出現
「小僧、いい加減に…」
支配人さんが澤霧先輩の胸倉をつかんだ。殴るつもりらしい。
「おまえは何を望んだ?」
いきなり目の前が真っ暗になった。
先輩がかまわず言葉を続ける。
「おれを気絶させることか?
おれに恥をかかせることか?
おれを怒らせることか?
おれをみじめな気持ちにさせることか?
どんなにジタバタしてもおまえには勝てないっていう気持ちにさせることか?
おまえはおれに何をさせたいんだ。
おれの役回りって何なんだ」
澤霧先輩が一言話すたびに背筋がどんどん寒くなってくる。
何だ、この空間は…。
「おれはおまえのオモチャか?
それならそれでいい。
おれはオモチャだ。ならおまえは何だ?
おまえはおれの気持ちを玩ぶことによって楽しんだ。
なぜこんなことができる?
なぜこんなことが許されるんだ?
おまえが部長だからか?
おまえが演出だからか?
それとも演技がうまいからか?」
いつの間にか全く体が動かせない。
目の前が真っ暗なはずなのにまわりの様子がはっきりとわかる。
鈴が、メイクさんが、榛名さんが、ただ真っ青な顔をしてガタガタふるえている。無論支配人さんも同じだ。
そして直撃を受けた部長は…。
パソコンを床に落とした。泣いている。この涙はさっきの後悔と悲しみではない。
……恐怖だ。
「なぜおまえは特別なんだ?
『あきづきえりな』『さわぎりたかひこ』…一体何が違う?
おまえは特別な人間なんかじゃない。
どこにでもいるただの女だ。
なぜただの女がおれにこんなことをする?
おまえはおれの何なんだ?
わからないか?
おれが教えてやろう。
おまえはおれの…」
何なんだ。この人は何者なんだ…。いったい何をしたいんだ…。
「敵だ」
顔をくしゃくしゃにしていた部長がうわごとのように言った。
「いやぁ…、聞きたくない…」
「だから死ね、秋月絵里奈。…おれの前から消えろ」
「み、三浦くん…、そのナイフどこかに隠して…。使いたくなる…。使わなきゃならないような気持ちになる…。刃物とか紐とか、全部見えないようにして!」
「無理です…」
体が、指一本動かせない。
「いやだ。怖い、怖い、怖い! 死ぬのが怖い…」
「しょうがないな。おれを本気にさせた、おまえが悪い」
「いやぁっ…。怖い…。死ぬのはいやぁっ」
「目をつぶって下さい!」
「怖くてつぶれないわよ、バカ!」
「じゃあな、絵里奈。さ・よ・う・な…」
先輩が別れの挨拶をし始めたと同時に、ぼくが凝視していた部長の体が、スーッと足元から消えていく…。だけどぼくにはどうすることもできない!
ついに、モローの『出現』のように、部長の体が首だけで宙に浮いている。そしてその顔は涙でぐしょ濡れ…。
先輩が、襟をつかんだまま固まっている支配人さんを引きずりながら部長の首に近づいた。
「うそだ…」
先輩が部長の首の、髪をやさしくなでている。
「おまえは特別な人間だよ。おまえは唯一愛された女だからだ…」
先輩の指が部長の頬に触れた。
「おれにな」
世界が、ぱっと明るくなった。