木乃香、22歳【05】
音葉と買い物をした4日後の水曜日の昼下がり。木乃香は先週の土曜日の休日出勤の代休を取り、のんびりと過ごしていた。
お気に入りのコーヒー豆を買った帰り、またばったりと音葉と出会った。いつもと違うのは音葉は一人の男性と一緒に歩いている。
音葉は二人の姿を見ると咄嗟に鞄の中のレコーダーの録音ボタンを押す。
「お姉さん!」
音葉は木乃香を見るとすぐに木乃香の元へ駆け寄る。木乃香はその姿に少し身構えてしまった。
「えっと…音葉君、こんにちは。」
音葉と一緒にいる男性は誰だろう。年齢的には音葉の父親くらいだろうか。
男性は最初少し驚いた顔をしたが、すぐに音葉を追いかけ音葉の肩を抱いた。
「はじめまして、よく音葉が話している花咲木乃香さんですかね?」
男性の声は落ち着いていて、雰囲気も柔らかい。
「は、はい…」
今のところ木乃香に対する敵対心や嫌悪は見えない。一体音葉はこの男性に何をどこまで話したのだろうか…。
木乃香が警戒していると、男性の誘いで近くの喫茶店に入ることになった。
逃げたい気持ちはやまやまだったが、この男性が音葉とどのような関係でどのような人なのか気になる。何より音葉のことが心配だ。
喫茶店に入り注文を終えると、男性は名刺を差し出した。名刺には大山賢介という氏名と某有名商社名が書いてある。偽物の名刺ではないようだが、念のため後でこの会社に問い合わせてこの名前の男性が存在するか問い合わせてみよう。
「音葉の父親で大山賢介と言います。」
木乃香は賢介の名刺を受け取ると、自身の名刺も取り出し賢介へ渡した。
「ご挨拶遅れて申し訳ありません。花咲木乃香と申します。えっと、音葉君とは同じマンションに住んでいる者です。」
木乃香は冷静を装い挨拶をした。
音葉をチラリと見ると、音葉はバニラアイスが乗っているメロンソーダに夢中だ。父親の存在に緊張している様子はなく、普通の親子に見える。
「お恥ずかしながら私は仕事上海外に居ることが多くて挨拶ができてませんでした。花咲さんのことも昨日音葉に伺ったばかりでして…」
「や、やはり商社は大変なお仕事なんですね。」
「いえいえ。仕事柄家を空けることが多くて、家内や息子たちには迷惑をかけていて申し訳なく思ってますよ。家内がしっかりしてるので音葉のことも病弱なこいつの弟のことも一人で面倒見てくれていて助かってます。」
どうやらこの父親と言う人物は音葉の現状を知らないらしい。音葉は父親に母親のことを何も話していないのだろうか。
それとも全てを知っていて見えないふりをしているのか…。
「そうなのですね。本日は奥様と弟さんは?」
木乃香は探りを入れるように聞く。
返事をしたのは音葉だった。
「今日はお母さんは弟を病院に連れて行ってるよ。僕は今日小学校の創立記念日だから休みなんだ。それでお父さんとお出かけ!」
いつにもまして音葉のテンションは高い。余程父親と過ごせることが嬉しいのだろう。
「そうなんですよ。音葉は我慢強くて次男にかかりっきりの母親に遠慮してることが多いみたいで、今日くらいは甘えさせたくて私が休みを取ってしまいました。」
賢介が音葉の頭を撫でて抱き寄せた。音葉は賢介に寄りかかって嬉しそうだ。
父親はこの子の何を見ているのだろう…。
言いたいことはたくさんあるが、他人の私が口を挟んで良いのかわからない。何よりこんなに幸せそうな音葉の時間を壊したくない。
音葉の思惑を知らず、賢介は話を続ける。
「花咲さんはよく音葉と公園でお話をしてくれてるって聞いてます。同じマンションのよしみとは言え、音葉のことを気にかけてくれていて頭が上がりません。」
「そ、そんな…私も会社の帰りに音葉君とお話をさせてもらってるだけで…むしろ勝手に息子さんに話かけて申し訳ないです。」
「そんなこと気にしないでください!音葉は一人遊びが好きみたいなんですが、やはりこのご時世危ないことが多いので一人でも気にかけてくれてる人がいるだけで心強いです。これからもどうかよろしくお願いします。」
賢介が勢いよく頭を下げる。
どうやら賢介は木乃香と音葉は少し公園で雑談をするくらいの仲だと思っているようだ。
きっと音葉が木乃香の家で寝泊まりすることがあると聞くとまた父親の態度は変わるに違いない。
音葉をチラリと見ると、彼は黙ってコップを見つめたままほぼ氷しか残っていないメロンソーダを飲んでる。音葉はあえて公園の話しかしていないのだろう。
「えっと…はい。こちらこそです。」
木乃香はそう答えるのが精一杯だった。
その後、3人は他愛もない雑談をすると解散した。