4.始まりの日-4
目つきが変わり、感情の動きを捉えるかのように優の瞳を見つめる景。
――景の神技、反転とはそう言ったものだ。
泥は黄金へと反転し。
野獣は美女に、好意は悪意に。
生は、死に。
ありとあらゆる事柄を全て思いのままに反転させてしまえる。
神にも等しい、もっとも神に近いとされる力。それが景が持つ力であり。
今の優の場合、女らしい容姿という事実を、男らしい容姿という事実まで反転させてしまう事すら可能なのだ。
今まで抱えてきたコンプレックスを克服するどころか、無かった事にしてしまえる絶好の機会。
なのだが──、
「それはお断りします」
優はその景の提案に、考える素振りすら見せずに横に首を振った。
「ほぅ、何故?」
乗り出していた身を引き、今度は興味深いと言った様子で自らを見つめる景に、優は苦笑気味に微笑んで見せると、
「確かにこの容姿はコンプレックスです。でも、この容姿も含めて権藤 優として生きて来た証ですから……。否定したくないんです、今までの思い出を」
どこか満足そうに言い終えた優の表情は、純度百の笑顔へと変わっていた。
その変化を暫くの間無言で凝視していた景は、まるで堤防が壊れたかのように、
「く、ははは……っ!」
笑いを張り上げた。
呆然とする優の手前、景は目端に涙すら貯め。
「や、失敬。随分と昔に君と同じような事を言った友人の事を思い出してね。状況はまるで違うが……、そうかそうか」
景は一人で何かに納得したように何度も頷くと、一度咳払いをし、自身の態度を改めてみせると。
「君の意思はわかったよ。それじゃあ本題に入ろうか。今回、君を直接指名させてもらったのは他でもない……、僕だ」
それは正樹から聞いている、と優は「はい」と頷き。
「伺っています。何でも護衛を所望だとか」
「そうだ。君に今回依頼したいのは、長期にわたる護衛なんだ。詳しい内容は承諾されてからではないと話せないが……。どうだろう、引き受けてくれるかな?」
優の護衛へと不適正さは、今朝の正樹との会話で明らかになっている。
生身の人間に今のこの世の中護衛を任せるなんて、世間の常識的にも、金持ちのプライドにも沿わないでは。と、疑問にしか感じない。
「その前になぜ、自分を指名したのかお聞かせ願っても宜しいでしょうか。今のご時世、神力を持たない人間が神力持ちに対しどれだけ無力かお判りになっているでしょう」
優の当然の疑問に、景はそれこそ何を言っているんだ君は、と言わんばかりに首を傾げ。
「確かに、今君が言ったとおり神力を持たない人間はいざと言う時の信頼性に欠ける。万が一、いや当然として襲って来るだろう神力持ちに対し生身の人間は余りに無力だ」
「だが──」と景は続け、自らのスーツの内に右手を差し入れる。
そこから素早く取り出され、優へと向けられた右手に握られるのは──護身用と見られる拳銃であった。
そのトリガーが、一寸の躊躇も無しに優へと引かれた。
「──君にはそれを踏まえた上でも、補う所か持て余してしまうだけの力がある」
銃声の後、音速を超えた弾丸が優の脳天めがけて突き進んだ。
この距離だ、普通に考えてこの状況をどうこうする事もそれを考える時間も無い。
だからこそ権藤 優は、弾丸を放たれたその後に、対処を行う事も──思考する間さえ無かった。
「だろう――、神殺し?」
だが、結果としてその弾丸は対象を貫く事は無かった。
目標を失った弾丸は部屋の出入り口である扉に着弾し、甲高い音を立てて弾かれ、床を転がるのみでその役目を終えた。
それは何故か? そう、優は景に銃を抜かれて銃口を向けられ、そしてトリガーを引かれぬく僅か手前──その時点でただの少し右へと首を傾げていたのだ。
たったのそれだけで、たったそれだけの事で銃弾は優の頭の僅か右1センチ程の位置を通過し扉へと吸い込まれて行った。
言葉にすれば容易だが、実際それを実行しやってのければ、それはあまりにも目を疑う馬鹿げた曲芸でしかない。
「……何のつもりですか?」
優の冷めた瞳が景を射抜く。今朝から一度も見せては居ない、親しい物に見せる気の抜けた表情でも、怒りを見せる表情でも、ましてや羞恥を見せる表情でもない。
ならばつい先程まで景に見せていた大人びた社交性のある表情か……、違う。
それは自らの敵に対してだけ見せる──純粋な殺意を向ける、優のもう一つの顔であった。
およそ少女のような容姿からは想像できない、見る物全てを竦み上がらせるかのような鋭い眼光。
まるですぐ目前に百獣の王が牙を剥き自らを威嚇しているような、そんな錯覚すら景は覚え。
「それが君の本性かい? よくもそんな恐ろしい瞳を隠して居たものだ。心の底から恐怖心がこみ上げてくる、体が勝手に震えを覚える。こんな経験初めてだよ。これが神殺し……、神力持ちが揃って恐れる権藤 優の本当の顔なんだね?」
景の言葉に、優は反応を示さない。
無情のまま、ただ答えを待つ景を冷めた目で射抜くのみ。
「怖いな。だけど許してほしい。どうしても君の本当の顔を知って置きたかったんだよ。これから限りなく近くで護衛をしてもらうんだ。それが務まるかどうかも同時に試したかったのさ」
「……前触れも無しに銃口を向ける人間の護衛を、僕が引き受けると思っているんですか?」
「それについては問題ないよ。何故なら君の護衛対象は、僕ではないからね」
にっこりと微笑、予想外の事実を言ってのけた景に優は目を丸くし。
「……というと?」
「そのままの意味だよ。君に守って欲しいのは僕じゃない。そもそもの話、今更僕に護衛が必要だと思うかい? って言ってしまうと、少し傲慢かもしれないけど」
なるほど、確かにその通りだと頷けてしまった時には、優はもういつもの優に戻っていた。
そもそも最初から疑問に思うべきだったのだ、なぜ景ほどの人物が護衛の依頼を今更頼み込んできたのかを。
景の存在の大きさに優も冷静さを欠いていたのだ。未熟も未熟、これは反省点だと、優は自然と口元を苦笑で歪め。
嘆息一つ、それで表情を引き締め直し。景へと向き直ると、
「護衛の依頼、お受けします」
そうして口にした優の悩みのない返答に、今度は景が驚いた表情を浮かべ。
「本当かい? いや、僕が言うのもなんだが。僕は君に銃口を向けた人間だ。そんな人間の依頼を君は承諾するというのかい?」
「はい」
即答で返した優の表情に一切の躊躇はない。何を思ったのかと、景はその異常性に表情を強張らせ。
「理由は聞いても?」
「理由、ですか。確かに、普通は自らに敵意を向けてくる人間と馬鹿素直に契約を結ぼうなんて考える人はいません。契約を結ぶ、そして守るに当り何よりも一番大切なのは、契約相手をどれだけ信頼できるかどうかですから。この場合こちらが深山さんを信頼出来る筈がない、そういう事でしょう?」
黙って頷いた景に、優は言葉を続けることはせずに席を立つ。そのまま扉の方へと歩いて行くと。
「そうですね。本当に命を脅かされていたのなら、契約所か僕は正当防衛に出たと思います」
ですけど、と続け。優は立ち止まり不意にその場で屈みこむ。
そして右手で何かを摘むと立ち上がりもう一度景の前、ソファーへと戻り腰を掛け。
「これ、ゴム弾ですよね。殺傷性は皆無の」
そう言って右手で摘まんだ物を優は机の上に転がせた。
それは先ほど扉に弾かれカーペットの上を転がった弾丸であり。
「あの時、深山さんが僕に銃口を向けた時、敵意は感じられませんでした。こちらの実力を測るため、と言われれば百歩譲って納得もできます。怒ってはいますけど、契約してから務まりませんでしたじゃ話になりませんしね。言い分もわかります。何より、正樹が深山さんを信頼しているようですしね」
優の言葉に途中までは重々しく耳を傾けていた景だが、優が最後の極めつけに発した言葉を聞いた途端に、不意に脇を突かれたようにぷっと笑いを零し。
「いや、失敬。君は本当に正樹を慕っているんだと思ってね」
「な……」
途端、羞恥に頬を染めた優に、景は満足そうに微笑み。
「申し訳ないが、口約で構わないかい? こちらとしてもあまり形として残る物は用意したくなくてね」
「それは、はい。こちらとしても有り難い限りです」
「ありがとう。それじゃあ、詳しい依頼内容についてだけど……、その前に右手を差し出してくれるかな」
景の突然の意図が判らない申し出に、優は訝しげに首を傾げながらも、すっと右手を前に差し出した。
景はその右手に自らの右手を重ねる。
そして、どこか安心させるように優へと微笑を見せると。
(まずいっ……!)
そう、優が感覚として捕え、反射的に手を引こうとするよりも速く。
「反転」
瞬間、優と重ね合わせた右手が発光を示す。
白銀の人工的には決して作り出す事のできない神秘的であり不気味な光は、すぐさま優の体全てを包み込み。
「──ごめんね」
最後に聞こえたその声は、果たして幻聴であったのか。そのまま優の意識は、抵抗する間も無く白銀の海底へと……深く落とされて行った。
*
「お腹減ったー。優ちゃんは何時になったら帰ってくるのよー。オッサン何か知ってるんでしょ?」
同日午後11時15分。権藤家のリビングにて。
ユウナはつい10分ほど前に帰宅するや否やソファーに寝そべり始めた挙げ句、そのままテレビを眺めはじめた正樹に今現在直面している死活問題をぶつけた。
優が家を飛び出しすでに数時間が経過している。
ユウナは正樹が帰宅するつい先程までフローリングの上で惰眠を貪っていたのだが、起きてみると今度は空腹でその場から動けないといった駄目っぷり。
そんなユウナに対し正樹は、身体的にではなく精神的な疲れからだろう、張り付けた億劫な表情で「あー」と、まるで今思い出したかのようにテレビからは視線を逸らさずに呟き。
「あいつなら暫く帰ってこないぞ」
と、素気なくそれだけを告げて、テレビ鑑賞へと戻った。
「暫く帰ってこないって……。なに、また優ちゃんご指名の依頼かなんか? 最近多いわね~。で? 期限は?」
「三年」
これまた素気なく告げた正樹に、ユウナは始めこそ特に驚く事もなく「ふ~ん」と頷いたのだが。
「って、三年!?」
空腹も忘れクラッチングスタート宜しく正樹へと突撃をかますと、その胸ぐらを掴み上げ、強引に立ち上がらせて捲し立てる様に口を開いた。
「どういう事よ三年って!?」
「おま、ちょ、落ち着け。唾かかってる唾」
「落ち着いてなんか居られないわよッ! ただでさえ今は動ける人間が少ないってのに、どういうつもりよッ!」
まるで阿修羅のような表情で迫ってくるユウナに、正樹は視線を逸らすと気まずそうに頭をガシガシと掻き。
「や、ちょっと弱みを握られてな。貸しちまった」
「か、貸したって……、誰によ?」
呆れた表情のユウナに、正樹は一頻り唸った後。
不似合いに舌の先を突出したかと思えば。
「てへ」
「殴るわよ」
顳顬を引きつらせるユウナに、正樹が困り果てたように視線を彷徨わせた。
「何? そんなにヤバい奴に睨まれたの――」
言いかけて突然、テレビに映っていた映像がプツンと途絶える。
異変に、二人が揃ってテレビへと視線を向けると、今度はパッと映像が映し出された。
画面全体を多いつくす規格外の、巨大なハムスターの映像が。
無言でそのまま二人がテレビを眺めていると、巨大ハムスターはその愛らしい表情を悪魔のように歪めさせ。
『話は聞かせてもらったぞ正樹。よもやマイスイート天使をどこの馬の骨とも知らない俗物に差し渡すとは。覚悟は出来ているんだろうな?』
映像内にコミカルタッチな正樹のモデルが現れ、ハムスターの口内へと吸い込まれて行く。
それを見て蒼白に染まる正樹をユウナは離し、テレビへと向き直ると。
「遅かったわね。20分遅刻よ、イケダさん」
映像の中のハムスターことイケダは愛らしく頷き、ヒマワリの種宜しくコミカルな正樹を歯先でガジガジと齧っている。
「これで集まったメンバーは三人ね。兎也と心とミリカは伊形の監獄で、今は身動きが取れないとして。実質これで現在のフルメンバー。おっさん判ってる? 優ちゃんが今長期に渡って席を空けると、私しか自由に動ける人間が居なくなるってこと」
「おう。お前のダメ人間っぷりを矯正できるいい機会じゃねぇ――」
か、と続けようとした所で正樹の脛をユウナは全力で蹴りつけた。
「何か言った?」
返事を言語化できずに正樹はフローリングの上を転がる。
その時、正樹は今朝の優に対する疑問の答えを得た気がした。
『お前は誰に似たんだろうな』の解は、すぐ身近にあったと。
『HITだ。天使は今日の正午過ぎに深山邸を訪れている。そこから現時刻まで邸外周の監視カメラの映像を探ってみたが、天使が訪れた時刻から今の今まで邸内を出入りする者は居ない。今天使は十中八九深山邸に居るだろう』
映像のハムスターがコミカルな正樹をサンドバックに無数の拳を叩き付ける中、ユウナはイケダのテレビ越しの情報に驚いた表情で関心を示し。
「さすがイケダさんね。この短時間で優ちゃんの居場所を探って見せるなんて」
ハムスターは照れたように頬を染めコミカル正樹を踏みつけ。
ユウナは生身の正樹をそれに習って踏みつけた。
「で、深山邸ってことは景さんよね。貸した相手っていうのは。せ・つ・め・い、あるわよね?」
言いながら四度正樹の背を踏みつけ、ユウナは最後に正樹の顔を覗き込むべく屈むと、とびっきりの笑顔を見せた。
そんなユウナとイケダの追及に正樹はついに両手を上げ、参ったと白旗を上げる。
「悪いがな、全ては話せない。だがそうだな、強いて言える事は――」
神妙な表情を浮かべ、そして正樹は告げる。
「17年前。あの真相に迫る為に必要不可欠な事を成しに、あいつを行かせた」
――全ての発端、全ての始まりを告げるその言葉を。