木乃香、22歳【02】
9月のある日のこと、珍しく木乃香の帰宅時間は21時を過ぎてしまった。駅前にあるコンビニでおでんを買い、自宅へと歩く。
いつも通り公園の前を通った時、そこにはあの少年がいた。今日は地面に蹲っておらず、ベンチで菓子パンを食べているようだ。
小学生の幼い少年がこんな遅い時間まで何をしているんだろう。木乃香は心配になり、木の陰から少年を見つめた。少年はパンを頬張っており、包装紙に残ったパンのカスまでも舐めている。初めて見る少年の顔は、痩せてはいるがとても整ったものだった。中性的なその顔は綺麗な二重で黒い髪がサラリと揺れている。
5分経ってもその少年はそこを動かなかった。
「こ、こんばんは。」
木乃香は堪らずその少年に声を掛けた。この少年が防犯ブザーを持って居て鳴らされたらどうしよう…怖かったが、この少年を一人にしておくのは心配だ。最近、ニュースで小さい子が誘拐される事件もよく聞くし何かあったら大変だ。
「…えっと、こんばんは。」
少年は小さな声で俯きがちにそう言った。急に声を掛けられて驚いているようだ。
「急に声掛けてごめんね。こんな遅くまで一人でどうしたのかなと思って。」
木乃香は出来るだけ優しい声をかけるように心掛けた。
「お、お母さんが今日は帰るの遅いから…」
少年はもじもじとして言う。
やはりいつもここで親の帰りを待っていたのか。親は彼に鍵を与えていないのだろうか…。
「そっか。実は私も知り合いを待っているの。一緒にここに居てもいいかな?」
木乃香がそう言うと、少年は小さく頷いた。そして、少年はベンチに置いてあったランドセルを寄せて席を開けてた。
ひとまずは通報されないかな…木乃香は出来るだけベンチの端に座り、少年との距離を保つようにした。
「えっと…私の名前は花咲木乃香、あのマンションに住んでるの。君もそうだよね。」
「う、うん。僕も同じマンションだよ。名前は大山音葉。小6だよ。」
少年が照れたように言う。
音葉って女の子みたいな名前だけど、この子は男の子だよね?小柄で細いので小学校三年生くらいかと思っていた…。
「よろしくね。音葉君って呼んでもいいかな?木乃香って名前は呼びにくいと思うし、お姉さんとかお姉ちゃんって呼んでくれると嬉しいな。」
「わかった。お姉さんって呼ぶよ。」
音葉はそう言うと木乃香に微笑んだ。
先ほどよりも緊張はほぐれたようで、音葉はしっかりと目をみて話すようになっていた。
「ねぇ、それ何?」
音葉が木乃香の持っているコンビニの袋を指さす。袋からは微かに湯気が出ていた。
「あ、これはおでんだよ。食べる?」
コンビニの袋を差し出す木乃香。
「…。」
音葉はその袋をじーっと見つめたままだ。
しまった、知らない人から食べ物をもらってはいけないと親や小学校から教えられてるかもしれない。完全に私が不審者になってしまう。
「ご、ごめんね。アレルギーもありかもだし、知らない人から食べ物はもらえないよね。」
木乃香は慌ててそう言うと、差し出した手を引っ込めた。
「ぼ、僕はアレルギーないよ。弟は蕎麦が食べられないらしいんだけど。」
音葉はもじもじとしてそう言った。
弟がいたのか…でも弟が音葉と一緒に公園にいることを見たことがない。一体弟は今どこにいるのだろうか?もしや、親と一緒に居るの?でもこの子は一人だし…。
木乃香が次の言葉を考えていると、音葉はもじもじとしたままコンビニの袋をちらちらと見ていた。
「えっと、食べたい?」
木乃香が言う。
「う、うん…」
音葉は小さな声で返事する。
「じゃあ、食べよっか。」
木乃香はおでんを取り出し蓋を開けると、木乃香と音葉の間に置いた。そして、割りばしを割ると音葉に差し出す。
「ありがとう!」
音葉はぐーでお箸を掴むと大根に突き刺して食べる。はぐはぐと食べるその姿は犬を想像させた。
「ま、待って。」
思わず木乃香が声を掛ける。
音葉は口いっぱいに頬張ったまま木乃香の方を見た。
「ゆっくり食べて大丈夫だよ。全部食べていいからね。えっと、音葉君はお箸の持ち方知ってるかな?」
木乃香は躊躇いながらもお箸を持つ音葉の手に触れて正しい持ち方にする。
音葉は不思議そうに木乃香の手を見ていた。
「最初は難しいかもしれないけど、少しずつ覚えていったらどうかな?」
お節介かもしれないが、このままでは音葉が恥ずかしい思いをしてしまうかもしれない。
「これ知ってる。昔お母さんにお箸の持ち方教えてもらったよ。」
「そっか、じゃあその持ち方思い出してやってみよっか。食べ物も小さくお箸で切ってから食べると食べやすいよ。」
「うん!」
そう言うと音葉はぎこちなくお箸を持ちながら食べるのを再開した。
とても素直な子のようだ。
音葉はおでんの全ての具材を食べ終え、汁まで飲み終えるとマンションの方をチラリと見た。
「お母さん帰ってきたみたい。お姉さん、ありがとう!」
音葉はランドセルを持ち律儀にお辞儀をすると、マンションのエントランスへと駆けて行った。
木乃香は音葉がエントランスに入るのを見届けると、おでんのゴミを片付けて立ち上がる。
そして自身も家へと向かったのであった。
それから、木乃香は公園で音葉を見つけると、少年が帰るまで一緒に居ることにした。
今では音葉もすっかり木乃香に懐き、毎日の学校であった出来事等を話してくれる。
「今日はね、音楽の授業があったんだ。今度合唱コンクールをするんだけど、その歌の勉強を始めたんだ。それでね…」
音葉は木乃香に楽しそうに音楽の授業の話をする。
音楽の授業が特別好きなようで、いつも楽しそうに授業の内容を詳細に話してくれた。
「音葉君は本当に音楽が好きなんだね。好きな楽器はあるの?」
「ピアノ!」
音葉が元気よく言う。
「そっか。音葉君はピアノ弾けるの?」
木乃香も幼少期ピアノを習っていたが一年ほどで辞めた記憶がある。他の習い事も同様で、あまり続いた習い事はない。
「うーん、少しだけ。休み時間とか放課後に少しだけピアノを弾かせてもらってるけどまだまだだ。」
「ピアノかぁ…うーん…あ、何かピアノの動画見てみようか。」
私はそう言うとスマートフォンを取り出し、動画サイトを開いた。
「何か見たいものはある?」
「どうしようかな…シューベルト、いや幻想交響曲…うーん…」
「ふふふ、大丈夫だよ。明日もあるし、一個ずつ見て行こう。」
「うん。」
音葉は楽しそうに答えると、スマートフォンをかぶりつくように見始めた。
音葉が動画に熱中しているのを横目に、木乃香はベンチの足元をチラリと見る。そこには砂に描かれた鍵盤があった。
いつも何をしているのかと思ったけど、砂の鍵盤でピアノの練習でもしていたのだろうか…。