女の髪をくずさない
ようやく揺れがおさまった。さっきまでの大騒ぎがうそのようにしんとしている。しばらく全員が動かなかった。初めて支配人さんが声を上げた。
「いやに長い地震だったな…」
さっき「ひとりだけ」と思ったが、この人とメイクさんがいたのを忘れていた。
「先輩たち、いつまでそうしてるの?」
二人とも転んだまま村雨が三浦に抱きついている。おれは絵里菜の頭をしっかりと抱えている。
…気まずい。
そっと絵里奈を離した。そのまま立ち上がった。まだ三浦は村雨に抱きつかれている。こいつらは放っておこう。
「ほれ」
絵里奈に手を差し出した。あいつはおれを睨みながら万力みたいな握力で、おれの手をにぎって立ち上がった。
…気まずい。
「…ひどい顔だな」
絵里奈が泣きそうな顔をした。そういう意味じゃないことくらいわかるだろうが。学園一の美少女のくせに。
「メイクがぐちゃぐちゃだ。ファンデーションが半分くらい剥げていて、マスカラが溶けてほっぺたにまで流れている。直してもらえ。さっきみたいな付け焼刃じゃなくて、本格的にな」
あいつは、床を見ながらテーブルに向かった。おれに顏を見せたくないんだろうか。…けっこう傷つくな。
メイクさんは絵理奈をテーブルにつかせると、化粧落としを染み込ませたコットンで丁寧に顔を拭いた。透けるような白い肌があらわになる。…こいつ、メイクなんか必要なのか?
パフでファンデーションを塗りながら、メイクさんが話しかけている。
「やるわね…、あんたの男。あの若さであの鬼支配人を震え上がらせるなんて。女の子を本気で悲しませることもできれば、本気で怖がらせることもできる。怒らせることもできれば、笑わせることもできる。これって、何でもできるってことじゃない! あの子を逃がすんじゃないわよ。こんな男は滅多にいないわ」
「あたし今日は、笑わせてもらってない…」
「『初めて会う前から、おれはおまえが好きだった』」
「………」
「必死に頬がゆるむのを押さえてたわね」
「…あたしが選んだ男よ! そこらの下らない男どもと一緒にするなんて、あたしに失礼だわ」
「あんたを抱きかかえていた時は、本当にあんたを宝物みたいに扱ってた。あんた…、あの子を本気で怒らせるなんて、何をやらかしたの?」
「…あいつが気絶したことをさんざん馬鹿にした。キスされるフリをしていきなり目を開けて携帯であいつのキス顔を撮った。ネットにアップしてやるって言った。…おまえは敵だって言われた。死ねって言われた。消えろって言われた。…さようならって言われた。…消えたくなった」
「あっ、あんた…。あの子にそれだけのことをしておきながら、ちょっと拗ねただけだ? 大の男が本気になるな? あげくのはてには、いつもみたいにやさしくしろ? あたしはね、男に甘えながら男にケンカを売る女がいちばんむかつくの!」
「あいつが悪いのよ…」
「誰が聞いても、あんたが悪いと思うでしょうね」
「あいつ知ってるくせにさ…。あいつを半日悲しませるくらいだったらあたしは死ぬって、知ってるくせにさ…」
メイクさんが筆を取りだして唇にルージュをさしている。筆を下すと同時にあいつが立ち上がった。
「決めた!」
「座りなさい!」
「もう決めたの!」
「さっきあの子に、『きちんとメイクを直してもらえ』って言われたでしょ!」
絵里奈が座った。ハケを取りだして頬に紅を散らしてもらっている。
「終わった?」
「何するの?」
あいつがもう一度立ち上がった。
「あたしを守るか、あいつを試す!」
窓に向かって走り出した。
「バカ! 待ちなさい!」
さっきパソコンを放り捨ててから、窓が開けっ放しになっている。
あいつは両手で桟に取りつき、片脚をかけた。顏だけこちらに向けて叫んだ。
「高彦…。あんたあたしに『死ね』って言ったよね」
「あんた! まだバカな真似をしたいの! 今度こそ見捨てられるわよ!」
「部長! もどってきて下さい!」
「絵里菜先輩! こっちの方が安全です!」
「誰も近づくんじゃないわよ!」
小声で榛名に言った。
「リボルバーの拳銃を出せ。なるべくでかい奴だ」
「何するの?」
「お望み通り死んであげるわ!」
「ぜったいにひとには向けない。早くしろ!」
「わかった…。信じるよ」
コルトパイソンね…。本当に馬鹿でかい奴を出したな。
「何よ、そんなオモチャなんか出して。小道具?」
とにかくこいつを窓から遠ざけなければならない。
「おまえに…、おれの命をやろう」
「何言ってんの? そんなものほしくないわよ!」
「おれのクリスマスプレゼントを受け取ってくれないのか?」
映画で見るようにシリンダーを外し、中のタマを一発だけ残して全て床に落とした。
「ロシアンルーレットって知ってるか?」
「あたしはあんたの遊びに付き合わないわよ!」
一発だけ装填し、シリンダーをはめて擦る。乾いた音を立てて回った。
「この拳銃は六連発だ。一発目から六発目まで、いつタマが出るかおれにもわからん。賭けをしようじゃねえか。おれが死んだらおれの勝ち。おれが死ななかったらおまえの勝ちだ!」
銃口をこめかみに当てて撃鉄を起こす。
「あんた、そんな茶番を…」
「一…」
引き金を引く。カチッと音がした。
絵里菜が窓から下りた。だがまだ危険だ。完全にこちらに来させなければならない。
「二…」
撃鉄を起こす。引き金を引く。
あいつがベールを左手でむしり取って床に投げ捨て、右手でスカートの上の糸を一本引き抜いた。ツーッという音がして布が真っ二つに裂けた。見事なスリットだ。
「三…」
あいつが走る!
「四…」
そばにあった椅子を蹴飛ばして、走ってくるあいつの前にすべらせた。あいつはそれをひらりと跳び越える。たいした反射神経だ。
「五…」
今度は前足底でテーブルを蹴り上げた。ガタッという音を立てて前に倒れ、あいつの行く手をふさぐ。
「六…」
とうとう最後だ。今度はタマが出る。床にあぐらをかいて撃鉄を起こす。耳元でシリンダーがゴトッと回った。怖ええ…。ゲロが出そうなほど怖ええ…。
「榛名! 窓ふさげ!」
窓が音もなく周りと同じ壁に同化する。
絵里菜が左斜めに跳んだ。そのまま左脚で壁を蹴った。その反動を利用して絵里菜そのものがこちらにとんでくる。三角飛びだ。いくらなんでもおまえにそんなことが出来たのか? ご都合主義だな…。
引き金に指をかける。悲鳴とも呻き声ともつかないものが口から洩れた。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉっ…」
白、肌色、白、白、黒の順でおれの前を通り過ぎて行く。最初の白は靴。肌色は脚、おまえストッキングは履いてないのか? その後の白はドレスで次の黒は髪だとしても、その前の白はなんだったんだろう? どうでもいいことを考えた。肌色のあたりでおれの右手の銃が蹴り抜かれた。それに引っ張られて上半身が右側に倒れる。四つんばいになった。銃が大理石の床を滑走する。
「暴発する!」
だれかが叫んだ。決定。この拳銃は暴発する!
いきなり胸倉をつかまれてぐっと下げられた。床にうつぶせになる。絵里菜は…、おれの前に出て膝で立ち、銃を睨みながら両手をいっぱいに広げている。おまえの小さな体のどこに、こんな勇気が詰まっているのか…。
……違う。
勇気をふりしぼってるんじゃない。
こいつ拗ねてやがる。
おれの前で死のうとしている。おれを死ぬほど後悔させようとしている。おれが「死ね」って言ったことを、死ぬまで後悔させようとしている!
…ふふん。
「させるかぁっ!」
思い切り絵里菜の背中を突き飛ばした。膝立になっていたあいつはそのまま前に倒れた。絵里菜の背中に全体重をかけて押さえつける。
「全員動くな! おれには当たらねえ!」
もうすぐ終点だ。床を滑っている銃が壁にぶつかる。弾丸は音より速い。もし銃声が聞こえたら、自分はまだ生きている。
銃が壁にガッという音を立ててぶつかった。
次の瞬間…、耳元でタマが空気を切り裂く音が聞こえた。次に耳をつんざくような銃声がはっきり聞こえた。
おれたちの後ろで横倒しになっていたテーブルが軋んだ音を立て、真っ二つに割れた。
「ほ…、本物…」
支配人さんが怯えたような声を出した。それはそうです。じゃなきゃこいつに失礼でしょう。
体を起こした。吐く息が荒くなっている。
「おどかすな、バカ!」
思わず絵里菜の後ろ頭をどついてしまった。
「何であたしを怒るのよ!」
「おまえのせいだろうが!」
「あんたのせいでしょうが! だいたい何で背中押さえるのよ! 息がつまりそうになったじゃないの!」
「頭を押さえると、おまえの髪がくしゃくしゃになるからだ」
立ち上がった。村雨がいつの間にか三浦から離れている。バツが悪いのだろう。ずいぶん離れて立っている。
いきなりおれの体がふっとんだ。何だ? 後ろから殴られた! 起きあがって後ろを…。
「おまえか、榛名!」
「高彦さん、ウチに嘘をついたね! 人に向けないって言ったのに!」
「嘘なんかついてないぞ。他人と書いてひとと読むんだ。これだから中坊は…」
また体がふっとんだ。
「ウチはもう先輩の言うことをそのまま聞いたりしないから! 高彦さんの命の方がずっと大事だからね!」
なんか…めんどくせえな。もう一度立ち上がった。
「高彦…、あたしをほったらかしにしないでくれる?」
いちばんめんどくさい奴がここにいた!
「賭けはあたしの勝ちね!」
「いいや、おれの勝ちだ」
「はぁ? ルールを忘れたの!」
「おまえが生きている」
「…やっぱりあたしの勝ちよ!」
「確かにもともとのルールでは…」
「あんたが生きてるもの!」
あまりルールに縛られすぎるのもよくないと思うぞ。
「何なの、これ…」
メイクさんが三浦に話しかけているらしい。
「いつもの夫婦漫才ですよ」
「いつもこんなことをしてるわけ?」
「いや…、いつもに比べて、いやに部長がアグレッシブな気がするんですが」
勝手なことを言っている。
「…なんてやり方すんのよ! もし五発目まででタマが出たらどうする気だったの!」
「あれは最初から、最後にタマが出るようになってたんだ」
おまえがそうさせたんだが。
「暴発したタマに当たったらどうするの!」
「おまえを守るためには仕方がない」
「はあ? あたしを守る? あんたあたしより強いの!」
「弱い男が強い女を守って何が悪い!」
「だから、何なのこれ?」
「だから夫婦漫才です」
「ちっとも笑えないし、むしろイライラしてきたんだけど」
「絵理奈、戦艦と駆逐艦とどちらが強いと思う」
「いきなり女の子にわからないような話を始めるんじゃないわよ!」
「大和は全長263メートル、排水量72000トン、世界最大の46センチ主砲を九門そなえている。同型艦の武蔵はレイテ沖海戦で魚雷20発をくらってようやく沈んだ。アメリカ側の記録には30発というものさえある。まさに化け物だ。ああ、大和っていうのは戦艦だ」
「それくらい知ってるわよ!」
「それに対して駆逐艦は、対米決戦用に作られた『特型』でさえ全長118.5メートル、排水量1680トン、12.7ミリ砲六門でしかない。どちらが強いかは明らかだ。ならば戦艦があれば駆逐艦はいらないか? 駆逐艦に戦艦を守れないのか? そんなことはない。戦艦が行動する時は必ず数隻の駆逐艦が帯同する。戦艦の天敵は潜水艦だ。それをいち早く探知し、爆雷をぶち込む。駆逐艦の仕事だ。時には敵の放った魚雷の射線に割り込んで自らを沈めてでも戦艦を守る。戦えば絶対に戦艦に勝てない駆逐艦にも、戦艦を守れるんだ。だからおれはおまえを…」
「異議あり!」
三浦が手を挙げた。
「駆逐艦が戦艦より弱いというのはおかしいです! 先輩はあるモノの存在を忘れています! 蒼き殺人者、ロング・ランス…」
「九三式酸素魚雷だな」
「何で先輩が言うんですか! 九三式の駛走距離は約40000メートル! 大和の主砲の射程距離も約40000メートル! 対等の戦いになります!」
「駆逐艦一隻で大和に勝てるか!」
「一個水雷戦隊あれば…」
「水雷戦隊の旗艦は駆逐艦じゃなくて巡洋艦だ! 大体、駆逐艦と戦艦の強さの比較なら、一対一じゃなきゃ意味ねえだろうが!」
「大和一隻分を造る予算で駆逐艦をたくさん造って、それで襲い掛かったら絶対に勝てます!」
「武蔵が魚雷を何発耐えたか知ってるか!」
「あれは航空機に積んだ小型魚雷です! 潜水艦の大型魚雷一発で信濃は沈みました!」
「信濃は空母だろうが!」
「船体は大和型です!」
「あれは水密試験が終わってなかったんだ! だいたい、なんで酸素魚雷を使うことが前提になってるんだ! 完成した大和型なら、アメリカ軍の魚雷になら耐えられるはずだ!」
「先輩こそ、大和型であることを前提にしてるじゃないですか! 世界中の戦艦の主砲は、大和と武蔵のものより小さいんですよ! つまり射程距離が短い。酸素魚雷なら、アウトレインジできます!」
アウトレンジとは「敵の射程外からの攻撃」のことをいう。
「アウトレンジなんぞ机上の空論だ! 魚雷なんか遠くから臆病撃ちしたって当たるわけがねえだろ! 実戦では双方が互いの射程内まで踏み込んでいく必要がある。魚雷は海中を走るのに時間がかかるんだぞ。音速以上のスピードで降ってくる砲弾に対抗できるか!」
「澤霧さまも三浦さまもお若い。実際に大戦で主力として使われたのは何かをお忘れではないでしょうね」
支配人さんが話に割り込んできた。絵里菜が不愉快そうな顔をしている。この人をよく思っていないらしい。
三浦が叫んだ。
「出たな! ゼロ戦マニア!」
「確かにゼロ戦は大戦初期においては世界最強の戦闘機でした。しかし既存の技術をギリギリまで伸ばしたにすぎない。わたくしが言いたいのは戦艦とか駆逐艦とかゼロ戦とかのハードではない。機動部隊とは新しいハードではない。新しい概念なのです」
「砲戦になれば空母は戦艦どころか、巡洋艦にさえやられますよ」
「機動部隊と似た概念にパンツァーというものがあります。戦車を集中使用すれば簡単に敵の堅陣を突破できる。しかし直角に近い角度で落ちてくる重砲の砲弾に襲われれば戦車がいっぺんにやられる。そこでドイツ陸軍はスツーカによってまず重砲陣地を沈黙させることを考えました。急降下爆撃機と機動装甲部隊を組み合わせることによって機甲師団という概念が生まれ、プリッツターク、電撃戦という戦術が可能になった。空母を集中使用すれば戦力が倍増する。しかし砲戦になれば空母がいっぺんにやられる。そこで小沢治三郎中将は空母を高速戦艦で護衛することを考えました。それ以前の戦艦が主力であり、エアカバーとして空母を使うという既存の戦術から見ればまさしく逆転の発想です。そしてゼロ戦の航続距離は1433キロ、九九艦爆は1472キロ、九七艦攻は1021キロ飛べます。片道でも500キロは使える。戦艦の主砲の十倍以上の距離だ。まさにアウトレインジです」
「日本海軍は日清戦争の黄海海戦から真珠湾にいたるまで、新しい戦術を生み出すことによって自らの数倍の敵に勝ってきた。しかしこの方法には致命的な欠陥があります」
「伺いましょう」
「マネされたら終りじゃないですか」
「確かに。しかしその思想は戦後にも受け継がれました。新幹線とはただのハードではない。特別な線路の上に、特別な車両を、特別なダイヤで走らせる。特急を超えた超特急。まさに新しい概念なのです」
「あんたたちねえ…」
村雨がキレている。
「なんでいつまでも女の子が入っていけないような話をするわけ?」
「すみません村雨さま…。しかし戦記物は男のロマンなんです!」
「鈴、おれもそう思うぞ!」
「絵里奈、結局おれが何を言いたかったかと言うと…」
「その前に言うことがあるんじゃないの?」
「……ほったらかしにしてごめんなさい」
ああっ、やっぱりこいつめんどくせえ!
「タネは言えないが、あの銃のタマは、絶対におれには当たらないようになっていた」
おまえがそうさせたんだが。
「ひきょうものお…」
あいつがにらんできた。
「おまえが言うとおりおれは弱い。何の力もない。ただの高校生だ。だからおまえを守るためならばどんな卑怯な方法でも使う。…覚悟しておけ。いつだろうがどこだろうが、おれの目が黒いうちは、おまえは死ぬことができない!」
思い切りにらみ返してやった。5センチくらいの距離でメンチを切り合う。…ドキドキしてきた。
「なんだか僕までイライラしてきました」
「この二人は今度は何を始めたの?」
「にらめっこのようですね」
絵里奈が顔を引っ込めた。
「あ、部長が負けた」
「走ったからまたメイクが落ちたじゃないの。あんたのせいよ!」
「全部落としてもらえ。どうせおまえは化粧なんかしてもしなくても変わらん」
「え…」
「不安そうな顔をするな! わざとだな。おれを困らせるためにわざとやってるんだな! おまえは素顔でも十分きれいだっていう意味に決まってるじゃねえか。櫻川市一の美少女のくせに!」
透けるように白い肌が真っ赤に充血した。トマトかリンゴのようだ。案外簡単な奴なのかもしれん。
「メイクさん…」
「はいっ」
絵里奈はメイクさんを呼ぶと、もうひとつあったテーブルについた。
「メイクもう一回直して!」
「それが仕事だからやるけどね。あんた、あの子にもうそれはいらないって言われたんじゃないの?」
「あいつに簡単な女だと思われるのはシャクなの!」
…やっぱりめんどくせえ。