ハンカチ
バン! という音を立てて入り口が開いた。
「櫻川署の者です! 痴漢が出たっていうのはここですか!」
制服警官と制服の婦警が入ってきた。
部長が前に進み出た。
ぺこりと頭を下げた。
「すみません…。彼氏にいきなりキスされたものですから、ついカッとなって通報してしまいました。彼を警察に突き出すつもりなんかありません。せっかく来ていただいたのに本当に申し訳ないのですが、どうかお引き取りいただけませんか」
「………」
お巡りさんと婦警さんが絶句している。ただ、お巡りさんの方は部長のあまりの美貌に見とれているようだ。このまま何事もなく帰ってくれるかもしれない。
「彼氏……」
まずい。余計なことを言った人がいた。この人は、部長が他の男に褒められるのをものすごく嫌うんだった…。
澤霧先輩の発言を受けて、部長が先輩をぎろりとにらんだ。先輩は目をそらした。
お巡りさんが澤霧先輩の方を見た。
「なんだあ、おまえ? この子がかばってくれてるのがわからねえのか? おまえ本当はこの子の彼氏でも何でもないんじゃねえのか?」
お巡りさんは澤霧先輩の容貌は気に入らなかったようだ。
「はい、その通りです」
「色気づいたガキが、何やってやがる! いきなりキスしただと? 犯罪だぞそれは! この子が知り合いをかばっているから補導するのは勘弁してやるが、今後絶対そんなことができないようにしてやる。この制裁だけは受けろ!」
お巡りさんが澤霧先輩を平手打ちにした。
「………今のは、絵里奈は見てたな」
「はい、確実に見ていました」
「まずいな…」
「まずいです」
ただ殴ろうとしただけの支配人さんに、部長は「砂糖壺に塩を入れる」という小学生級のしかもベタであること極まりない失敗をさせ、それだけでは足りずに澤霧先輩に対して土下座までさせた。本当に殴ったおまわりさんに、何をするか見当もつかない。
「しょうがねえ…、やるぞ」
心が痛む。このお巡りさんは、別に間違ったことをしたわけじゃない。ただ、あまりにも運が悪かった。
「何をブツブツ言ってるんだ? 文句があるんならはっきり言え。それともビンタはられてピーピー泣いてるのか?」
「あなたは、一切体が動かなくなる」
「はあ? 何かの呪いでもかけているつもりか? バカかおまえは。……えっ、おいっ、…おいっ! 何をしやがった!」
「浦賀巡査!」
婦警さんが叫んだ。
「あんたもだ」
「…ええっ、…どういうこと!」
「大丈夫だ。何もしない。…あんたにはな」
澤霧先輩がお巡りさんにゆっくりと近づいていく。その姿を後ろから見ていた。今はこの人に任せるしかない。
「このおれを本気にさせた、あんたが悪い。…とでも言うと思ったか? 悪いが、あんたじゃ力不足だ」
お巡りさんの顔が恐怖でひきつっている。そりゃそうだろう。澤霧先輩がお巡りさんの顔の10センチくらいまで近づいた。
「殴るんですか?」
「そんな乱暴なことはしねえよ」
お巡りさんの腰のホルスターの拳銃に右手をかけて一気に抜いた。
「ニューナンブ38口径、回転式拳銃…。もちろん本物だ」
お巡りさんの顔をみつめたまま右手を真横に伸ばして発砲した。甲高い銃声とともに壁に焼け焦げた弾痕ができる。
お巡りさんの鼻をつまんだ。当然大きく口を開けることになる。
「絵里奈…、いちばん確実な自殺の方法って知ってるか? 口に銃をくわえて発砲するんだよ。延髄をふきとばすことができる。もちろん即死だ」
いきなり銃口をおまわりさんの口に突っこんだ。
「あがっ…、あっ、あっ、あっ…」
そのまま前に進む。お巡りさんはそのまま後ろに下がる。ついにテーブルまで追いつめられてしまった。澤霧先輩がさらに銃を前に出す。上半身が倒れ、テーブルに背中がつく。上から銃を構えられた格好になった。
「なあ、絵里奈。おれはもう十八だ。少年法は適用されない。警官殺しって重罪なんだぜ。確実に死刑だろうな。おまえは拳銃っていうものがいかに暴発しやすいか知っているはずだ。」
この銃は暴発しないだろう、絶対に。
「だけど暴発したとしても、誰からも、おれが撃ったようにしか見えないだろう。今、おれの人差し指は引き金にかかっている…」
撃鉄を起こすカチッという音が響いた。
静寂。
お巡りさんが涙を流している。この人、深く入れすぎたんじゃなかろうか。
突然口の中からズボッと銃を抜いた。そのままホルスターにもどした。
「はあっ、はあっ、はあっ…」
お巡りさんが床にしゃがんだまま大きく息をしている。気の毒に…。
彼の前で中腰になって先輩が言った。
「あんたたちはもう体が動かせる…。これくらいでいいか? 絵里奈」
「うわぁぁぁぁっ!」
お巡りさんがいきなり叫んだ。
銃を抜いて正面の澤霧先輩に発砲した!
「もう少しまともなやり方で防御しろ」
銃と澤霧先輩の間に、榛名さんの小さな体が割り込んでいた。
「…ありがとうは?」
「…ありがとう」
先輩はジャケットからハンカチを出して顔にかかった榛名さんの血を拭っているらしい。
「言われなきゃお礼も言えないんだから…」
榛名さんが振り返った。見る間に額に出来た銃創がふさがっていく。
「バ、バケモノ…」
「あんた、榛名のことをバケモノと言ったか?」
「ち、ちがう…。バケモノはあんたの方だ…」
「失礼な人だな」
「へええ、あんた…、高彦を撃ったの…」
背後から底冷えのするような声が聞こえてきた。