知らないということ
「終わったぞ…。ゼロ距離射撃だ」
先輩の声が聞こえた。そちらを見た。澤霧高彦がゆっくりと立ち上がろうとしている。夕陽を背負った彼の微笑が悪魔のように見え…。
こけた。
ソファーに寝かされている部長が先輩のベルトをしっかりとつかんでいる。
「おいっ、離せ!」
部長は…、顔にはっきりと血の気がもどっている。起き上がろうとこそしないが、ゆっくり規則正しく呼吸しているのが聞こえる。
「部長…、落ちましたか」
「絵里菜先輩…、落ちてますね」
「秋山さま…、落ちていらっしゃいます」
「落ちたね。さっきはガクガク震えてたけど、いまはゾクゾクしてるよ、この人」
「わたしにも見せて見せて! うわあ、落ちてるわねえ」
「おまえら! 見せ物じゃねえ!」
先輩が四つん這いのまま叫んだ。今日はこの人、このポーズが多いな。
「君がカメラを取り上げたわけがわかったわ…。あんなすごいモノを撮影したりしたら機械が壊れるわよ」
この人はしっかり見てたらしい。
「榛名! 絵里菜の手を振り払え!」
「自分でやればいいじゃん」
「おれにはできそうにない…」
「高彦さんにできないことがウチにできるわけがないでしょ」
「そんなワケねえだろ…。村雨…」
「いやっ!」
「まだ何にも言ってねえぞ! メイクさん…」
「振り払う必要なんかないんじゃないの?」
「ずっとこのままっていうわけにはいかないですよ…」
「それよりわかってるわよねえ。キスした以上、君はこの子を彼女として扱う責任があるわ」
「三浦! なんでもいいから握るものを持ってこい!」
「ナイフじゃだめですね」
「当たり前だ!」
広間の壁際にハンガーかけがある。それを分解して鉄パイプを一本調達した。演劇部員というのは大道具を扱うため、こういう作業に慣れている。
「はい」
「ありがとう」
先輩は鉄パイプを受け取ると、部長の指をベルトから一本一本外し、パイプにからませている。マメな人だ…。きっと部長は夢の中で、先輩をつかんでいるつもりなんだろう。
この様子もあまり見たくない。
また床を見た。
部長が砕いたカップのかけらがそのままだ。しゃがんで拾う。
「青島…、貴様…」
支配人さんがメイクさんをギロリとにらんだ。
「すみません! ちょっと君、上司の前で恥かかせるんじゃないわよ!」
「は? 青島って何ですか?」
「わたしの名前だわよ! 青島光! お客さんにそんなことさせられるわけないじゃない!」
青島さんがしゃがんでカップの破片を集め始めた。
…落ち着かない。
「いや…、こういうのは男の仕事で…」
「そういう男女差別的な発言はいただけないわよ!」
「少なくとも演劇部ではそうです。女優っていうのはおそろしくプライドが高い」
「それが演技であれ何であれ、人にない能力があればプライドもあるのは当然でしょ」
「能力は関係ありません」
「容貌っていうこと?」
「女優の容貌は能力のうちです。男優より能力が高い女優っていうのはありえないんですよ」
「だからそれが男女差別…」
「女優より能力が高い男優っていうものもありえません。照明器具よりも性能がいい音響器具っていうものはありえませんし、音響器具より高性能の照明器具もありえない。両者はまったく別の存在なんです。そしてフイルムのないカメラはあってもレンズのないカメラはありません。能力なんかあってもなくても、プライドの高くない女優なんてありえないんです。そして映画の撮影には絶対にカメラが必要なように、新劇の舞台には絶対に女優が必要なんです」
「若いのに悟りきってるわねえ…」
「いや…、顧問の望月先生の受け売りなんですけどね」
「今日は何で顧問が来ないの?」
「練習でもないのに日曜日をつぶせるかって…」
「無責任ねえ…」
青島さんが拾ったかけらを持って立ち上がった。
「そうだ。カメラを忘れていた。榛名、もどせ」
「高彦さん…、部長さんの携帯の、先輩のあの写真は…」
「こいつにとっては大事なものらしい。復元してやれ」
音もなくテーブルにさっき消えたものがすべてあらわれた。
「まったく…、あれを待ち受けにしておけば電話をかけるときに、ほっぺたにキスされてるような気がするからって…。変態じゃねえか?」
「へええ、君。そこまでわかっていながらあの子にあんな厳しい態度を取ったんだ…」
「どうやらおれは、どんなものであってもこいつが大事にしているものを取り上げるなんて、できないらしい」
「なんか、自分をいいように言ってない?」
青島さんが澤霧先輩にからんでいる。だけどぼくは別のことを考えていた。
「ただ、無論能力のある女優、能力のある男優っていうものは存在します」
「今はそんなことどうでもいいのよ!」
「演技力そのもので言えば、今度の二月の公演で、部長が目の前で澤霧先輩を殺されるっていうシーンがあるんですが、ぜひ見に来て下さい。それを見て狂気のように叫ぶ演技はものすごいド迫力ですよ」
「そういうのは日本語では『演技』って言わないわよ! だいたいさっき、『うそをつく練習をしろ』って言われてたじゃないの!」
「顔で演技する舞台役者なんかいませんよ」
「…なんで?」
「お客さんに見えないからです。我々はスポーツをやっているわけじゃありません。我々が対決するのはあくまで観客であって他校の演劇部じゃないんです。観客がわからないことは、舞台の上では存在しないのと同じです」
「わたしは君が鈴ちゃんをどう評価するかの方が興味があるわね」
「実は、ぼくとしては澤霧先輩の相手役が鈴でもいいと思ったんですが、なぜかオーディションの時、あいつはぼくと夫婦役の方に立候補しました」
「なぜかって…」
「まあ、ぼくに抱きついて泣くシーンとかあるんですが、芝居と割り切っているせいか特に抵抗はないみたいです。実にそれらしい、自然な演技をしていますよ。特にぼくに抱きついて眠っているという演技はとても幸せそうだと評判です」
「だからそういうのは演技とは…」
「ただ、ぼくに無理やりキスされるっていうシーンがあるんですが、…もちろん高校演劇ですから本当にやるわけじゃなくて抽象化されるわけなんですけど、とにかく無理やりされるのに、必ずあいつは目を閉じちゃうんですよ…。何回場合わせをしても同じです。いくら顔で演技をしないのが舞台役者といってもこれはひどい。それで、鈴を役から下して一年の女子にやらせたらどうかと…」
「あの子に言ったの!」
「いえ、部長と一年生の女子に言ったら、『鬼』とか、『悪魔』とか、『人でなし』とか、ありとあらゆる罵詈雑言が返ってきました」
「当たり前でしょ…」
「それで、『目を閉じているんだけど無理やりキスされる』っていう設定に台本が変わってしまいました。演出が役者に合わせた例のひとつで…」
「コウイチ! 何あたしの話なんかしてるの!」
「あら、あんた妬いてんの?」
「べっ、つっ、にっ!」
「澤霧先輩は何でも器用にこなします。演技と私生活の不器用さは別みたいです」
「必ずしもそうじゃないかもしれないわよ…。ねえ、あんたはこの子の演技をどう思うの?」
青島さんがいきなり鈴に振った。
「こいつの芝居はね…。お客さんを意識しすぎてるのよ」
「当たり前だろ」
「特に女の子のね!」
「演劇を見に来るなんて、女子の方が多いに決まってる」
「二月公演が終わって、またチョコレートをいっぱいもらえるといいわねえ」
「おれは甘いもの苦手なんだが…」
「去年みたいに、あたしが食べてあげるわ!」
太るぞ。
「今年は一年生に甘党の女の子がいっぱいいるしね!」
「いや…、演劇部の一年からもらったとするとその方法はまずい」
「あんた、後輩からももらうつもりなの?」
「いや、つもりとかそういうことじゃなくて、おれには予想できないわけで…。だいたい去年も、おまえからもらったやつはちゃんと自分で食ったぞ!」
「はぁ…。君、当たり前じゃないの! それに他の子からもらったのも、人にあげるなんていけないことだわ!」
「いや…、こいつが毎年2月14日には持ち物検査をするんですよ…。それで取り上げられるものですから…」
「持ち物検査ならおれも毎年絵里菜にやられるぞ! どうせチョコレートなんか入ってないとわかっててやるんだ。それでいやらしい笑いを浮かべて『どうせあんたは誰からも貰えないわけだし、かわいそうだからあたしが…』とかなんとか」
「いや…。全校の女子が、絵里菜先輩には絶対勝てないとわかってるでしょうし」
「強弱の問題なのか?」
「いえ、勝敗の問題です」
「あいつ、後輩とかから怖がられてるのか?」
「誰が怖がられてるって?」
「ああっ、鬼女が眼をさました!」
叫んだのは無論澤霧先輩である。部長にこんなことを言えるのはこの人しかいない。
「高彦ぉ…」
語尾が上がっている。やんきいのようだ。
「お、おまえ怒ってるのか?」
「怒ってないと思う?」
「思いません…」
「なんであたしこんなもの握ってるのよ!」
「鉄パイプ振り回すな!」
「痴漢! 性犯罪者! 強姦魔! …エッチ!」
「鈴…、部長が澤霧先輩に『エッチ』って言う時、何か媚みたいなものを感じるんだが…」
鈴がぼくをじっとりした目で見て言った。
「…エッチ」
「いや絵里菜、すま…」
「謝ったりしたら、たとえあんたでも通報するわよ!」
「………」
次に出す言葉を失ったのか、澤霧先輩が黙ってしまった。
「それでもう一度聞くわ。あたしはいったいあんたの何なの!」
「だから無条件の味方…」
「彼女なの! 彼女じゃないの! どっち!」
「いやあの、すまん…」
あっ、謝ってしまった!
部長が鬼のような顔をして鉄パイプを捨てた。カラカラと床を転がる音が怖い…。
「通報してやる!」
ドレスのあちこちをぱたぱた叩いている。
「携帯は…。アーッ!」
部長がテーブルの上を見つけてダッシュして取ろうとする。しかし予想していたせいか澤霧先輩の方が早かった。携帯とスマホすべてを集めてその上に腹這いになった。
…何をしてるんだろう、この人たちは。
「だから、謝ってるだろうが!」
部長が先輩の髪をつかんでいる。
「謝ったからキレてんのよ!」
「おれにどうしろってんだ!」
「通報させなさい!」
「させるか!」
「支配人! あそこの電話、外線につながる?」
「はあ…。ゼロ発信ですが…」
先輩が叫んだ。
「あんた、言っちゃだめだろうが!」
「しかし、秋月さまには借りがありますし、どう見てもただの照れ隠しで、本当に澤霧さまを警察に突き出すとは思えな…」
「駄目だぁ! そう言っちまったら、こいつは意地でもそうするしかない!」
部長が部屋の電話まで走る。受話器を取り上げてボタンを四つ押した。
「もしもし、警察ですか! さっき痴漢に襲われました! 犯人はまだ部屋の中にいます。すぐ来てください!」
部長が受話器をガタッと下ろした。
澤霧先輩がテーブルの上からどいた。
「…三浦。こいつ知ってると思うか?」
「知らないと思いますよ」
「だったらまあいいか…」
「秋月さま…。警察に対してきちんと澤霧さまをかばって下さいね…」
「何で? あたしは部屋としか言ってないし、この場所のこともこのホテルのことも…」
「ちょっと待って下さい!」
思わず叫んでしまった。
「110番っていうのは、全部逆探知されるんですよ!」
部長の顔がみるみる青くなった。
「ああっ、言っちゃった!」
「現代の技術なら数秒の通話でも逆探知が可能です。しかも携帯ならともかく、固定電話であれば瞬く間にこのホテルのこの部屋まで特定されるでしょう!」
「部長、とにかく謝って下さい。日本の警察は痴話喧嘩の仲裁に入るほどヒマじゃありません」
「うん…。調子にのりすぎた。ごめんなさい…」
外からパトカーのサイレンが聞こえてきた。
「さすがに早いですね」
「…知らないっていうのは怖いことだな」
「全くでございます」
先輩と二人で支配人さんを怒鳴った。
「あんたのことだ!」
「は?」
支配人さんが不思議そうな顔をした。
バン! という音を立てて入り口が開いた。