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木乃香、22歳【06】

いつものように音葉は母親の帰りを木乃香の部屋で待っていた。

音葉の父親はまた日本を離れたようで、前の生活に元通り。結局、木乃香は父親に音葉の事情を聞けず、音葉に父親のことを聞くことはできなかった。音葉が自分から話さないのであれば仕方ない。木乃香は変わらず音葉を見守るだけであった。


木乃香が音葉に目をやると、音葉は紙を繋げて作った鍵盤でピアノの練習をしている。もちろん早い夕食を食べて家事の手伝いをした後だ。

紙で作った鍵盤はもうボロボロになってすり切れている。随分使い込んでいるようだ。音葉は大層ピアノに興味があるようで、毎日毎日木乃香のスマートフォンでピアノの動画を見るか紙の鍵盤で練習をしている。


随分前も朝食のパンについているシールを集めてキッズピアノコンサートに応募したいと相談されたので手伝ったことがある。その後、木乃香もこっそりそのコンサートに応募したが、当たる確率は低いだろう。






ある日の出来事、いつもは木乃香が帰ってきたのをどこからか見て部屋にやって来る音葉であったが、今日はわざわざ木乃香をマンションのエントランスで待っていた。


「お姉さん!」

仕事帰りの木乃香を見つけると、大きく手を振る。もう片方の手には一通の封筒を持っていた。


「どうしたの?珍しいね。」

二人は公園のベンチに腰掛けると改めて話をすることにした。


音葉はわくわくとした様子で木乃香に持っていた封筒を渡した。よほど興奮していたようで、封筒には少しシワが入っていた。


木乃香が封筒から紙を取り出すと、そこには三つ折りにされたA4用紙1枚とチケットが2枚が入っている。チケットには”キッズピアノコンサート入場券”と書いてある。


「すごい!当たったんだね。」

まさかパンの懸賞が当たるとは。音葉の日頃の行いが良いからだろう。


「そうなんだ!それでね…良かったらお姉さんと一緒に行きたいんだけど…」

音葉は喜びを噛みしめながら、木乃香をちらちらと見る。


「えっと…」

木乃香はせっかくの音葉のお誘いに即答できることができない。

開催場所は東京で小学生一人で行くことは難しいだろう。本来であれば親と行くべきだが、母親は頼りにならないし父親は日本に居ない。


心底ピアノが大好きな音葉にとってこのコンサートは夢にも見たものだろう。このコンサートは世界的にも有名な日本人ピアニストの主催らしく、機会があれば直接そのピアニストと触れ合う機会もあるらしい。


「駄目かな?」

嬉しそうな顔が一変、音葉の顔には不安が浮かんでいる。


「わかった。じゃあお父さんに連絡をするから、お父さんがいいよって言ったら一緒に行こうか。」

木乃香はそう言うのがやっとだった。

母親はあてにならないので、遠方にいる父親に聞くしかない。以前名刺もいただいているし、社用メールに連絡させてもらおう。


「うん。わかったよ。」

音葉に笑顔が戻ると、大切そうにチケットをランドセルに仕舞った。






コンサートへ行く日の当日、木乃香はマンションの前で音葉を待つ。


結局、音葉の父親賢介からはすんなりと許可をもらえた。賢介は母親が次男の面倒を見なければいけないので、代わりに遠慮がちの音葉を連れて行ってくれると理解したそうだ。賢介から音葉の母親に話をしたそうで今日はきちんとお金も持たせてもらえるらしい。


母親は木乃香の存在をどう思っているのだろか。音葉は一時から公園で母親を待つことをやめたのを知っている。音葉がどこに居て何をしているのか知っているのだろうか。それとも、音葉がどこで何をしようと興味がないのか。


「お待たせしました。」

エントランスから出て来た音葉は、心無しかそわそわしている。


「時間ちょうどだよ。さ、さっそく行こうか。」

木乃香が微笑むと、二人は肩を並べて歩き出す。

今日の予定はお昼過ぎからコンサートがあり、その後夕食を食べて帰ってくるつもりだ。


「ちょっと調べてみたんだけど、今日のコンサート会場は凄く小さいみたい。だから佐野先生とお話できるかもしれないね。」

定員は100人という小規模なもので、音葉がチケットを当てたのは本当に奇跡だった。

佐野とは主催者の有名ピアニストで、子どもへのピアノの啓蒙活動の一環でキッズコンサートを開いているようだ。


「そうなんだ。楽しみだなー。近くに住んでいるけど、僕東京はまだ2回目なんだ。」

音葉は終始ほくほく笑顔だ。

音葉はこの日のために図書館で佐野先生の本を借りたり、木乃香のスマートフォンで動画を見ていた。知識を十分蓄えて、コンサートに臨む。準備は完璧だ。




会場に着くと木乃香と音葉は中央やや左側の前から3列目に座った。指定席なので見やすい席が確保できるか心配していたが、人数が少ないこともあってはっきりと舞台が見える。


席に座って10分程で開演した。

佐野先生は50代前半の年齢で、丸い眼鏡と垂れ下がった瞳が特徴的だ。佐野先生は子どもにもわかりやすい説明を加えながらピアノの演奏を披露する。ほぼ初心者の木乃香も理解できるほど親切で丁寧なピアノのコンサートだ。


数曲の演奏が終わり、休憩を挟んだ後お待ちかねの佐野先生とのピアノ体験の時間がやってきた。

「それでは今から私とピアノを一緒に弾いてみましょう。時間に限りがあるので3人までです。私と弾いてみたいという人は手を挙げてください。」

佐野先生がそう言うと、数人の子供が元気よく声を出して挙手する。


木乃香が横目で音葉を見ると、音葉はもじもじとして俯いている。手を上げたいが恥ずかしくてなかなか勇気が出ないようだ。

音葉がもじもじしているうちに小学校3年生くらいの女の子が選ばれてしまった。そして、佐野先生と楽しそうに話しながらピアノを弾き始める。


音葉はその音色を聞きながら自分のトレーナーを握りしめている。


「音葉君、次は手を挙げたら?」

木乃香が耳打ちすると、音葉は「でも…」と躊躇っている。


「音葉君。」

木乃香は音葉の拳に手を添える。


音葉は一瞬手の力を緩めたかと思うと、再び手に力を込めて言った。

「僕、やるよ。」

音葉は力強い目で壇上を見つめる。

木乃香は無意識に両手を握って音葉の願いが叶うよう祈る。


「では、次にピアノを弾きたい人は誰かな?」

佐野先生がそう言ったとき、音葉は食い気味に


「はい‼」

音葉は大きな声でそう言って立ち上がった。緊張と不安で顔は真っ赤だ。


「お、元気が良いね。じゃあ次は君にしようか。壇上に上がってきてください。」

木乃香の願いと音葉の気持ちが通じたのか、音葉は佐野先生とピアノを弾けることになった。


音葉はパッと木乃香に振り向いて笑顔を見せる。

笑顔を向けられた木乃香ももちろん笑顔だ。


音葉は荷物を椅子に置くと足早に壇上へと向かう。

木乃香は席から音葉の雄姿を見守った。


「元気な君のお名前は?」

佐野先生に音葉に向ける。


「お、大山音葉です。」

緊張をしながらもしっかりと答える音葉。

木乃香の心情は子供の発表会を見守る母親の気持ちだ。


「音葉君、良い名前だね。音葉君はピアノを習っているのかな?」


「えっと、ピアノ教室には行ってないけど…じ、自分で毎日練習してます。」


「そうか、音葉君はピアノが好きなんだね。じゃあまずは最初に好きな曲を弾いてもらおうかな?」

音葉はこくりと頷くと、椅子に座り鍵盤に手をかけた。


次の瞬間、少し強い鍵盤の音と軽やかなメロディーが流れだした。陽気だが力強さを感じる。

会場の空気は一変し、佐野先生を言葉を失い目を見開き音葉に釘付けだ。


この曲は確か…エルガーの威風堂々。最近音葉がよく見ていた動画の曲だ。

木乃香はいつも紙の鍵盤でピアノを弾いている音葉の姿しか知らなかったために、驚きはより一層だった。


音葉は3分ほどピアノを弾くと区切りの良いところで指を止め、佐野先生の顔を伺うように見た。

会場は音葉への賛美の拍手で包まれる。



「音葉君…君は本当にピアノを習ったことがないの?」

佐野先生は未だに今自分が見た光景を信じられないようで、少し戸惑っているようだった。


「うん…はい。いつもは自分で作った紙の鍵盤で練習してます。」


「…そうか…うん、わかった。じゃあ、今弾いた威風堂々のパートでもう少し良くなる部分を練習してみようか。」

佐野先生は何か考える素振りを見せた後、音葉にアドバイスを始める。

音葉は先生の言葉を一生懸命聞くと、佐野先生のアドバイス通りにピアノを弾こうと頑張った。


佐野先生のレッスンが終わると、音葉は興奮冷めやらぬ表情で席に戻る。

「たくさん褒められてよかったね。」

木乃香はそう言いながらペットボトルのお茶を音葉に手渡した。


「うん…僕…えっと…」

音葉はまだ状況が整理できずに言葉を出すことができない。


「大丈夫だよ。コンサートもあと少しだけど、最後まで楽しもう。今日の感想は夕食のときにでも聞かせてもらえると嬉しいな。」

木乃香の言葉に頷くと、音葉は震える手でお茶を飲むのであった。


すべての演目を終え、席を立ち上がろうとしたとき音葉が木乃香の服の袖を掴んだ。

「どうかしたの?」

動きを止め、木乃香は音葉を見る。


「あの…さっき舞台にいるときに佐野先生に帰る前に保護者と一緒に受付に来てほしいと言われたんだけど…」


「え?そっか…じゃあ、受付に行ってみようか。」


二人が受付に足を運ぶと、控室に案内をされた。

ノックをし控室に入ると、そこには佐野先生一人が居た。


「こんにちは、お時間もらってしまってすみませんね。」

佐野先生に促されてテーブルの席に着く木乃香。

音葉には少し離れたソファ席へ座るよう促し、オレンジジュースやピアノの本を進める。音葉は初めて見るピアノ雑誌にすぐに夢中になり世界に入り込んだ。



「音葉君と話したときに、保護者と一緒に来るよう頼んだのですが、音葉のお姉さんですか?」

佐野先生が聞く。


「いえ、血縁者ではないんですけど…音葉君の母親の代理で連れてきました。音葉君とは同じマンションの住人です。えっと、ご紹介遅れまして申し訳ございません。花咲木乃香と申します。」

木乃香はそう言うと、佐野先生に名刺を渡した。


佐野先生は名刺を丁寧に受け取ると、話を続ける。

「今回お呼びしたのは、音葉君のピアノのことについてです。音葉君は本当にピアノ教室や先生に習っているわけではないのですか?」


「私も詳しいことは知らないんですけど、彼がピアノ教室には行っていないのは確かです。基本的には家で紙の鍵盤で練習をしていて、時々チャンスがあれば小学校の音楽室でピアノを触ってるみたいです。」


「そうですか…。私もプロのピアニストとして長いですが、こんなに才能を感じた子に出会うのは初めてです。」

佐野先生は音楽雑誌を読んでいる音葉をしみじみ見る。それにつられて木乃香も音葉を見た。


「お恥ずかしながら私はあまりピアノのことを知らなくて…すみません。」


「いえいえ、謝っていただくことではありませんよ。音葉君はこれからも本格的にピアノを習うつもりはないんでしょうか?」


「どうなんでしょう…音葉君はご家庭に遠慮しているみたいでピアノ教室には行くことを考えてないと思います。」

実際は遠慮しているというよりも、あの母親に相談できないというのが大きいのだろうが。彼は今のままでも十分満足しているようにも思える。高望みをすることを知らないのだ。


「非常に惜しいですね。私としては彼の才能をここで埋もれさせたくない。」

その気持ちは木乃香も同じだが、音葉の今の環境では難しいことだろう。


「音葉君の親御さんに私から連絡をしたいのですが、お手伝いいただけますか?」


「…えっと……」

木乃香はどう返答をするのか悩み口を閉ざす。


音葉にとってこれはとても良いチャンスだろう。有名なピアニストに見初められ、その彼が援助したいと言っている。こんなチャンスは滅多にあることではない。木乃香としても音葉に思う存分ピアノを弾いてほしいと思う。

ただ、やはり引っかかるのは音葉の家庭環境だ。母親にこのことを伝えても即却下されるだろう。子供も大雨の中野宿させる母親だ、良い方向に行くとは到底思えない。


木乃香は散々考えた挙句、佐野先生にこう提案した。

「…音葉君の父親が海外にいるのですが、私がその方にまず連絡を取ってみます。その後、音葉君の父親から佐野先生にご連絡を差し上げるという形でも良いでしょうか?」

なんとも歯切れの悪い返事だが、木乃香はこう返事をする以外思いつかなかった。


その言葉に佐野先生は何か察したようで、少し険しい顔を見せる。今日の音葉の服装はニットの下にワイシャツを着ているのだが、それにはアイロンがかかっておらずしわしわだ。加えて、木乃香の歯切れの悪い保護者に関する返事、何かを察する要素は多くある。


「…申し訳ないです。」

木乃香はやるせなく謝る。


「いえ、ご助力ありがとうございます。では、私は音葉君のお父さんの返事を待つことにしますね。私も音葉君のためにできる限りのことをしたいので、何かあったら遠慮なく頼ってください。」

佐野先生はそう言うと木乃香に自身の連絡先を渡した。






「何話してたの?」

コンサート会場を出ると、音葉が木乃香に聞いた。


「え?…佐野先生は音葉君にピアノの雑誌を見せてあげたかったんだって。音葉君が雑誌を見てる間に私と佐野先生は雑談をしてただけだよ。」

木乃香が慌てて答える。我ながら答えになっていない返答で、自身の頭の回転の鈍さを恨めしく思う。

佐野先生が音葉のピアノを絶賛し本格的なピアノレッスンを受けるよう言っていることはまだ音葉に伝えないほうが良いだろう。ピアノ教室に通えるかもしれないという期待をさせて、もし実現できなかったときが可哀そうだ。


「…そうなんだ。あの雑誌面白かったよ、ピアノ専用の雑誌があるなんて知らなかった。学校の図書館においてくれないかな。」


「ふふ…本のリクエストカードに書いてみたらどうかな?」


「うん、書いてみる。」


木乃香と音葉はそんな会話をしながら夕食を食べる予定にしているレストランへと向かうのであった。

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