木乃香、22歳【03】
秋が濃くなり、葉が色づいてきた頃秋雨が木乃香を襲った。
自宅の最寄り駅から歩いていた折、急な大雨が降ってくる。乙女心と秋の空とはよく言ったもので、天気予報でも伝えられていない土砂降りだった。
鞄を傘にして帰宅路を走る。
雨の日はいつも滑り台の下に避難している音葉、こんな土砂降りだと滑り台の下でも濡れているかもしれない。
木乃香が公園に着いたとき、やはり音葉は滑り台の下で立っていた。
「音葉君!」
雨の音に負けないように大声で名前を呼んで、滑り台の下へと走る。
「お姉さん!」
音葉は俯いていた顔を上げて、笑顔を見せる。
木乃香も音葉を見て笑顔を向けたのだが、途中で表情が固まった。
「…どうしたの!?」
音葉の足元にしゃがみ込む木乃香。
びしょ濡れの音葉の両ひざからは血が流れていた。強く擦りむいたようで、治療をした跡はない。
この寒さで短パンなことにも驚きだが、今はこの怪我が心配だ。
「急に雨が降って来たから走ったら転んじゃったんだ。大丈夫だよ、僕強いし。」
「痛いでしょう?強い人でも痛いものは痛いの。」
木乃香は安心させるように音葉の頭を撫でた。
音葉の頭はひんやりと冷えていて、本人も微かに震えている。この雨で寒いのだろう。
「…痛い。」
音葉は小さな声でそう言った。俯いていて表情は見えないが、泣くのを我慢しているのかもしれない。
「今日はお母さんはいつ帰ってくるのかな?」
早めに身体を温めて傷を手当したほうが良い。
「…今日は帰ってこないんだ。」
「え…?じゃあ鍵は預かってるのかな?」
音葉は木乃香の問いにフルフルと頭を振るだけで、それ以上は何も言わない。
「言いたくないことかもしれないけど、教えて欲しいな。今日はどこに帰るの?どこで寝るのかな?」
「……。」
「大丈夫だよ。」
木乃香が音葉の顔をのぞき込む。
「…いつもは…お母さんが帰ってこない日は他の公園で泊まってるんだ。此処の近くの公園に大きな丸い遊具があって、穴が開いてるからそこで寝てるんだ。」
木乃香は思ってもみない返事に絶句した。こんなに小さな子が一人で公園で寝泊まりをしているなんて。それも何度も。
以前から感じてはいたが、この子は親からネグレクトを受けているのではないだろうか。
私が立ち入って良いのか…やはりここは児童相談所に通報すべきか……。
「お姉さん?」
何も話さなくなった木乃香の顔を覗き込む音葉。その表情は自身の不幸をわかっておらず、むしろ何も言わない木乃香を心配しているようだった。
その仕草に涙が込み上げてくる木乃香。
そして、木乃香は涙を流さないよう唇を一度噛むと口を開いた。
「良かったら、一度私の家に来ない?このままじゃ、怪我がもっと悪くなっちゃうし手当させて。どうかな?」
児童相談所や警察に通報するにしても、まずはこの子の体調を優先しよう。
「……お願いします。」
音葉はしばらく考えたが、最終的にそう答えた。
「よし、行こう!」
木乃香は無理やり笑顔を作って音葉のランドセルを持つと、マンションの方向へと歩き出した。音葉もそれに追随する。
音葉を家へ上げると、木乃香はすぐにお風呂の準備をした。すぐにお湯張りボタンを押し、バスタオルを準備する。
音葉は初めての家にきょろきょろと周りを見渡している。
「音葉君、先にお風呂に入ろっか。使い方はわかるよね?」
「う、うん。大丈夫だよ。僕の家と同じだから。」
「傷がしみるとは思うけど我慢してね、傷は綺麗に洗ってね。後で傷薬を塗ろう。お湯にも浸かってね。」
「わかった。お姉さん、ありがとう。」
音葉はそう言うと、風呂場へと入って行った。
「服は洗濯するから置いといて!着替えは新しいの用意するから!それと、5分だけ家を出るね。」
「わかったよ!」
風呂場から音葉が元気よく返事をする。
木乃香が風呂場の前で待機していると、シャワーの音が聞こえて来た。
それを聞いて木乃香はレコーダーを持ってくるとスイッチを入れ、録音を始める。そして、ポケットにレコーダーを入れた。
警戒しすぎかもしれないが、子どもを連れ込んだと警察に通報された時のために音葉との会話は録音しておこう。これで無実を完全に証明できるわけではないが、少しは役に立つだろう。
木乃香はタオルを持って自身の頭を少し拭くと、鞄から財布を取り出した。そして、家を出るとエレベーターに乗って1階へ降りる。
マンションの1階にコンビニが併設されており、木乃香はそこに入った。便利なことにコンビニが1階にあるので、急遽物が必要になったときはここを利用するようにしている。それと、おでんは他社のほうが美味しいので此処では買わないというのが木乃香の心情だ。
子ども用の下着は売ってるのだろうか…コンビニの中をキョロキョロと見る木乃香。
大きいかもしれないが、シャツやズボンは私の物を着てもらおう。流石に下着は私のものを着せるわけにはいかないのでコンビニに買いに来た。
奇跡的に子供用の下着が棚の奥に残っていたので、それを買い物かごに入れる。それと併せて目についた恐竜のキャラクターのチョコレートと歯ブラシを買うと店を出た。
部屋に戻ると、すでにシャワーの音は止まっていたが音葉は風呂場から出てはいなかった。きっと湯舟に浸かっているのだろう。
木乃香は脱衣所の扉を少し開けてメモ付きの下着を投げ入れた。メモには”これをはいてね”と書いてある。
木乃香はそのまま休憩することなくキッチンへと向かう。そして、棚から圧力鍋を取り出すと、手際よく野菜と肉を切り鍋に入れる。
圧力鍋で熱し始めたとき、脱衣所の扉が開く音が聞こえた。
木乃香は慌てて手を洗うと、脱衣所へと向かう。
そこには大き目の木乃香の服を着た音葉が居た。音葉の身体からは湯気が上がっており、十分身体を温めることができたようだ。
「お湯加減大丈夫だった?」
「はい、ありがとうございます。」
音葉がニコリと笑う。
音葉の顔色は随分良くなっており、震えもおさまっていた。
「膝しみて痛いよね。消毒液と傷薬塗ろうか。」
木乃香はそう言うと、音葉をリビングへと案内した。
リビングのソファに音葉を座らせると、木乃香はひざまづいて音葉の手当を始めた。
出来るだけ音葉に触れないようにいして治療をする木乃香。音葉は消毒液がしみたようで、少し痛そうな顔をしていた。
「はい、よく我慢できました。」
手当を終えると、木乃香は立ち上がり音葉に笑顔を向ける。
「ありがとう、お姉さん。」
「いいえ。」
木乃香が救急箱を棚に戻していると、音葉は部屋をきょろきょろと見回していた。
「どうかした?」
「お姉さんは一人で住んでるのかなって思って。」
「うん、そうだよ。一人だと少し大きいけどね。」
「いいな。何か良い匂いもするし。」
「あ、今カレーを作ってるの。もうすぐ出来るけど食べる?」
「食べたい!給食でもカレーが一番好きなんだ!」
音葉は目をキラキラとさせて言う。
給食でもということは家庭ではカレーは出ないのだろうか。音葉の言う言葉全てがネグレクトの疑惑に繋げてしまう。
「えっと、音葉君。音葉君は公園に泊まってることを学校の先生とか誰かに言ったことはある?」
木乃香は意を決して音葉に聞いた。
音葉は少し驚いた顔をすると、俯いて黙ってしまう。
「…お姉さん、怒ってるわけじゃないんだよ。音葉君のことが心配なだけなの。」
「誰にも言ったことない。お母さんに言っちゃ駄目って言われているから。」
音葉は俯いたまま小さな声で言う。
「そうなんだ。やっぱり小学生一人で公園に泊まるのは危ないし、お母さんに言えないなら誰か大人に相談するのはどうかな?音葉君の代わりにお姉さんが相談してもいいよ?」
木乃香は音葉に出会った時からネグレクトを疑っていたため、児童相談所等の連絡先は予め準備をしてある。
「駄目だ!!」
大人しい音葉が珍しく声を荒げる。顔を真っ赤にして、眉間にはシワが刻み込まれていた。
突然の大声に少し驚く木乃香。
すると音葉は急いで荷物をまとめ始めた。
「ど、どうしたの!?」
慌てて止めに入る木乃香。
「僕帰る!」
「え、外は大雨だよ!」
「慣れてるからいいもん!お姉さんがこのこと誰かに言うなら帰る!」
音葉は首をぶんぶんと振って、ランドセルを抱きしめた。
「ご、ごめんね!私が悪かった!音葉君が嫌なら絶対誰にも言わないから!」
このまま外に出てしまったら危ない。
今日は土砂降りな上に深夜になるにつれて台風なみの風が吹くらしい。
「…本当?」
「うん、絶対本当。だから帰るなんて言わないで。一緒にカレー食べよう。」
木乃香はなだめるように優しく音葉の手を持ち、ランドセルを床に置かせた。
「あ、そうだ。約束の印にこのチョコレートあげる。」
木乃香は先ほどコンビニで買った恐竜のチョコを差し出した。
少し子ども扱いしすぎだろうか…そう思いながら音葉の様子を見ていると、音葉はチョコレートを受け取った。
「このキャラクター好き。皆チョコのおまけのシールを集めていて羨ましかったんだ。」
木乃香はその言葉に泣きそうになるのを堪える。
「…お姉さん、ごめんなさい。優しくしてもらっているのに我儘言って…。僕を嫌いにならないで…。」
音葉は震える声で木乃香の両手を握った。
「大丈夫、大丈夫よ。私は音葉君のこと大好きだし、我儘だなんて思ってない。とっても良い子よ。大丈夫。」
木乃香は最初躊躇ったが、音葉を優しく抱き頭を撫でた。
音葉はとても小さくて儚くて抱きしめると壊れてしまいそうだった。
「…ありがとう、お姉さん。」
音葉は久しぶりの人肌に安堵を覚え、目を閉じた。
母親に抱きしめられたのはいつが最後だったであろうか、頭を撫でてくれたのはいつだったか、良い子と褒められたのはいつだったか…もう思い出すことはできないが、この安心する気持ちだけは変わらないようだ。
ぐぅ~
しばらく頭を撫でられていた音葉であったが、お腹の鳴る音でまた時が動き出した。
「もう遅い時間だもんね。御飯食べよっか。」
木乃香は最後に音葉の頭をぽんぽんとすると、立ち上がりキッチンへと向かった。
音葉はそんな木乃香の姿を目で追い見つめるのであった。
御飯を食べ終えると、すでに22時を過ぎており、音葉も眠そうに目をこすっている。
「そろそろ寝よっか。このリビングに布団を敷くからここで寝てね。明日は土曜日で学校もないから、好きな時間まで寝て良いよ。」
木乃香がリビングにお客様用布団を持ってくる。
「えっ…ここに泊まってもいいの?」
「公園に泊まるのは心配だし、ここに泊まってくれたら嬉しいな。」
「うん、ありがとう。」
「どういたしまして。部屋の照明のリモコンをここに置いておくから、これで電気を消してね。お姉さんは隣の部屋にいるから何かあったら呼んで。じゃあ、おやすみなさい。」
「おやすみなさい。」
音葉はそう言うとすぐに布団に入る。布団はほのかに柔軟剤の匂いがして、ふかふかだ。まるで羊に囲まれているかのような気分だった。
ガタンッ…ガチャッ…
木乃香はその音で目が覚めた。音がするのは部屋の外からだ。廊下あたりだろうか…。
時計を見ると時間は10時。木乃香は低血圧で重い身体を起こすと、廊下へと出た。もちろん手にレコーダーを持つことは忘れない。
廊下を出ると、ちょうどそこにはトイレの扉を閉める音葉の姿があった。
「あ、ごめんなさい…勝手におトイレ使ってしまって…」
音葉が申し訳なさそうに言う。
「良いのよ、好きに使って。ついでに面白いものも教えてあげる。」
木乃香は手招きをしてトイレの対面にある部屋に案内した。そこは木乃香の自室の部屋でもある。
音葉は不思議そうに木乃香について行く。
その部屋の扉を開けると、そこは壁中に本棚が置かれており、ほとんどが漫画で埋まっていた。ジャンルも多種多用で少年・少女漫画から青年漫画まで色々だ。
「うわぁ~すごい。」
沢山の漫画を見て目をキラキラさせる音葉。
趣味というほどではないが、木乃香は漫画を集めるのが習慣となっている。嫌な事があったときに漫画を読むとその世界に入って現実を忘れることが出来るため、木乃香にとって漫画は必要不可欠のアイテムなのである。
「ふふふ、すごいでしょ。ピアノとか音楽の漫画もあるから、いつでも読んでいいよ。」
「いつでも?」
音葉は部屋をぐるりと一周見回すと、漫画を手に取ってパラパラと見始める。
「でも今は先に朝ごはんかな。オムレツでも作ろうか。」
「僕お腹空いた。でもオムレツって何?」
「オムレツっていうのはふわふわの卵だよ。それとカリカリのベーコンと一緒に食べようか。食パンには好きなジャムを塗ろう。」
「カリカリのベーコンってどんなだろう。楽しみだな。」
音葉の興味は漫画からオムレツやカリカリベーコンに移ったようで、丁寧に漫画を戻すと漫画部屋を出てきた。そして、ルンルン気分で木乃香の後を歩く。
「最初は焦げてるベーコンなんて美味しくないと思ったけど、カリカリしてるの凄く美味しいよ。それにこんなとろとろした卵も初めて。」
音葉はパクパクと口に食べ物を頬張る。
「良かった。でも野菜も食べようね。」
木乃香が付け合わせのサラダを指さす。
「生の野菜はあまり食べたことないから嫌いだ…。」
先ほどの元気さは一変し、音葉の御飯を食べる手が止まった。
「でも、野菜を食べないと病気になっちゃうし怪我も早く治らないよ?ほら、カリカリベーコンと一緒に食べてみて。美味しいから。」
音葉は一瞬躊躇ったものの、木乃香の言う通りベーコンとレタスを一緒にフォークで刺して口に放りこんだ。
長い間もぐもぐと咀嚼すると、ごくりと飲み込んだ。
「…僕食べれた。」
「うん、えらいえらい。このドレッシングを付けても美味しいよ。」
木乃香はテーブルに置いてある胡麻ドレッシングと和風ドレッシングを差し出した。
遅めの朝食を終えると、木乃香は乾燥機に入っていた音葉の服を渡し着替えるように促した。その間に木乃香は朝食で使った食器を洗う。
食器を洗い終えリビングに戻ると、音葉はテーブルの前に正座をし卓上を見つめていた。見つめる先には500円玉と10円玉が2枚。
「どうかした?」
木乃香は声を掛けながら音葉の斜め横に座る。
お金を見つめて一体どうしたのだろう、木乃香が首を傾げる。
「あの僕…今これだけしかお金なくて。豪華な食事をさせてもらったのに申し訳ないんだけど…」
音葉が弱弱しく言う。その表情は木乃香の顔色をうかがうようだった。
「音葉君、その前に少しお話をしよっか。」
木乃香が落ち着いた優しい声でそう言うと、音葉はこくりと頷いた。
「これからいくつか質問するけど、誰にも言わないことは約束する。公園のこととかもう少し聞いてもいい?」
音葉はまたこくりと頷いた。
「公園には1カ月で何回くらい泊ってるの?」
「1回か2回かな。」
「そっか。これまで公園にいて、誰かに声をかけられたりどこか連れて行かれたことはある?」
「ないよ。でも、一回だけおじさんが道を教えて欲しいって言ってきて、案内をしようとしたら慌ててどっか行っちゃった。」
「そう…。」
やはり一人で居ることで危ない目に遭いそうになっていたようだ。音葉は顔がとても整っているし犯罪に巻き込まれやすいのかもしれない。
道案内をお願いしてきたおじさんも怪しい。警察や人を見つけたのか未遂で終わったようだが、本当に危ないところだった。
「あのね、やっぱり小学生が一人で公園に居たりするのは危ないと思うの。でも、音葉君はこのことを誰にも言いたくないんだよね?」
「うん…」
音葉は膝の上で拳を握ると、下へ俯く。
「じゃあ、一人で公園に居なきゃいけないときは、今日みたいにお姉さんの家に来るのはどう?…もちろん、音葉君が嫌なら違う方法を考えよう。」
「え…いいの…?」
涙目であった音葉は顔を上げ木乃香を見る。
「うん。もし私が居ないときは、お友達の家に行ったり図書館に行ったり、人通りの多い場所に居て欲しいな。」
「ありがとう、お姉さん。わかったよ。」
「よし、じゃあそうしよう。私が家にいるかわかりやすいように、家にいるときは玄関のドアにこのキーホルダーをかけておくよ。」
木乃香がポケットからト音記号のチャームがついたキーホルダーを取り出し音葉に見せる。
それを見ながら音葉は一度はこくこくと頷いたが、すぐに顔を曇らせた。
「でも僕…ちゃんとお金を払えるかどうか…」
「えーっと、音葉君はいつもお小遣いをもらってるのかな?」
「うん。毎月一度5000円もらうんだ。そこから朝ごはんと晩ごはんを買ってる。お昼ご飯は給食だよ。できるだけ安いパンやおにぎりを食べるんだけど、月の最後にはお金がなくなることもよくあって…」
やはりいつも食べている菓子パンが晩御飯の代わりだったのか。まさか朝ごはんも同様にそのような扱いをされているとは…。きっと毎日給食以外はパンやおにぎりを1,2個くらいしか食べていないのだろう。そのような生活では音葉がこんなに細いのも頷ける。
木乃香は怒りと悲しみで震える身体を抑えながら、感情を押し殺して音葉に言う。
「この家ではお金はいらないよ。その代わり、お姉さんは仕事で忙しいときも多いから、お皿洗いやお掃除を手伝ってもらってもいい?そうしてもらえると私もすごく助かるし、一人じゃ寂しいから晩御飯も一緒に作って食べてくれると嬉しいな。」
「僕…そうしたい。お姉さんの御飯美味しいから大好き。今までは給食の焼きそばが一番美味しいかと思ってたたけど、昨日のカレーが一番美味しかった。朝ごはんのオムレツも美味しいし…。」
音葉は心底嬉しそうに言う。
これで晩御飯をサポートすることはできる。お小遣いの5000円は朝ごはんに使ってくれると、少しは食生活がマシになるだろう。
「じゃあ最後にもう一つ。」
木乃香はそう言って小さな丸いポーチを机の上に置いた。ポーチはいつの日か漫画についていた特典品で、真ん中には髪の長い男性のキャラクターが描かれている。木乃香が先ほど棚の奥底に眠っていたポーチを強引に取り出したため、少しシワでよれている。
音葉が首を傾げながらポーチのチャックを開ける。
そこには1枚の小さなメモと10円玉が10枚、チョコレートが3個入っていた。
「まずはこのメモの説明をするね。」
木乃香は折りたたんであったメモを広げて見せる。
そこには携帯電話の番号が書いてあった。
「これは私の携帯の番号だよ。すごく困ったことがあったときに、この10円玉を使って電話してね。」
慎重な性格の木乃香にとって、音葉に携帯電話の番号を渡すことは少し勇気が必要だった。
もしこの番号を誰かが見たらどう思うだろうか。私が音葉に危害を加えようとしている誘拐犯だと間違われないだろうか。
念のため音葉と会話をするときはレコーダーで録音をしているが、不安は拭えない。
「…ありがとう…ございます。」
音葉はこれまでにない程にほっとした表情を見せる。これまで周りとは違う家庭環境で助けを呼んでいいのか人に相談していいのかわからず、とても不安だったのだろう。困ったときに連絡できる人が一人いるだけで心が随分楽になるはずだ。
音葉の安堵の表情を見て、先ほどまでの保身のための不安は全て消え去った。
こんなに小さな少年がこれまで一人で頑張っていたのだ。これからは少しでも幸せを感じてほしい。
「このチョコレートは私がいなくてお腹が空いて苦しいときに食べてね。食べちゃったらお姉さんに教えて。新しいのを追加しよう。」
ポーチが小さいのでチョコレートは少ししか入れられなかったが、ないよりはマシだろう。溶けにくいチョコレートを入れたつもりだが、あまりにも溶ける場合はまた違うものを考えよう。小さいサイズの栄養補給バー等は売っているのだろうか、また後で調べておこう。
木乃香と音葉がこれからのことについて一通り話終えると、音葉は部屋の掃除をして帰って行った。木乃香が今日は掃除はいらないと言ったが、最初からきちんと約束を守る音葉。とても真面目な性格なのだろう。