塩水
「先輩…、お気持ちはわかりますが、いまそれを言うのは…」
三浦くんの困ったような声が聞こえる。
「こっちもいい加減にしてほしいんだ。そう何度も何度も恥をかかされてたまるか」
視界の中の高彦がくしゃりとゆがんだ。
「何をするつもりなのかは知らんが、泣くのだけはやめろ。おまえは強い。3CCの塩水で、加害者と被害者をひっくりかえすようなことは絶対にしない奴だ」
くっ…。
一気に上を向いた。シャンデリアの形は全く見えない。開いたままの眼をまばゆい光が貫く。
「そんなことをしたら、本当に見捨てるぞ」
だけどこのままじゃ…。誰か近づいてきたらしい。三浦くんの小さな声が聞こえた。
「部長…、ティッシュです」
この子の先回りしたがる性格に感謝した。
「メイク係をよこせ…。大至急だ!」
支配人さんの、内線電話に向かって話しているらしい声が聞こえた。目尻をティッシュで拭う。不機嫌そうに目を閉じている高彦を睨んだ。
ジーンズ姿のメイクボックスを提げた女の人が広間に飛びこんできた。
「一見でいい。さっきと同じに見えるように直せ。30秒でやれ」
「はいっ」
支配人さんからの指示を受けて、てきぱきと直しにかかる。メイクさんに小さな声で言った。
「か、鏡…」
ひどい顔をしている。しかしメイクさんのパフとハケによって、みるみるうちに「一見」もとのようにもどっていく。
「…高彦、目を開けなさい」
あたしはいったい何をしたんだろう…。高彦が瞼を開いた。その眼を見ないうちに言った。
「もうっ、わかったわよ!」
「何がだ」
「あっ、あんたの言うことを一つだけ、何でもいいからかなえてあげる!」
「そうか。ならここで三浦とキスしてみろ」
ガタッ!
あたしと鈴ちゃんが同時に立ち上がった。すぐに三浦くんが鈴ちゃんの前に立ちはだかる。機敏なことだ。
「ただの悪質な冗談だ。村雨、座れ。秋月、ナイフを置け。そいつはケーキカット専用だ。ほとんど殺傷能力はない」
二人同時に座った。それを確認して三浦くんも座った。
「悪質すぎるわ…」
「秋月、眼を閉じろ」
「……何するの?」
「やれ」
「わかったわ…」
自分に拒否する権利なんかないことくらいわかっている。
「でも…、いつまで?」
「自分でいいと思うまでだ」
目を閉じた。心臓が早鐘を打つ。…バカ! 何を期待してるんだ! 殴られてもおかしくないことをしたんじゃないか! 言われてもいないのに歯をくいしばった。だけどあたしを待っていたのはもっと残酷な現実だった。
ひどく長い時間が経った気がしたころ、田中くんの声がした。
「部長、もういいですよ…」
目を開けた。
三浦くん、支配人さん、メイクさん、ユリエちゃん…。
「あいつは…」
「いるわけがないでしょ…」
鈴ちゃんが呆れたように言う。
うわぁぁぁっ、うわぁぁぁっ、うわぁぁぁっ…。
声を上げて泣いた。
軽蔑された…。世界でいちばん尊敬している人に軽蔑された…。
「何で…、こんな残酷なこと…。あたしにキスさせてくれれば…」
鈴ちゃんが呆れた表情のまま言った。
「さっき人前で寸止めを食らって、今度はキスされて人前でよろこばなきゃならないんですか? 玩ばれているようにしか見えませんよ。それってものすごくみっともなくありません?」
支配人さんが気の毒そうに言った。
「男っていうのは馬鹿な生き物でしてね。見え見えの強がりであっても、女の前では格好をつけたがるものなんですよ。そして女の前で格好をつけている姿を、後輩にも見せなければならない。男は一度ツラを舐められたらおしまいなんです。澤霧さまは目が覚めた時から、一秒でも早くあなたの前から逃げたかった。恥ずかしくて恥ずかしくて仕方がなかったに違いありません」
「全く、男って…」
なんて馬鹿なんだ! あたしがさっき、どんな気持ちだったか…。
「絵里奈先輩。支配人さんは、女子であるあなたに気を使ってこういう言い方をしているだけですよ。男だろうが女だろうが、自分に恥をかかせた相手と一緒にいたくはないです。あなた、澤霧先輩に同じことをされて、いつまでもその場にいられますか?」
ゾッとするようなことを言う。
「あたしじゃあるまいし、あいつがそんなバカなわけないでしょ!」
「澤霧先輩のことじゃないんです。あなたのことです」
「あたしなんか…、ぶん殴ればよかったのよ!」
鈴ちゃんが深くため息をついた。
「あなたって人は…、本当に自分のことしか考えてないんですね…」
どういうことよ。
「そんなことしたら澤霧先輩は、『キスしようとして拒否され、逆切れして女を殴った男』になっちゃうじゃないですか! 事情はどうであれコウイチと支配人さんは止めざるを得ませんし、ホテル側としては学校に連絡しないわけにはいかない。ことによったら警察に通報されるかもしれません。恥の上塗りです!」
つまり…、あいつが目を覚ましたとき失敗した時点で、もうどうにもならなかったってこと?
「なんでこうなるのよ! あいつを傷つけたいなんて思ってなかった! あいつをいやな気持ちにさせたいなんて思ったことは一度もない! あたしはただ、一言褒めてほしくて…」
「似合ってる」とか、「きれいだ」とか、「もう一度その姿を見たい」とか、「今度はおれのためにそれを着ろ」とか…。
「それだけのためにこんなバカな格好したのに…」
「秋月さま…。あなたはまだお若い。『気持ち』を傷つけるのは『気持ち』なんかじゃないんです。必ず何らかの『行動』と、何よりも『言葉』なんです。要するに『表現』なんですよ」
「『気持ち』が『気持ち』で伝わるんなら、わざわざ台詞おぼえて芝居する必要なんかないよ。部長さん、本当に演劇部?」
ユリエがいきなり口を開いた。あたしをライバル視しているんだろうか。バカな子…。あんたに勝てるわけないのに!
「あんた、妹のくせに何もあいつのことをわかってないのね」
「どういうこと?」
「あいつはあたし程度の女に何か言われて傷つくような、自信のない男じゃないわ!」
「あなた程度の人に言われたからよけい傷ついたんだと思うよ」
「あんた…、何様? もう一度言ってみなさい!」
「こんな単純なことさえ一回で理解できないほど頭が悪いんですか?」
「鈴、言い過ぎだ。榛名さん、少し落ち着いて」
三浦くんがあたしをかばえばかばうほど、鈴ちゃんの気持ちがあたしから離れることはわかっっている。だけど今のあたしには…。
「だいたいなんで座ってるんです? まだ間に合うかもしれません。走って謝りに行けばいいじゃないですか!」
この子は無責任なことを言う。もしそうして許してもらえなかったら、あたしには後がない。
「心配しなくてもあいつのことだから明日はちゃんと部活に来るわよ」
きっと来ないだろう。二月公演で高彦に主役をやってもらうことは期待できない。いや、ユリエちゃんも鈴ちゃんも、あたしが高彦の敵になると同時に立ち位置を変えた。一年生で、二、三年生に逆らってまであたしの味方になってくれる子はいないだろう。部活から追放されるのはあたしの方だ。いまのあたしの味方は三浦くんだけ…。
「その根拠は何ですか?」
「あいつがあたしを! 手放すわけないでしょうが!」
「だから、その根拠を教えて下さい」
「あいつが面食いだから!」
「まさか、それだけですか?」
「あいつは一生あたしよりいい女なんか手に入れられないわよ!」
「あなたはウチのお兄ちゃんを馬鹿にしてるの? それとも自分が美人なことを自慢してるの?」
「もちろん、自慢してるのよ」
「部長、なぜそんなにイライラしてるんです?」
「あんた聞いてなかったの? あいつさっき、あたしのことを何て呼んだ? ……『秋月』って呼んだのよ!」
「ゼイタクだね。ウチは妹なのに公私混同はしないって、部活の時は『ハルナ』って呼ばれてて、だけど一緒に暮らしてるわけじゃないから、全然『ユリエ』って呼んでもらえないんだよ。妹のウチが苗字で呼ばれてるのに、なんで他人のあなたが名前を呼んでもらえるの?」
「あいつに下の名前で呼び捨てにされるのは、あたしの特権なの!」
「いまはそんなことを話している場合じゃありません。とにかく自分が澤霧先輩をここに連れ戻しますから、部長、謝って下さい」
「そんな必要なんかないわ!」
思ったより大きな声が出てしまった。広間がしんとなった。三浦くんが立ち上がった。
「わかりました。かえって時間を置いた方がいいかもしれない。あなたと澤霧先輩のことについて我々がこれ以上言うのは野暮というものだ。今日はこれで解散しましょう。鈴、コーヒーでも飲んでいこうぜ。ホテルの喫茶店は高いから表のマックだけどな。おごるからちょっとつきあえ」
「うんっ!」
鈴ちゃんがうれしそうな声を出した。この子は三浦くんには本当に素直だ。
「三浦くん…」
あたしは年下の男の子に頼っているんだろうか。情けない…。
「あいつをここに連れてきてよお…。ちゃんと謝る…。許してもらえないかもしれないけれど、土下座でもなんでもするからさあ…」
「『許してもらえなくてもいい』って…。自分の気持ちの整理ならひとりでやってね。そんなことにウチらは付き合わないよ。ウチにとって大事なのはアニキの気持ちであって、あなたの気持ちなんかどうでもいいの。あなたがやらなきゃならないことは、アニキが許す気持ちになれるよう、何が何でも努力することでしょ」
「今晩はクリスマスイブでしたね」
何が言いたいんだろうか。
「澤霧先輩は毎年この日が来るたびに、今日の絵里奈先輩の仕打ちを思い出すでしょうね。史上最低のプレゼントです」
「鈴! いい加減にしろ! 榛名さんもいくら何でも言い過ぎです。だけど部長、さっきの澤霧先輩のキス顔は消去して下さい。それで許されるかはともかく、本人の目の前で消せば、少しは誠意を示したことになるでしょう」
「ってないわよ…」
「は?」
「撮ってないわよ、バカ! 音をさせただけよ! いくらあたしがバカでもそんなことするわけないでしょ!」
「はあ…。それじゃあせめて着替えて下さい。あなたがその姿のままでいれば、澤霧先輩はバカにされていると思いかねません」
「いやっ!」
「あのですね…」
「絶対いやっ!」
「部長!」
「あいつにもう一度これを見せるの! ほめてもらうの!」
「…わかりました。澤霧先輩をここに連れてくるまでは自分が責任を持ちましょう。ただし、その後は部長に全てお任せします」
「あんたも澤霧先輩も、女の子を無責任に甘やかしすぎよ! それがやさしさだと思ってるんなら大間違いよ!」
「鈴…、そう言うな。うちの部活の人間関係は全て、秋月先輩と澤霧先輩の信頼関係が基礎になっている。それが無くなれば全ての連帯が消える。現にそうなりかけてるんだ。ここで部長を追いつめるのはおれたちにとって得策じゃあない」
「………フン、さっきのコーヒーの約束、忘れるんじゃないわよ。コーヒー代とかいって120円渡したりしたら許さないからね。マックでもミスドでもどこでもいいから、ちゃんとエスコートするのよ!」
「わかってるよ」
三浦くんが出ていくのを見送った。
………。
得策………。