星が言葉を覚えるのは早かった。5歳になると、四字熟語も使えるようになっていた。
また、一星は小さいころから地図を見るのが好きで、
「これなんてよむの?」
と、地名の読み方を母親にしばしば聞いては、おそるべき早さで漢字を習得していった。小学校に入る前から、すでに、一星は、新聞を読めるようになっていた。
「この子は神童だ!」
親戚一同、そう騒いで喜んでいたものだった。
しかし、一星が神童だったのは、小学校に入るまでだった。
神童は足し算も引き算もできなかった。どれだけ教えても、できないものはできなかった。
神童ができなかったことは算数だけではない。なわとびも鉄棒もできなかった。足は遅いし、ボールは投げられないし、自転車も乗れなかった。
母親がなによりも心配したのは、一星が友達と遊ばないことだった。学校が終わると、一星はまっすぐ家に帰ってきて、まず新聞を読んだ。それから本を読んだ。
「新聞の前に宿題をやりなさい」
母親は口をすっぱくして言ったが、それでも一星は宿題をやらなかった。計算ができないのだから、宿題をやりようがないのだ。おまけに友達と遊ばないで、家で本ばかり読んでいる。
母親は心配した。もしかして、この子は、脳に障害でもあるんじゃないだろうか…
母親は一星を検査に連れていった。検査の結果、知能に遅れはないとのことだった。むしろ、平均よりも知能が高いとのことだった。
じゃあ、なぜ、計算ができないの? なぜ、この子には友達がいないの? 母親の心配は深刻になるばかりだった。
学年があがるにつれて、一星が顔にあざをこしらえて帰ってくることがあった。どうしたのと母親がたずねたら、ドッジボールで顔にボールが当たったんだと一星は説明した。しかし、一星がいじめにあっていることは、明白だった。
神様お願いです! 息子へのいじめを止めてください! 私が代わりにいじめを受けます! だから、一星をいじめないで…!
近所の神社を連日早朝お参りして、神様に祈った。一星を神社に連れて厄祓いまでしてもらった。しかし、いじめはやまなかった。
パンフレットを持った女性が、インターホンを鳴らして、一星の母親をたずねたのは、そんな時期のことだった。
一星の母親が玄関のドアをあけると、そこには、質素ながらも清潔感のある装いをした、2人組の中年の女性がいた。
訪問者はにこやかに言った。
「私たちと一緒に聖書を勉強しませんか?」
聖書…
もしかしたら、私は、今まで、頼むべき神様をまちがえていたのかもしれない。どれだけ神様にお願いしても、息子へのいじめはなくならなかった…
「イエス様はおっしゃいました。右の頬をぶたれたら左の頬を差し出しなさい。…でも、相手の右の頬をぶつのって、左利きじゃない限り、難しいですよね? これ、どういう意味なのかというと、古代ローマでは、奴隷を殴るときは、手が汚れることを嫌って、手の甲で奴隷を殴ったんです。手の甲で殴ると、自然に、相手の右の頬に当たりますよね? だから、右の頬をぶたれたら、左の頬を差し出しなさい、というわけなんです。自分は奴隷じゃないぞ、というメッセージを、暴力を使わずに、態度であらわしましょう、という意味なんです」
訪問者の話を聞いているうちに、我が子に与えられし苦難をいかにして乗り越えるべきなのか、おぼろげながら見えたような気がした。母親は、もっと聖書を勉強したいと思った。
こうして、母親は、キリスト教系の宗教団体、洗礼会に入信した。日本ではマイナーだが、アメリカではそれなりに信者がいて、北川蓮太の低俗な小説や日本の暴力的な漫画を青少年に触れさせないよう買い占めている、あの団体だった。
15.
北川蓮太は、10年間あたためてきた小説の執筆に取りかかった。もう、ダ・ヴィンチ・コードの二番煎じと言われてもいい。とにかく、オレは書きたいものを書く。
北川のモットーは、中学生にも読みやすい小説を書くこと。だが、中学生には難しいこの物語を、どうすれば、読みやすいように書けるだろう。
北川は、まず、英語で小説を書く。英語で書いてから、日本語に訳すのである。だからこそ、海外でも北川の作品は読まれている。
ああ、それにしても、なかなか難易度の高い題材だ。自分が書いた文章を自分で1行ずつ精査する必要がある。いったん英語で書いてから、日本語に訳してみる。日本語訳は難解になっていないか。
秦一族がイエスの子孫であるという、学術的な根拠はなにもない。でも、レオナルド・ダ・ヴィンチがイエスの子孫だったという学術的な根拠だって、なにもない。ダ・ヴィンチ・コードはいかにもノンフィクションであるかのように書かれているけれど、じつはフィクションである。その証拠に、イエスの子孫が設立し、レオナルド・ダ・ヴィンチも総長をつとめていたとされる秘密結社、シオン修道会は、実在しない。しかし、ダ・ヴィンチ・コードでは、この実在しない秘密結社が、あたかも実在するかのように、書かれている。これは作者のテクニックだ。
そう、シオン修道会なんて、本当は存在しない。なぜなら、イエスの子孫は、日本に亡命したのだから。それを、どうやって、いかにも事実であるかのように、書いていこうか…
執筆をすすめていくうちに、まだまだ取材の足りない部分が多くあることに気がついた。また海外に飛ばねばな…
パソコンのメールには、仕事の依頼が舞い込んでいた。翻訳の仕事だ。やれやれ、この仕事を先にやっつけるか…
16.
いっぽうそのころ、秦教授は、時代錯誤で差別的な制度を変えていこうと、日々奮闘していた。
たとえば、離婚後300日問題。離婚後300日以内に生まれた子どもは、どれだけDNAが一致しなくても、前の夫の子どもになってしまう。
それから、夫婦同姓。結婚をすれば、夫婦のどちらかが姓を変えなければならない。現状は、女性が姓を変える場合がほとんどである。日本国憲法では男女平等をうたっているのに…
あと、戸籍の×印。離婚をすると戸籍に×がつく。こんなの離婚経験者に対する差別だし、いや、差別以前に、戸籍を見れば一目で離婚経験者かどうかわかるなんて、プライバシーの侵害だ。
戸籍といえば、つい先日、婚外子の戸籍表記が、秦教授をはじめとする有識者たちの努力によって、ようやく変わった。今までは、離婚経験者と同じように、婚外子も、戸籍を見れば一目でわかるように記されていた。その表記方法が廃止されたのである。婚外子差別撲滅への輝かしい第一歩だった。
それでも、婚外子への差別は、依然としてあった。遺産相続がそうだ。こちらの法改正はまだ何年かかかりそうだ。
娘のためにも、婚外子差別は、自分が生きている間になんとしても根絶したかった。
「そんな努力をする前に、どちらかのダンナと正式に結婚すればいいのに」
近所のオバサンたちは、秦教授のことを、陰でそうささやきあう。
しかし、それはできない。レンもキヨも大切な家族だ。どちらかを選ぶということは、どちらかを捨てるということでもある。
ローマ帝国の時代、キリスト教徒たちは、皇帝をあがめることを拒否した。そんなことをすれば死刑になるのは承知の上で。
たしかに、皇帝にひれ伏せば、命は簡単に助かっただろう。けれど、それでは、差別に屈服したことになる。キリスト教徒たちは、差別に屈する道を選ばなかった。
身を殺してたましいを殺しえぬ者どもをおそるな。身とたましいとをゲヘナにて滅しうる者をおそれよ。
人を差別をする連中は、その程度の人間でしかない。そんなヤツらに屈することを、百合子も真理恵も望まなかった。
17.
そして一星は中学生になった。
中学生になると、一星へのいじめは、よりいっそう激化した。
一星と真理恵が進学した中学校は、3校の小学校から生徒が集まってくるため、学年の2/3は、他の小学校からの進学者だった。だから、入学式は、ほとんどの同級生と、初対面だった。
入学して1週間も経たないうちに、一星は、今まで面識がなかった同級生たちと、顔見知りになった。つまり、早くもいじめのターゲットにされてしまったのである。
一星は、毎日、休み時間に、クラスのみんなが見ている前で、パンチやキックや関節技の練習台にされた。観衆が取り囲み、ゲラゲラと下品に笑った。
一星と同じクラスになった真理恵は、あのときのように、いじめを止める気になれなかった。だいたい、真理恵は、一星のことが嫌いだった。いや、あの日、空き地でいじめを止めたときまでは、一星のことを尊敬していた。けれども、今は、一星のことが嫌いだ。せっかく、人が、いじめっ子がいる場所を避けて帰るよう忠告したのに、翌日、また同じことを繰り返して、いじめられていた。こんな学習能力のないアホを助けたのかと思うと、真理恵は、無性に腹が立ってきた。だから、一星がどれだけいじめられても、もう助けないことにした。
「ねえマリエ。また一番星がいじめられてるよ。かわいそうじゃない?」
よその小学校から進学してきて、今は隣の席になっている、江本綾乃が、声をひそめて、真理恵に言ってきた。いつのころからか、一星は一番星と呼ばれるようになった。名前の由来をバカにされているのである。
真理恵は、表情ひとつ変えずに、
「それがなにか?」
「それがなにか? じゃないよ。助けてあげないとかわいそうだよ。あんなにやられてたら、一番星、自殺しちゃうよ」
「勝手に死ねばいい」
「どうしてそんなヒドいこと言えるの?」
「助けにいけばわかるよ」
次の授業の先生が教室に入ってきた。
数秒前まで騒がしかった教室は、何事もなかったように静まり返り、生徒たちはお行儀よく席に着いていた。席に着いていなかったのは、ただひとりだけだった。その生徒は、あわてて、されど、モタモタと、自分の席に戻る途中だった。
先生が怒鳴った。
「おい! 一番星! オレが教室に入るまでに席に着いてろって言っただろ! オマエ、何度同じことを言わせるんだ!」
「す、すみません…」
「スミマセンはもう聞き飽きた! オマエ、授業が終わるまで床で正座してろ!」
笑いを押し殺して漏れる息の音が、教室中のいたるところから、聞こえた。
18.
北川蓮太の小説を読むきっかけになるのは、多くの場合、中学校の読書感想文だった。
読書感想文、どうしよう。自分は本を読むのが苦手だし、かといって、もう中学生だから、子ども向けの本で感想文を書くのもカッコ悪いし…
そのような悩みをかかえる中学生たちにとって、救世主になるのが、北川作品だった。なにしろ北川作品は読みやすいし、タイトルが豊富にあるから友達と題材がかぶらないし、なによりも、内容がおバカすぎておもしろいから、サイコーだ。
おマセな子だと、小学校の高学年から、北川作品を読み出す。6年生のとき、真理恵は、クラスメイトの北川ファンから、蓮パパに会ってみたいと言われたことがある。真理恵はことわった。たいして親しくもない相手だったからである。
中学校にあがると、蓮パパに会いたいとお申し込みをする同級生が、小学生のときの比じゃないぐらい、殺到した。隣の席の江本綾乃も、その中の1人だった。
真理恵はお申し込みをすべてことわった。ヤツらが、まるで、カネ持ち男にカネ目的で群がるハエ女のように、見えたからだ。そういうハエみたいな連中はまさにこの世の害虫でしかないことを、真理恵は中学生ながらすでにわかっていた。
たいていの連中は、お申し込みを1回ことわられれば、すぐにあきらめた。要するに、にわかなのだ。にわかでしかもハエ。そんなヤツらに、蓮パパに会う資格などない。ウジの卵なんか置いていかれちゃたまったもんじゃない。
しかし、江本綾乃だけは、あきらめなかった。綾乃は、1度噛みついたら死んでも離れないマダニのごとく、どこまでもついてきた。綾乃の家は反対方向なのに、真理恵の家までついてきたことがある。もちろん、家にはあげなかったが…
真理恵の家までついてくる道中、綾乃はたくさん質問をしてきた。
「いつも家でなにしてるの?」
「音楽聴いてる」
「なんの音楽?」
「ドヴォルザーク」
綾乃はドヴォルザークの交響曲第9番『新世界より』を口笛で吹いた。誰もが耳にしたことのある有名な曲だが、ドヴォルザークという名前を聞いて即座に交響曲第9番につながる中学生はなかなかいない。
「好きな映画は?」
「隠し砦の三悪人」
「黒澤明監督の…! その映画、私も好き!」
スターウォーズはみんな見るけれど、その元ネタになったといわれている隠し砦の三悪人は、よほどの映画ファンでない限り見ない。
「好きな小説家は?」
「谷崎潤一郎」
「ふーん。お父さんじゃないんだ。でも、たしかに、谷崎潤一郎の小説って、マリエちゃんちを連想させるよね」
ようやく漢字を読めるようになった真理恵は、ようやく日本人作家の本を読めるようになった。谷崎潤一郎は衝撃的だった。大正時代から、すでにママやパパのような生き方をする人がいたとは…!
「好きな男の人のタイプは?」
「差別をしない人」
「ああ、それわかる。どんなにイケメンでも、人を差別するようなゴミクズはNGだよね」
いっときの沈黙があった。
綾乃は、思いきって、
「私もね、本当のお父さんが誰なのか、わからないんだよ。うちのママは、男をすぐに替えるからさ。1か月以上つづいた男なんか1人もいない。私には弟と妹がいるけど、みんな父親がわからない。そんな家庭で育ってきたもんだから、いわれのない差別をいっぱい受けてきたよ。特に、近所のババアどもは、ママの陰口ばかりだった。あいつらは、ママの陰口を言うとき、ぜったい、こう言うんだよ。『子どもがかわいそう』って。でも、私らは、かわいそうなんて思ったことが、1度もない。むしろ、ママの悪口を言われるほうが、よっぽどかわいそうだよ。ママはなにも悪いことなんかしてないのに。あんまり頭にきたもんだから、私、近所のババアに言ったことがあるの。『たしかにママは男をコロコロ替えるけど、つねに子どもを1番に考えてますよ』って。そしたら、ババアがさ、『子どもを1番に考えてるのなら、そんなに男をコロコロ替えない』って言うんだよ。『じゃあ、おたずねしますけど、お父さんとお母さんがちゃんといる家庭は、子どもが幸せなんですか?』って言ってやったら、ババア、なんて言ったと思う? 『かわいげのない子どもだねえ』って言うんだよ。その一件以来かな。うちの庭にゴミが捨てられるようになったのは。…ま、隠しカメラでやり返してやったけど(笑)」
「どこにでもいるもんだね。そういうクズは」
「マリエの家も、やっぱり、そういう被害にあったことある?」
「そりゃあるよ。うちのママ、町中どころか、日本中から嫌われてるもん」
「これはこれは、恐れ入りました。うちのママは、せいぜい、半径100メートル以内でしか嫌われてないや」
「まだまだだね」
真理恵の家に着いた。
どんな豪邸に住んでいるんだろうとワクワクしていたが、秦さんの家はごく普通の庭付き一戸建てだった。庭にウッドデッキがある。門には表札がかかっていなかった。かけないほうが無難だろう。普通の家と違うところは、母家の隣にあるコンクリート建てのガレージだった。厳重にシャッターが閉ざされ、防犯カメラもついたガレージには、どんな高級車が眠っているのかわからないが、住人の数より車の数のほうが多いことは、たしかだった。
「じゃあ、また明日」
そう言って、真理恵は家の中に入っていった。
家にあげてもらえることを期待してここまでついてきたけれど、まだまだ、ってわけか…
19.
それでも綾乃はあきらめずに真理恵につきまとった。真理恵は迷惑に感じるどころか、逆に、綾乃に対して好意を感じつつあった。
綾乃のような同級生に、真理恵は会ったことがなかった。真理恵に寄ってくる同級生は、みんな、同じ目をしていた。好奇の目だ。めずらしい動物でも見るような目だ。おまけに、彼らは、決まって、頭が悪かった。いや、勉強ができない、という意味での”頭が悪い”ではない。真理恵に寄ってくる連中の中には、勉強ができる者もいた。しかし、勉強はできても、頭が悪かった。頭が悪いヤツらは、毎日、おもしろいことが落ちていないか犬のように嗅ぎまわって探しまわり、おもしろいことを見つければそれで遊び、なければ腹いせに誰かをいじめ、また、おもしろいことを見つけて遊んでいたとしても、その遊びに飽きれば、やはり退屈しのぎに誰かをいじめた。
そう、頭が悪いヤツらは、おもしろいことを”探す”ことはできても、おもしろいことを”作る”ことはできないのだ。そういうことができる人は、そもそも他人をいじめない。
20.
ある日、教室の真理恵の机の中に、手紙が入っていた。手紙には、稚拙な字で、こう書かれていた。
“江本さんが秦さんの悪口を言ってます”
書かれているのは、その一文だけだった。
具体的にどんな悪口を言ってるんだよ…
真理恵は、手紙の主に、そう言ってやりたかった。しかし、あいにくと、この手紙は、差出人不明だった。
「私の机に変な手紙が入ってたんだけどさ」
授業と授業の間の休み時間に、綾乃は、わざと周囲に聞こえるように、真理恵に言ってきた。周囲では、クラスメイトたちが、友達と談笑していた。一星の姿はなかった。どこかに隠れているんだろう。
綾乃は真理恵に手紙を見せた。
“秦さんが江本さんの悪口を言ってます”
「どんな悪口を言ったの?」
真理恵も、わざと周囲に聞こえるように、
「知らない。手紙を書いた人に聞いてよ」
「誰が書いたの?」
「私じゃないよ。綾乃じゃないの?」
「そんな自作自演してどーするんだよ。だいたい私こんなに字きたなくないし」
「それがね、私のところにも同じ手紙が入ってたの。だから、犯人は綾乃じゃないかなあって思ったんだけど」
真理恵は自分に送られてきた手紙を見せた。
「なるほどねー。字が一緒だねー。それにしても、きったない字だねえ。字を練習して出直してきたほうがいいんじゃない?」
真理恵と綾乃は、おたがいに、友情を感じるようになっていた。
21.
構想に10年、執筆に3年かけて、北川蓮太の力作『ナザレのイエス 秦の王』はようやく完成された。
こんなにも苦労して書いたのに、海外では予想どおりダ・ヴィンチ・コードの二番煎じと称されて売れず、いつも北川作品を買い占めてくれる洗礼会は、てっきり目くじら立てて怒ってくるのかと思いきや、
「日本の秦さんがイエス様の末裔とは荒唐無稽だ。イエス様の子孫が亡命するよりも、先に、秦一族が日本に来ているのに…」
と、静かに学術的に反論をしてきただけで、それ以上かまってくれることはなかった。洗礼会が騒いでくれなかったおかげで、この本はますます売れ残った。アメリカで本を売って儲けたければ、まず洗礼会を騒がせればよいという事実を、あらためて再認識しただけだった。
日本国内でも、『ナザレのイエス 秦の王』は、北川らしからぬ異色の作風と評され、中学生たちからは「つまらない」だの「眠れないときに読むとちょうどいい」だのと酷評で、せめて歴史マニアたちが歴史上の矛盾を指摘して批判の嵐を起こしてくれれば、話題になって売れるのに、そんな嵐さえも起こらず、結局、この力作は、不振に終わった。こんなことなら、思いつきで一晩で書いた小説のほうが、よっぽど売れていた。
それでも、北川自身は、自分が書きたい小説を書けて、満足だった。クリエイターが本当につくりたい作品は、たいてい、世の中から受け入れられないものなのだ。
22.
不振に終わった『ナザレのイエス 秦の王』だったが、それをもっとも身近なところで熱心に読んでいる少年がいた。
少年は、中学生ながら、すでに、大学教授なみの知識を頭にたくわえていた。だから、秦一族イエスの子孫説が、いかに矛盾だらけの説なのか、すでに知っていた。
少年は不安をおぼえていた。
これはまずい。きっと今ごろは洗礼会でなにかが話しあわれているに違いない。十中八九、秦さんと関わるなと言われるだろう。
玄関のほうからドアをあける音が聞こえた。母親が洗礼会から帰ってきたのだ。少年はあわてて『ナザレのイエス 秦の王』を本棚の裏に隠した。
「入るよ」
一言ことわってから、母親が一星の部屋に入ってきた。一星は机に向かってチェ・ゲバラの手記を読んでいた。革命家チェ・ゲバラの最大の大仕事は、武器を持って戦うことではなく、無知な民衆に字を教えることだった。
母親は一星の部屋を見まわした。天井いっぱいまで背丈のある本棚がひしめきあい、そこはさながら本の森だった。森の中が昼でも薄暗いように、一星の部屋は昼でも薄暗く、双子の弟は気味悪がった。
もう、誰も、一星のことを神童と呼ばないどころか、かつて一星が神童だったことさえ、親戚一同、とうに忘れていた。双子の弟がごく普通の中学生に育っているのに、なぜ兄のほうはこんなにも変なのか、誰もが首をかしげていた。弟は弟で、まるで自分には双子の兄なんか最初から存在しないように、学校で振る舞っていた。弟にとって、双子の兄は、一家の恥だった。
それでも、母親は、一星のことを愛そうとした。洗礼会に入ってよかったと思っている。おかげで、息子がどんなに変でも、気に病むことがなくなった。息子はいじめられている。でも息子は誰もいじめていない。そのことを、神様は、きっと、いつか、褒めてくださることだろう。
「一星」
母親が息子の名を呼んだ。一星は本から顔をあげて母親のほうを見る。
母親は言った。
「一星のクラスに、秦さんいるでしょう。秦真理恵さん。その子と、ぜったいに、関わらないでほしいの」
やはりそう言われてきたか…
一星は心の中で落胆しながらも、
「わかった」
「理由は…」
母親が説明するよりも、先に、一星が早口で言った。
「イエス様の子孫をかたるから」
自分でもビックリするぐらい、言葉がなめらかに出てきた。なのに、どうして、学校では、どもってしまうのだろう。
「あら。もう知ってるの。さすがだね。そういうわけだから、秦さんと関わらないようにね」
母親は部屋から出ていった。
一星は声をあげて泣きたかった。
だけど、冷静に考えてみれば、ボクが秦さんとしゃべったのは、小学4年生のときの、1度きりだけだった。秦さんと関わるなという以前に、秦さんと関わるほうが困難を極めているじゃないか…
23.
定期試験が近づいていた。
試験前になると、放課後の部活がすべて休みになる。早く家に帰って勉強しなさいという意味だ。
しかし、すなおにまっすぐ家に帰って勉強をする者など、誰もいなかった。試験前とは、すなわち、遊ぶための期間なのだ。せっかく部活が休みになっているのだから、遊ばないともったいない。
だからといって、中学生にできる遊びは限られていた。ゲームセンターやカラオケに行こうにも、カネがなかった。そして、ゲームセンターとカラオケ以外に、遊びが思いつかなかった。
このころになると、綾乃は、真理恵の家までついてこなくなった。2人は、いつも、わかれ道のところにある公園で、気が済むまで語りあってから、じゃあまた明日と言って、バイバイした。
2人は毎日たくさんのことを語りあった。特に、ババアの悪口に関しては、ネタが尽きなかった。
「オバサンとババアの違いって、なに?」
ブランコに乗りながら、綾乃が質問した。
「オバサンはクソだ。ババアはもっとクソだ」
「じゃあ、クソじゃない人は、なんて呼んだらいいの?」
「お姉さん」
「なるほどねー。お姉さんかー」
「でも、皮肉をこめて、クソババアをお姉さんって呼ぶ場合もある」
「それは、どういうときに使うの?」
「うーん… どういうときに使ったかなー?」
エネルギーをもてあました男子生徒たちが、公園にやってきて、ジャングルジムで遊び出した。本当はカラオケやゲームセンターに行きたかったけれど、カネがないのだ。
そこへ、うさ晴らしをするのにちょうどいいのが、公園の前を通りすぎようとしていた。彼らがそれを見逃すわけがなかった。
一星は公園に連れてこられた。
男子たちは口々に言った。
「おい一番星。もう帰るのか?」
「帰ってなにするんだ?」
「勉強したって、どうせ、点取れねーじゃん」
「けど顔に書いてあるぞ。早く帰りたいって」
「しょうがないな。じゃあ、これ食ったら帰してやるよ」
そう言って、持ってきたものは、ダンゴムシだった。
男子生徒たちは、誰からの指示もなければ、仲間たちとの相談もなかったのに、すばやく4つの役割にわかれた。両側から一星を拘束する役と、一星の口をこじあける役と、ダンゴムシを食べさせる役と、抵抗する一星の脇腹を殴る役だった。見事なチームプレイだった。
「ほら食えよ!」
こじあけられた口にダンゴムシを放り込もうとするも、一星は力をふりしぼって顔をそむける。殴り役が脇腹を殴る。強烈な痛みで力を失う。拘束役の2人がゲラゲラと下品に笑う。抵抗する力がなくなったところで、ふたたびダンゴムシを口に放り込もうとする。すると、今度は、一星が力をふりしぼって口を閉じた。勢いあまって、口をこじあける役の指を噛んだ。
「いってええ!! いてえよお!!」
指を噛まれた者がうずくまって叫ぶ。
「てめえ…!」
彼らは怒って一星を地面に突き倒すと、取り囲んで何度も蹴った。
「やめなよ!」
女の子の声がひびいた。綾乃だった。綾乃が1人で止めにきたのだ。
「毎日毎日、いじめばっかりして、オマエらクズだよ!」
「だって、こいつ、オレの指を噛んだんだよ! ほら、血ぃ出てんだよ!」
歯形がついて血が出た指を、一生懸命、綾乃に見せてきた。
「それがなにか? 毎日オマエらにいじめられてる一番星の痛みを少しでも考えたことがあるの?」
「綾乃。一番星って呼ぶの、やめてちょうだい。ちゃんと一星っていう名前があるんだから」
ブランコからこちらに歩み寄りながら、真理恵が言った。
それから、地面にうずくまっている一星の前でしゃがむと、こう言った。
「一緒に帰ろうか。またいつかのように、駅の名前を聞かせてよ。…いや、駅の名前じゃなくて、今度はマルクスの話がいいかな」
一星は胸がときめくのを感じた。小学4年生のとき、図書室の、真理恵と目があう席で、真理恵はダ・ヴィンチ・コードを、そして自分はマルクスを読んでいた。結局、目があうことはなかったけれど、それでも、真理恵は、ちゃんと、ボクのことを見ていてくれたし、それに、あのときのことを、覚えていてくれてたんだ!
しかし、お母さんに言われたことも、一星は、忘れていなかった。
一星は、意を決して立ちあがると、
「イエスの子孫を勝手にかたる者が、ボクに気安く声をかけるな!」
その場にいた誰もがおどろいた。あれ? こいつ、まともにしゃべれるじゃん… おどろかなかったのは真理恵ぐらいだった。
あっけにとられた彼らのうち、まっさきに我にかえったのは綾乃だった。
「ちょっと! なにそれ! せっかく助けたのに、なにその言い草!」
怒る綾乃の肩に手をおいて、真理恵が言った。
「だから助けたくなかったんだよ。帰ろう」
2人が去ったあと、一星はダンゴムシと芋虫とミミズを食べさせられた。
お母さん! ボク、お母さんに言われたことを、ちゃんと守ったよ!
24.
「一番星… じゃなかった、一星が言った意味って、どういう意味?」
公園を去ったあと、綾乃が真理恵に問うた。
「イエスの子孫のこと?」
「そう。なに言ってるのか全然わからなかったけど」
「蓮パパの小説のことだよ。あのバカめ」
あのバカめ。その言葉は、蓮パパにではなく、一星に向けられていた。
「ナザレのイエス 秦の王?」
「読んでくれた?」
「もちろんだよ。だって、私、マリエのお父さんのファンだもん」
「言っとくけど、あれ、フィクションだからね。私、イエスの子孫じゃないからね」
「わかってるよ。マリエがイエスの子孫だったら、とっくにカトリックの手によって消されてる(笑)」
真理恵は、綾乃の冗談につきあいもせず、まじめな口調で、
「一星のお母さんはね。昔は、毎日神社でお祈りをしてたみたいなの。一星をお祓いに連れていったこともあるみたいなの。たぶん、いじめを止めてくださいって、神様にお願いしてたんだろうね。でも、ある時期を境に、神社をやめて、キリスト教に救いを求めるようになった。それで、たぶん、お母さんに、言われたんじゃないだろうかと思う。『秦さんと関わっちゃいけません』って」
「イエスの子孫をかたるから?」
「そういうことだと思う」
「そういうことね。…それにしても、なんでマリエは一星のお母さんのことそんなに知ってるの?」
「そうだね。なんでこんなに知ってるんだろう」
「一星のことが好きだから?」
「うん。好きだよ。博識なところがね。でも、今日の一件で、やっぱり幻滅してしまった。どんなに博識でも、アホは嫌いだ」
真理恵はため息をついた。綾乃が話のつづきを待っている。
真理恵は言葉を続けた。
「マルクスは言ったんだ。宗教はアヘンである、ってね。どんなに痛い目にあっても、宗教が痛みをマヒさせてくれる。アヘンはモルヒネの原料なんだよ。でも、痛いからって、痛みをマヒさせるためにモルヒネを使ってたら、モルヒネ中毒になるし、痛みの原因を取り除く努力だってしなくなる。苦痛をそらすために神様にすがってたら、苦痛の原因になっている社会悪が、いつまでも社会にはびこることになる。だからマルクスは言ったんだよ。宗教はアヘンである、って」
猫が歩いていた。普段ならば猫にオイデオイデするところだが、今はそんな気分になれなかった。
真理恵は話を続けた。
「そのことをアイツはよくわかっていたはずなんだ。でも、結局、お母さんが神様にすがって、いじめられっ子から脱却する努力を放棄してしまった。いじめるほうもアホだけど、いじめられるほうもアホなんだよ」
「なるほどねー。わかった。じゃあ、一星の目を覚まさせよう」
「どうやって?」
「それはあとで考えるよ。でも、いじめはやめさせなくちゃ。このままだと一星が自殺しちゃう。マリエだって、一星が死んだら、悲しいでしょ? だから、一星を助けるんだよ」
「わかった。また今日みたいなことを言われるかもしれないけど、根気よくがんばろう」
「そうこなくちゃ」
完