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あなたが見えない  作者: 恵梨奈孝彦
12/29

シャンデリアの下の紅茶

 気がついた時は床の上に尻餅をついていた。

 一瞬後に目の前をシャンデリアが落ちてきた。

 生きている…。

 涙が出そうになった。

「みなさん、お怪我はありませんか!」

 支配人さんの切迫した声が聞こえる。

 そうだ、あいつは?

 あいつの声が聞こえない…。

 全身の毛が逆立ち、胃がきゅっとしまった。

 自分が生きていても、あいつが死んだら意味がない!

「絵里奈…、無事か!」

 いきなり襟首をつかまれた。

「その前に、ウチにお礼を言うのが先でしょ!」

「あ…、榛名。ありがとう」

 榛名が人間離れした動きをしておれの背後にまわり、後ろ襟を思い切り引っ張ったのだ。

「こんな時でも百合枝って呼んでくれないんだね…」

「高彦! 生きてるなら返事をしなさい!」

「生きてるぞ…」

 シャンデリアの向う側からでもはっきりと安堵の溜息が聞こえた。

 立ちあがった。絵理奈がこちらに走ってきた。

「あんた、何やってるのよ! そのままあたしを引っ張りだせば良かったじゃないの!」

「ああ、すまん。そこまで頭が回らなか」

「ウソをつくな!」

 …ちょっと咳払いをした。言うしかないんだろうか。

「まあ…、女の本能だな」

「何言ってるの!」

「これを言っても怒るなよ」

「さっさと言え!」

「跳べ!」

 同時に榛名の手を思い切り引き寄せた。

 …思い切り前に跳んできやがった。

 榛名の顔が10センチくらいまで接近した。

「高彦…、あんたあたしがものすごいヤキモチ焼きだって知ってるわよねえ」

「知らないなあ…」

「今から、教えてあげようか?」

「跳べ!」

 今度はメイクさんの手を思い切り引き寄せた。

「…あの、空気読んでもらえます?」

 10センチくらいの距離から言った。

「君、彼女の前でこんなことをして大丈夫?」

 絶対にからかってるな、この人…。

「三浦、村雨にはフラないから安心しろ」

「なんでぼくが安心…」

 いきなり三浦の手をぐっと引っ張った。当然三浦は後ろに体重をかける。おれも体重を後ろにかける。当然中央で引っ張り合いになった。

「引っ張り出せばいいと言うが、この状態になるのがいちばんまずい。前にも後ろにも動けない」

 パッと手を離した。

 今度は左足に体重をかける。右利きの人間は左足を軸にした方が回転しやすい。

「女が何の説明もなく男にいきなり手をつかまれたら、警戒して後ろに跳ぶと考えるのがが自然…跳べ!」

 再び三浦の手をつかんで引いた。三浦が真後ろに跳び下がる。同時に左足で床を思い切り蹴った。相手が後ろに跳んでいるため簡単に(おれにとって)前に跳ぶことができる。二人で床に転がる前に右手を三浦の後頭部に当てた。

 三浦と折り重なって倒れた。

「村雨…、いくら何でもおれをにらむな。こうすれば片手が空くから相手の後頭部が床に叩き付けられるのを防ぐこともできる」

 立ち上がりながら言った。

「いやあ、まさか先輩に女心について説かれる日が来るとは。しかも100%の確率で外してますね」

 おまえはさっさと起きろ。

「相手が前に跳んだ時の対処については…、さっきやった通りだ。この方法を取れば前に跳ばれても後ろに跳ばれても対処できる」

「しかしこの方法には致命的な欠陥があります。相手が前に跳んだら…」

「おれが死ぬことだな」

 生きてるけど。

「へええ…、あんた。あたしがあんたから逃げると思ったんだ!」

「両面作戦を取っただけだ」

「あたしが逃げる方に、自分の命を賭けたんだ!」

 おまえさっき、おれから逃げたじゃねえかよ。

 とは言えない。

 あいつがあごで床をさした。

 くそ…。

 四つん這いになった。

 ドカッ!

 さっきより乱暴に座りやがった…。

「部長さん、命を助けてもらってその態度はないと思うよ」

 榛名…、あおるな。

「そんなことよりも、お二人ともお怪我はなかったでしょうか。もしかすり傷でもあれば遠慮なくおっしゃって下さい。誠心誠意対処させていただきます」

 支配人さんが間に入ってくれた。

「『そんなこと』じゃないよ! だいたい、高彦さんがいるのに部長さんがケガなんかするわけないし、ウチがいるのに高彦さんがケガなんかするはずないもん!」

 榛名は支配人さんの話に乗る気はないようだ。

「いやに自信たっぷりじゃないの」

「部長さんは高彦さんを守らないの?」

「それはあたしの仕事でしょ! だいたい高彦さんって、なれなれしいわよ!」

「高彦先輩」

「澤霧先輩でしょ!」

「なんで妹のウチが名字で呼ばなきゃならないの!」

「あんた苗字違うでしょうが!」

「部長さん…」

 榛名がしばらく黙った。

 絵理奈の表情は見えないが、榛名の表情は見える。

 ……まずい。ものすごくまずい。

「高彦さんはウチに『ありがとう』って言ったよ。せめてそれくらい言ってあげてよ!」

 どうやらおれのことを高彦先輩とも澤霧先輩とも呼ぶ気はないようだ。自分の傷に触れたくない以上、精一杯の抵抗なのだろう。

「こいつはあたしを手に入れることができる。あたしの『ありがとう』はね、たった五文字の言葉じゃないの! あんたにはできないわよねえ…、だって…妹だもの!」

「おまえら…そういう話は!」

「なに!」

「なによ!」

「おれのいない所でやれ!」

「あんたはだまってなさい!」

「高彦さんはだまってて!」

「だめよー。男を巻き込まないと女のケンカは成立しないのよ」

 メイクさんがワケのわからないことを言っている。

「鈴も、先輩がひどいと思います。今の絵理奈先輩が、澤霧先輩から逃げるなんて考えられません」

「村雨さん、どっちの味方なの?」

「あたしはどっちの味方でもない。自分が思ったことを言っただけよ」

 榛名にとって「味方」という言葉は特別の意味を持っている。こっちもまずい…。

「村雨さんは誰であろうと自分が納得できない限り、『無条件の味方』にはならないんだね…」

「あたしには『無条件の味方』がいるわよ」

 絵理奈…、榛名にその発言はまずい…。

「へえ…、誰なの?」

 本能が告げている。今発言するのはまずい…。

「高彦! あんた言いなさい!」

「高彦さん! 言ってみてよ!」

 黙れと言ってみたりしゃべれと言ってみたりいい加減にしてほしい。

「村雨…」

 強引に話を振った。話題を変えるためには仕方がない。

「はい」

「おまえは本気にしてるのか?」

「どういうことですか?」

「おれも三浦もホモじゃない。おまえが心配するようなことは何も…」

「そんなことは、あなたたち二人の絵理奈先輩への態度を見ていれば誰にでもわかります!」

 …どういうことだ?

「村雨、おまえまさかおれの絵理奈への気持ちを知って…」

「は?」

「は?」

「は?」

 村雨、榛名、三浦の順で全く同じことを言い、全く同じ表情をした。

「ちょっと待て! おれがこいつに告白したのはさっきのことだぞ! 何でおまえらがその前からおれの気持ちを知ってるんだ!」

「は?」

「は?」

「は?」

 同じことが起きた。

「絵理奈…、まさかおまえも…」

「あんた…。部会であたしが隣に座らなかっただけで機嫌が悪くなるじゃないの!」

「高彦さん…」

「なっ、なんだよ…」

「ガキ」

「おれはおまえの先輩だぞ! ションベンくさいガキのくせに何言ってやがる!」

 背中でピクッと震えた。

 まずい…。ものすごい失言だ。

「絵里奈、小便くさいっていうのはおまえのことじゃな…」

「念押しするな!」

 殴られた。

「『おまえの兄貴なんだぞ』っては、言ってくれないんだね…」

「あんたのあたしへの気持ちなんか、演劇部中、っていうより学校中が知ってるわよ!」

「あんたたち、さっきからずうっとべたべたしてたじゃないの。いつものことだって聞いたわよ」

 メイクさんが余計なことを言った。

 ものすごく恥ずかしい。すぐさまここから逃げたい。

「絵理奈…、ちょっと降りてくれないか」

「いやっ!」

「いや、おれはここに居たたまれないんだが、ものすごく恥ずかし…」

「あんたの前であんなことをやらかしたあたしにそれを言うの?」

 こいつ、これをずっと武器にするつもりだな…。

「いや、それだけじゃない。他の理由もあるんだ」

「トイレなら行かせないわよ! あんたも垂れ流しなさい! あたしが介抱してあげる…。あんたのおちんちんをやさしく拭いてあげるわ…」

「コウイチ…」

「なんだ」

「やだもう、この変態カップル!」

「さすがにおれも、今のはヒいたな…」

「そうじゃなくて、口の中におまえの味がするんだ」

「や、な、な…なによ、あたしの味って!」

「そうじゃない! おまえのおしっこの味が…」

「バカーッ!」

 また殴られた。

「だから…さっきから、口の中が苦じょっぱいんだ! 後味にけっこうえぐみがあって…」

「具体的に言うな!」

 支配人さんがソーサーに乗ったカップを持ってきた。

「わがホテルで今推しております紅茶でございます。スリランカから直接取り寄せました葉を、我々の厨房で特別な方法でブレンドいたしました。とりあえず、ホテルサクラガワ・スペシャルとでも申しましょうか」

 幕の内に紅茶というアンバランスな取り合わせだったのは、これを言いたかったからか。弁当までつけてくれたのはモニタリングをさせたかったからだろうな。

「床の掃除が行き届いていなくて申し訳ございません。お口直しにどうぞ」

「いや、口の中にホコリが入ったのは事実ですが、床をなめる奴のことを考えて掃除をしているわけではないでしょうし、だいいち後味が悪いのは床のせいじゃなくてこいつのせい…」

 殴られた。

「紅茶をブレンドしてくれた人にはわるいけど、砂糖を思いっきり入れてやってちょうだい。こいつはあたしの味を忘れたいみたいだから!」

「そうですね…、ジャムを入れると風味が失われます。砂糖のほうがいいでしょう」

 しばらくして支配人さんが、床に膝間づいてカップを渡してくれた。

「ありがとうございます…」

 四つん這いで紅茶を飲む日が来るとは思わなかった。

「今の澤霧さまの気持ちにとてもあっているかもしれません」

 飲んでみた。

 ………。

 カップを頭の上にあげる。

「絵理奈、ちょっと飲んでみろ」

「あたしは太るのがいやだから…」

「これなら太らないと思うぞ」

「そお?」

 おれからカップを受けとって口につける。関節キスだな…。ちょっとドキドキしてきた。こいつは気にしないだろうが。

 いきなりおれの背中から立ち上がった。カップを顔の横に上げていきなり指を離した。カップは重力に従って床に叩き付けられ、粉々に割れた。

「秋月さま…。物を、飲食物を粗末にするのは感心しませんね…」

支配人さんが今までとは打って変わった落ち着いた声を出した。

「よくもこいつにこんなものを飲ませたな…。何がこいつにふさわしい味だ! あたしの小便のほうがずっとマシだ!」

 おれも立ちあがって言った。

「それは言い過ぎだ」

「失礼ながら、お二人ともお若い。この紅茶はただのセイロンティーではない。癒し効果とでも申しましょうか。イライラしたり落ち込んだりした気持ちを落ち着かせる効果があります。わたくしも勿論ですが、ホテルの従業員全てにモニタリングを…」

 絵理奈がテーブルの上の砂糖壺をガンッと天板に叩き付けた。

 中身が飛び散って支配人さんのスーツにかかった。

「ガキどもが…、下手に出ればつけあがりやがって…」

「あんたそれ嘗めてみなさい! それでもそんな態度を取れるんだったら、土下座でも裸踊りでもしてあげるわ!」

 おれをちらりと見て支配人さんが言った。

「裸踊りは遠慮しておこう。しかし一度口にした以上は、必ず土下座はしてもらう!」

 支配人さんがスーツの粉をなめた。

「………うわぁっ!」

 飛び上がった。今度は砂糖壺の中に手を入れて一掴み口の中に放り込んだ。

「さて…、感想は?」

 支配人さんが真っ青になってぶるぶる震えている。

 これ以上はまずいな…。こいつの意識を支配人さんから外す必要がある。

「絵理奈、ちょっと下の自販機でコーヒー買ってくるから待ってろ」

「こらあ、逃げるな!」

「すぐに戻るから心配するな」

 おれは走って広間の外に出た。


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