約束
「いやあ、すばらしい!」
支配人さんが拍手を始めた。
「まず高彦さま、人生のうちで気を失うほどに美しい人に出会えたというのは幸いだといえましょう」
出口まで行きかけた絵里奈がとんで帰ってきた。
「あんた、あたしの話を聞いてなかったの? こいつはね、朝ご飯を食べて来なかったから血糖値が下がって貧血をおこしたのよ! 高彦! あたしを守るんでしょ。そうだって言いなさい! あたしの精神を安定させるためにそう言いなさい!」
百合枝まで言った。
「あんた…。まだ懲りないの? この人をナメないほうがいいよ。それに、お兄ちゃんが許しても、ウチが許さないよ!」
「おまえら、これだけこの人に世話になっておきながら、なんだその態度は!」
「あんた、こいつにバカにされてるのよ。くやしくないの!」
「どうでもいい。心の底からどうでもいい。どうでもいいとか口にする気もしないほどどうでもいい」
「あの…、さっきも聞きましたけど、傷つきます」
「あんたの気持ちなんかどうでもいいわ。こいつがあたしを守るのは、こいつにあたしが必要だから。だからこいつはあたしを守る。だからこいつをあたしは守る!」
「兄貴の心にかすり傷でもつけるようなマネは、誰にもさせない!」
「いい加減にしろ、バカ女ども! さっさと謝れ!」
「くっ…」
「くっ…」
「謝らなければ、二人とも見捨てるぞ!」
「………」
「………」
「やれ!」
二人が頭を下げかけたとき、支配人さんが口を開いた。
「お二人とも、かいかぶっておられます」
「はあ?」
「なに!」
「わたくしのような小物に、高彦さまの心にかすり傷でもつけることなどできましょうか」
二人とも満更でもないような顔をしだした。何なんだこいつらは…。
「おそらく高彦さまを傷つけることができるのは、絵里奈さまだけ。…失礼ながら、榛名さまですら荷が重い」
百合枝が剣呑な顔をしだした。
「百合枝、黙って聞け」
「『男は一度ツラを舐められたら終わり』。そう思ってわたくしはずっと生きてきました。しかし気絶しようが、女に殴られようが、四つん這いになろうが、急所を握られようが、女の前で泣こうが、床をなめようが、絶対に隠しておきたいことを暴露されようが、澤霧さまの権威はピクリとも揺らがなかった。まさに…カリスマ! こういう商売をしているだけに多くの人に会いますが、こんな人間は見たことがありません」
そういう設定なんですよ、きっと。
「絶対にこの人は出世します。むろんあなたさまも。ですからぜひ披露宴は当ホテルをお使い下さい。費用はこちらで全額負担させていただきます。…絵里奈さま、どうでございましょうか?」
絵里奈がこちらをちらりと見た。
「なんであたしに聞くのよ…」
「わたくしには、高彦さまの隣にあなた以外の女性が立っているなど想像がつきません」
「当たり前じゃないの! だけどあたしの一存じゃ…」
「失礼ながら、高彦さまにとっては、こんなことはどうでもいいことでしょう。多分『勝手にしろ』とおっしゃいます」
勝手なことを言っている。
「だけど、あなたに何のメリットもないじゃない」
「とんでもない! まずお二人とも、絵に描いたような美男美女です。無論それだけではございません。このお二人が結ばれるきっかけが当ホテルの広間だというのもいい宣伝になります。無論きっかけの一つなのでしょうが、その辺りはうまく広告します。それに先ほど申しましたように、あなた方は絶対に世に出る人です」
「あなた…、さっき全部タダって言ったわね」
「申しました」
「本当に?」
「わたくしは商人でございます。嘘はつけません」
「だけど、それまであなたが支配人でいるっていう保証は?」
絵里奈がずいぶん失礼なことを言った。しかし支配人さんは余裕の笑みでかわした。
「絵里奈さま、今までずいぶんお待ちになっていたのではないですか? さすがにこれ以上は待てないのではないですか? そこまで…」
「辛抱づよくはないわ、あたしは」
「むろんすぐお返事をいただきたいとは申しません。よくお考えになってからで結構でございます。では、713号室を用意させます。着替えもそこに運ばせましょう。シャワーなりなんなりお使い下さい。」
支配人さんがにこやかに笑いながら出口に向かった。