木乃香、4歳【00】
音葉が帰った後、木乃香はコーヒーを淹れるとソファへと座った。
ソファに座った際にポケットに忍ばせていたレコーダーが太ももに当たり、レコーダーのことを思い出す。
レコーダーを取り出すと、停止ボタンを押し電源を切った。
後で音声データをハードディスクへ移しておかなければ。
木乃香は一つため息を吐き、ソファにもたれながら目を閉じる。
…これで良かったのだろうか。本当は素人の私が介入するのではなく、児童相談所等に連絡をしたほうが良かったのではないか。
そもそも音葉が現在の自分の境遇をどう捉えているのかわからない。きっと他の家庭とは違うとは感じているはずだが、それが不幸とまで思っているのかは謎だ。
何故頑なに児童相談所や学校に相談することを嫌がるのか。弟と随分境遇が違うように思えるが、家族に対して不満や悪口を言うわけでもない。
木乃香は後悔にも似た自問自答を続けるが、答えが出ることはない。
一つ間違えると木乃香が不審者として通報されるかもしれないのにも関わらず、何故このような方法で音葉を助けようとしたのか。
その答えははっきりとわかる。
自分だったらそうして欲しかったからだ。
木乃香はあえて音葉の家庭の事情を詳しく聞かなかった。自分は他所とは違う家庭の事情を聞かれたくなかったしどのように答えていいのかもわからなかったからだ。
木乃香の家庭もまたネグレクトと言われる環境であったのだ。人によって苦しさはそれぞれなので比べることは出来ないが、客観的に音葉の環境より酷い状況であった。
父親がこの部屋から出るなと言ったのは、木乃香が4歳のときだった。父親が忘れない限りは部屋の外側に鍵が掛かっている。
それまでは母親が居て不自由ない生活をしていたのに、急に母親が居なくなってしまったのだ。そこから父親は変わってしまった。
木乃香が5歳の時、父親が3歳の女の子を連れて来た。父親がいつも家に連れてくるのは若い大人のお姉さんだったが、自分より小さな女の子は初めてだ。
父親は木乃香に小さな女の子と手を繋がせると、おまえの妹だから面倒を見ろと言った。父親は妹の名前を教えてくれないから、名前は今だに知らない。
いつもいる部屋から一度出たことがあるが、お尻を定規で叩かれしばらく座るのが痛かった。
部屋は暑かったり寒かったりして、汗をたくさんかいたり手足が痺れたりしていた。
トイレはバケツでするものだと思っていた。
一週間に一度コンビニ弁当がいくつか部屋に投げ込まれる。そこには割りばしがついていたがお箸の使い方がわからないので手で掴んで食べるしかない。週末になると御飯がすっぱい味に変わることもあったり、御飯が足りなくなるときもあった。
このような環境で数カ月一人で過ごしていた木乃香にとって、突然できた妹はとても嬉しい存在。かつて母親にしてもらったことを思い出しながら、幼子なりに一生懸命お世話をした。妹は本当に可愛くて無邪気な笑顔を見せてくれる。
妹と暮らし始めて数週間が経った頃、急に妹が金切り声を出して泣き出した。これまでも泣くことはあったが、こんなに耳が痛くなる程泣いたことはない。
木乃香は妹を抱き頭を撫でるが泣き止まない。身体もとても熱くて、お腹をおさえている。御飯も食べてくれないし、水も飲んでくれない。顔は真っ赤だ。
妹の大きな泣き声は数時間にも及んだが、だんだんと泣く声が小さくなり身体で息をするようになる。
小さな木乃香にも妹の命が消えかかっていることに気づいた。
木乃香はうーやわぁーと言って大声を出し、混乱状態に陥いる。
すると、急に部屋の扉がけ破られて数人の大人が入ってきた。大人の人たちは顔をしかめながら鼻を押さえて近づいてくる。
木乃香は妹を守ろうと強く抱きしめたが、あっさりと大人に妹を取られてしまった。大人は何かを確認すると焦った様子で妹を部屋の外に連れ出してしまう。その後すぐに木乃香も抱きかかえられると、部屋を出ることになる。私たちを見たひとりの女の人は泣いていた。
後から知ったことだが、近隣の住民が尋常じゃない妹の泣き声を聞いて通報をしてくれたようで、そのおかげで救出されたのだ。
大人になった今の木乃香はこう思う。
自分はあの部屋しかあの環境しか知らなかった。だから自分が不幸だとも思わなかったし、周りの人が自分を見てが泣いている意味がわからなかった。助けてくれた大人は私がどのような状況であったのかを詳細に聞こうとし、警察に通報した。その後、理由等の事情は知らないが、父親は留置所で自分の命を絶ったらしい。
幼い私に父親が嫌いかと聞かれたら、嫌いではないと答えたはずだ。なぜなら部屋に閉じ込める前の優しくて大好きな父親を覚えているからだ。
自分が大人になった今、ある程度の整理はつき救出してくれた大人に感謝をしている。
しかし、幼いために自分の境遇がわからず判断が出来なかっただけだと言われればそれまでかもしれないが、専門機関への通報だけが全ての解決方法ではないのではないかと考えてしまう。
人生で起こることに完璧な答えを出せることは少ない。今持ちうる全ての知識と経験で最善の選択を出来ればと思う。それが人生の教訓だ。