ドロドロが見たいです
1.ドロドロが見たいです―1
「じゃあ、多数決で宇津木に決定! 」
僕の叫びも空しく、クラスの連中は厄介事を押し付けられた僕に絶え間ないエールを送っていた。
全くとんでもない連中だ。強引に押し付けられた生きもの係で、更に仕事を押し付けられるなんて。
こんな世界間違っている。
「先生も協力するから、一緒に頑張ろうね」
そんな間違った世界では、唯一清水先生の笑顔だけが僕の救いだった。
清水先生は若くて綺麗で、かわいくて優しくて、そして綺麗だった。
小学校の時、クラスでアゲハ蝶を育てようということになり、何の係にも属していない僕が成り行き上 生きもの係に任命された。初出勤で初任務である。清水先生が協力してくれるのだ。気乗りしないがやるしかない。アゲハ蝶の成長の過程は教科書や絵本で知っていたが、ガラスケースの中にいるこの丸々とした黄緑色の芋虫が、空を自由に飛び回るあの蝶々に成長するとはとても思えなかった。というよりむしろ「成長してるのに縮んでるやないかーい! 」とつっこみをしつつ、僕はクラスメイトが興味を失った
このずんぐりむっくりの芋虫こと「むっくん」を甲斐甲斐しくお世話した。むっくんは毎日毎日何を考えているのか分からない奇妙な顔で葉っぱをモムモムと食べている。
「あんたはもう。食べてばっかりで、本当に空飛べるんか! 」
ガラスケースに向って怒鳴る僕は、恐らくアブナイ子供だったと思う。
そんなハートフルな光景もありつつ、むっくんはみるみる肥えてゆき、そしてある朝枝に登ったまま全く動かなくなっていた。
「むっくん死んじゃった! 」
教室で泣きわめく僕に、担任の清水先生が優しく教えてくれた。
「むっくんは死んでないよ。みんなもいっぱい食べたら眠くなるでしょ? それと同じ。宇津木君がいっぱいお世話してくれたからむっくんも眠たくなったんだね」
それを聞いて安心したが、同時に不安がよぎった。僕は朝起きるのが苦手で、このままずっと眠っていられたらどんなに幸せかと毎朝思っていた。もし、むっくんが僕と同じ気持ちだったら、このままずっと起きないんじゃないかと。
「先生。むっくんちゃんと起きるかな」
不安そうな僕を見て先生は「ふふ」と笑った。そうして悪戯っぽい表情で僕に言った。
「どうかなぁ。ちゃんと起きてくれるか毎朝確かめないとね」
先生の笑顔は特別かわいかった。それから僕は毎朝一番に登校し、誰もいない教室で「むっくん観察」を続けた。先生もたまに教室にやってきては僕と一緒に観察をしてくれた。
毎朝「いつ起きるんだ」とケースに語りかける僕を見て、クラスの連中は僕に「おかん」と言うあだ名をつけたが、僕は(オカンでも何でもいい。とにかくむっくんがちゃんと起きるか確かめなきゃ)という
子供らしい混じりけのない純粋な使命感に燃えていた。決して先生と二人きりになりたかったとか、そんなことはない。しばらく経つと、むっくんは蛹になっていた。
「皆もむっくんと同じなんだよ。いっぱい食べて、いっぱい眠って。そうして少しずつ大人になっていくの」
清水先生は僕たちにそう語りかける。むっくんは、幼虫の時にあった足も、口も、目もなくなった尖った緑色の蛹になった。むっくんはただ寝てるわけじゃない。大人になろうとしているのだと感覚的に理解できた。僕も今は蛹なのだろうか。いっぱい食べていっぱい眠れば、いつか蝶になる日がくるのだろうか。
そうしてまた時が経ち、遂にその時を迎える。蛹の裂け目を見た僕は、皆を連れて急いで校庭へ出た。
朝礼台に置かれたガラスケースを見て、この時ばかりはクラスメイトもむっくんに興味を示し、何人かは「おれエサやったぜ」とか「わたし水かえた」とか自慢し合っていたが、そんなことはこの際どうでもよかった。僕はあれだけ眠っていたむっくんがどんな姿で起きてくるのか。ただそれだけが見たかった。
ピッ。蛹が裂ける。「あっ」僕が呟くが早いか、目覚めたむっくんはずんぐりむっくりなどではない
スマートで立派な蝶に成長していた。しかし羽がうまく開いていない。どうしようかと、先生を見ると先生もキラキラした目でむっくんをジッと見つめていた。
「まだ寝起きだからね。もうちょっと待ってあげようか」
僕はもう一度向き直る。むっくんはくしゃくしゃの羽をゆっくり広げて、パタリパタリと扇ぎ始めた。きっと飛ぶ練習をしているんだ。でも、ずっと寝ていたのに飛べるのかなと疑問に思い、僕は先生に振り向こうとした。瞬間、周囲から「わぁ」という歓声が沸く。皆が僕の頭上を見上げている。僕も視線を追うと、今まで一度も飛んだことのないむっくんが、ずっと葉っぱを食べてばかりいたむっくんが、僕より寝坊介なむっくんが、自分の体よりもずっと大きな羽を懸命に上下させ、僕らの頭上を飛び回っていた。嬉しそうなクラスメイト達。むっくんの名前を呼ぶ子や、抱き合う子。ハイタッチしあう子もいたし、相変わらずお世話自慢をする子もいた。とにかくそこにいる皆が喜びあっていた。僕を除いて。口々に別れの言葉を発するクラスメイト。僕は既に遠くへ飛んで行ってしまったむっくんの軌跡をジッと見つめていた。すると、清水先生が僕に話しかけた。
「よかったね。むっくんちゃんと起きて 」
その瞬間、僕はいつのまにか泣いていた。嬉しかったのか、悲しかったのか理由は分からないけど。とにかく涙が止まらなかった。そんな僕を先生は優しく抱きしめてくれた。見上げると、先生の目にも、僅かに虹色の光が煌めいていた。
「それが僕の初恋の相手、清水先生だ」
「先生、自習中です。静かにしてください」
真夏の教室。冷房の壊れたこの教室の生徒たちからは、受験勉強のストレスと、他に何か別の殺気を感じ、僕は静かに椅子に座った。壊れかけた回転椅子の悲鳴は、悲しくも蝉の大合唱によってかき消される。僕のクラスは特進クラスというだけあって、皆の大学受験への思い入れは強く、高校生ならばそれだけで白米丼ぶり三杯は堅い初恋の話を、いとも簡単に生ごみとして処理できてしまうほどのものだった。ああ、清水先生。あなただったら、この殺伐とした子供たちになんと声をかけてやるのでしょうか。心の中の清水先生に抱きしめられながら、僕は校庭の花壇の上を優雅に散歩する蝶々たちを眺めていた。あの日から幾日、幾年と時は過ぎ、幼かった僕もいつの間にやら高校の教師としてここに縮こまっている。
教員という仕事は、僕の思い描いていた理想とは程遠く、毎日をやるべき仕事に押しつぶされ、僕は自分が教師であるということすら忘れかねない程だった。厳密に言えば、いついかなる時も教師は教師なのだが、そう言うことじゃない。僕がなりたかったのは、書類や答案用紙に寄り添う教師じゃない。僕はあの時の、たった一人の生徒の気持ちに寄り添う清水先生のようになりたかったんだ。しかし時は残酷で
そんな気持ちを抱いたのももう五年以上も前のこと。今年で僕もあの時の清水先生と同じ三十歳になろうとしている。当時抱いていた熱い気持ちは、毎年繰り返される夏の暑さに紛れてどこかへ消えてしまった。
蝉たちの合唱コンクールに飽き始めた頃、ようやく終業のチャイムが鳴る。僕は己の職務を全うするため、生徒たちに怒られない程度の渇と、多大なるエールを送り、長い長い一週間を締めくくった。明日は土曜日。その言葉は、どんな栄養ドリンクよりも僕に翼を授けてくれる。
教室を去ろうと荷物を整理していると、僕の目の前に一人の女子生徒が立っていた。彼女は佐伯結実。
今どき珍しいくらいの、それはそれは見事なおかっぱ頭で、新学期こそ皆の注目を集めていたみたいだが、おかっぱを見ても大学は合格できないと理解したのか、その後誰も彼女に触れることはなくなった。まぁ、それ以外にも問題はありそうだが。しかし、僕は教師である前に一人のいきもの係、もとい人間だ。むっくん、もとい彼女を見捨てるはずもない。僕は清水先生の笑顔を思い出しながら、できるだけ
にこやかに話しかけた。
「佐伯さん、どうかした? 」
彼女は何も言わない。彼女がもじもじしていたら、丼ぶり三杯いけるお話しが聞けるのかとも期待したが、彼女はもじもじどころか微動だにしておらず、ジッと僕を見つめていた。いや、睨んでいた。
「あの……先生また何かしちゃった? 」
彼女は何も答えない。気づけば教室には僕と佐伯さんだけで、半年経って馴染んできた教室が、どこか違う世界に漂流してしまったのではないかと思わせる緊張感に包まれていた。外から聞こえる夏の声だけが、ここが現実世界であることを報せてくれていた。
「あー……先生少し急いでいるんだけどなぁ」
この教室は冷房が壊れているはずだよな。妙に寒くないか。というより、怖い。この子の目。なんでそんなに睨んでるの? 僕は暴言を吐かれても、ましてや殴られてもいなかったが、レフリーが今の僕を見たらいの一番にゴングを叩いただろう。いや、逃げちゃダメだ。悪意には好意で。暴力には愛で立ち向かう。それが教師としての僕の使命だ。
「先生。先程の話ですが……」
「え、先程? ああ、僕の初恋の話ね。感動した? 」
ようやく口を開いてくれた。少しほっとしたが、油断はできない。油断するなって目つきしてるから。僕は何を怒られるのだろうか。
「はい。とても素晴らしかったです」
「え」
彼女の口から流れるさわやかな風が、僕の心の風鈴を優しく鳴らした。なんだ、あんまり話したことなかったけど、めっちゃいい子じゃん。
「一つ質問があります」
「ん? 」
「先生はなぜ、むっくんが蛹になった時、中身を破って確認しなかったのですか? 」
風鈴が割れた。風は思った以上に強烈で、風鈴の代わりに暴風警報がけたたましく鳴り響いていた。何を言っているんだこの子は。いや、落ち着こう。オズの魔法使いだって、台風が吹いてから物語が始まったじゃないか。そうだ。これは始まりを知らせる風。彼女は昆虫の生態に興味があるのかもしれない。僕は運動は苦手だが、彼女の好奇心の風に乗ってやることくらい訳ない。
「あーそれはつまり……蝶々になった後の蛹の中身ってこと? 」
彼女は首を激しく振る。違ったみたいだ。
「じゃあ、蛹を入れていたケージの話……かな」
彼女の首は止まらない。やめて、その動き怖いから!
「いいえ。蛹そのものです」
想定しうる最もサイコな解答だった。
「授業で蛹の中身はドロドロの液体になっていると聞きました。本当にドロドロなのかとずっと疑問に思っていたのです。そうしたら、先程先生が虫の話をしていたので、やっと生のドロドロが聞けると思ったのです。でも、先生は蛹を破らなかった。あんなに成長過程に疑問を持っていたのに。あんなにドロドロに興味を持っていたのに」
彼女は恐ろしい目つきのままそう答えた。僕はそんなにドロドロに興味を持ってはいない。暑さと恐怖でドロドロに溶けてしまいそうだった。しかし、彼女の真剣で真っ二つに切りかかってきそうな眼差しには、こちらも相応の覚悟を持って臨まなければなるまい。いざ。
「期待に添えられなくてごめんね。でも、むっくんは確かに蛹になって、そして蝶々にな
った。つまり、蛹の中身はキミの言うように確実に…ドロドロだったんじゃないかな。うん。わかんないけど」
自分で言っていて怖くなってきた。ドロドロであることがそんなに重要なのか。あのずんぐりのむっくんがドロドロになったことがそんなに知りたいのか。もうあんまりドロドロ言わないでほしい。ドロドロという単語が僕の中の恐怖単語集に記述されるのも時間の問題だった。しかし、僕の捨て身の太刀にも彼女はびくともしていないようで、なおも立ち合いは続く。
「どんな感じですか。シチューみたいなのか、それとももっと固いグラタンみたいなのか」
「それはわからないけども」
「どうして先生はそこまでの熱意を持っていながら確認されなかったのですか」
そこまでの熱意が僕にあったのかわからないけど。しかし、こうも言われっぱなしじゃ僕の立つ瀬がないというものだ。僕は反撃の構えをとる。
「確かに。むっくんがどうやって成長しているのか興味はあったよ」
「だったら! 」
「ただ、蛹を切ってしまったら。中を見てしまったら、むっくんは死んでしまうだろ? 」
彼女の眼力が少し弱まった。どうやら動揺しているようだ。
「中を覗かなくても、想像するだけじゃダメなのかい? 」
「それじゃダメなんです。私も何度も想像しました。糸に包まれ、蛹になった幼虫がゆっくりと融けて、あらゆる臓器が融け合ってドロドロになるところを。でもダメだったんです。そんなの本当のドロドロじゃない。私は生のドロドロがいいんです。先生の生のドロドロが欲しかったんです」
もはや彼女のドロドロへの情熱を止めることは誰にもできない。というか、表現が完全にアウトだった。うちのクラスが時間に真面目で心底良かったと、この時ばかりは生徒たちに感謝した。しかし疑問が残る。ドロドロへの情熱は置いといて、そこまでの興味を持っているのになぜ彼女は行動しないのだろう。自分で育てるなり、蛹を探すなりすれば多少手間がかかるとはいえ、すぐにドロドロへの欲求も解消できそうなものだが。と、我ながら鋭い洞察である。これは切り込むしかない。
おそらくこの一太刀は彼女の眼力を持ってしてもかわすことはできまい。
「あー、佐伯さん、キミの熱意は十分伝わった。でも、そんなに気になるのにどうして自分で確かめないの? 自分で幼虫を育てて、蛹になったら見てみればいいじゃない」
「それは……ダメです。できません。だから先生から聞きたかったんです」
できないって、どういうことだ。まあいいや、次! 弐ノ太刀。
「そこまでの好奇心、僕から聞いたくらいじゃ満足できないでしょ。やっちゃいなよ、ス
パッと。見ちゃえばいいじゃん、ドロドロ」
どうした佐伯結実。今にも泣きそうじゃないか。 いける! いけるぞ! これでトドメだ。参ノ太刀。
「キミの好奇心は確かに認める。だけど、それには行動が伴わなきゃ。好奇心だけじゃ何も変わらないんだよ。蛹が蝶に変態するように、キミもへんた……」
彼女は初めて僕から視線を逸らして、そうして、泣いた。あれ?やってしまった。ちょっと切るつもりが、一刀両断してしまった。座り込んで泣き叫ぶ佐伯結実。先程までの鋭い目からは、美しい透明の雨粒が、夏の光を浴びて虹色に煌めいていた。彼女の泣き声は、夏の声とドロドロに溶けて混ざり合い、教室中に満たされていった。一方、切られてもいないのに、全身から血の気が引いた僕は、今もどこかで優しくほほ笑む清水先生に思い馳せていた。ああ、先生。生徒一人一人に優しく寄り添うとはどういうことなのでしょうか。あなたはどうしていつも笑顔でいられたのでしょうか。願わくば、哀れな僕に、お気持ちご享受ください。夏の日差しに晒され立ちつくす僕の瞳にも、僅かに虹色の光が煌めいていた。




