memorys,86
「亜矢っ!!」
ホテルのロビーへ到着するなり、お父さんと陽太さんがほぼ同時に声を発し、こちらへと駆け寄ってきた。たくさん心配をかけてしまったのだから怒鳴られることも覚悟していたのだが、いざ険しい表情をしたふたりが勢いよくこちらへ向かってくる姿を見て、思わずギュッと両目を瞑ってしまう。しかし、予想をしていた怒鳴り声が辺りに響くことはなく、代わりに強く抱き締められた感覚が全身に伝わってきた。
「心配したじゃないか!! 何かあったのかと思って父さんの寿命が10年は縮んでしまったじゃないか!」
息苦しいぐらいの抱き締めに、わたしは驚きながら目を瞬かせていると、お父さんの後ろに立っていた陽太さんが安堵したように微笑む。
「無事で良かった」
その一言に、自分がどれだけみんなに大事にされているのか、どれだけ心配させたのか分かった。
「ごめんなさい」
泣きそうになる自分を必死で押さえ込んで、わたしは心からその言葉を呟いた。お父さんの大きな手が乱暴に髪を掻き回す。
「もう心配かけるんじゃないぞ!!」
「はい」
もう二度とこんな風に家族に心配はかけないと誓いながら、わたしはお父さんの目を真っ直ぐ見つめ頷いた。
「全く、あれほど迷子になるなって兄さんに言われたのに、ちょっと目を話した好きにいなくなるんだもん。亜矢はホント子供と一緒だよね」
「まあまあ、見つかったんだからいいじゃない! ひとりで大変だったんだから少し休ませてあげなくちゃ駄目よ!」
暉くんが皮肉たっぷりに言ってきた刹那、空気を変えるように涼華さんが明るいトーンで言いながら、わたしの両肩に手を置く。
「奥様、お部屋にはわたくしが付き添います」
わたしの後ろにいた神木さんが焦るように涼華さんに駆け寄った。しかし、なぜか神木さんの行為を阻むように涼華さんが口を開く。
「いいからいいから! これぐらい任せてちょうだい! わたしが付き添うから……さ、行きましょう」
何か伝えたいのか“ねっ”と念押しするように言う涼華さんに、わたしは素直に頷いた。それを確認すると、肩に置いていた手を背中にずらし、今度は急かすように押し始める。
「お、お母さん」
わたしが少しだけ困惑したように声を漏らすも、それを聞かずにぐんぐんとみんなの横を進んでいく。そして、同じように困惑の表情をする白藤さんの姿が目に入った。
話さなくちゃ!っと瞬時に脳が命令を下す。
「あの、しっ……」
しかし、声を発した瞬間、呆気なく涼華さんによって遮られてしまう。
「白藤くん、お願いがあるの」
「はい、奥様」
「30分後に亜矢の部屋へ紅茶を持ってきてくれる? もちろんふたり分ね」
「かしこまりました」
どういう訳か、神木さんにではなく白藤さんに指示を出した涼華さんに、わたしは不自然さを感じた。それは、頼まれた白藤さんも同じで、少々ぎこちなく返す。白藤さんの返答を聞くと、涼華さんは先程よりも強く背中を押す。
「さっ、亜矢ちゃん行くわよ」
「えっ……あ、はいっ」
こんなに強引な涼華さんは珍しく、有無を言わせないとばかりの行動に抵抗などできる筈もなく、わたしは前へと進むしかなかった。
部屋へ到着するなり、涼華さんは汗を吹くようなしぐさで額に手の甲を当てる。
「ふう、なんとか怪しまれずに成功したわ」
満足げな様子の相手に、わたしはまだ状況が把握できずにいた。
「あら、ごめんね~。わたしばっかり突っ走っちゃって訳が分からなかったわよね」
「あの、お母さん」
いきなりわたしを部屋へ誘導したのには理由があるのは涼華さんを見れば明白だった。しかし、その理由はまでは把握できないでいたわたしは首を傾げる。
「どうして、部屋に」
「もしかしたら、亜矢ちゃんわたしにずっと話したかったんじゃない? 神木くんや白藤くんと何があったのか……それを考え込んだから迷子になんてなっちゃったんじゃないかなって」
さすが涼華さんだ。女性だから勘が働いた可能性もあるが、きっとそれだけではない。わたしのことをちゃんと見ていてくれたからこその気付きだ。
「なかなか気持ちの整理がつかなくて、相談できなくて……」
「でも迷いはなくなったのね」
「えっ?」
「神木くんに迎えに来るように頼んで、呼び出したのは……亜矢ちゃんの気持ちに整理が付いたからなんじゃない?」
白藤さんとのことを話していないのに、涼華さんにはわたしの迷いはお見通しだった。わたしは静かに頷き、無意識に涼華さんの手を握る。
「白藤さんはわたしの初恋の人で、会えたことも神木さんがいない間支えてくれたことも本当に嬉しかった。彼の優しさを受け入れれば、恋になると思ってました。でも、神木さんと再会して分かったんです……簡単には心は変えられないんだって」
「その通りね。一度心から愛してしまった人を簡単には捨て去れないわ。気持ちは単純なようで厄介なの」
そっと涼華さんがわたしを抱き締め、子供でもあやすような手つきで頭を撫でる。さっきお父さんにされたのがわたしにとっての日常だったから、少しだけ照れ臭くてそわそわしてしまう。だけど、それでも涼華さんの手の温もりに懐かしさを感じた。
そうか。昔、母がわたしにしてくれたのと涼華さんの暖かさがどこか似ている。
忘れていたけれど、小さい頃はよく母にこんな風に頭を撫でられた。
「亜矢ちゃんが頼りたい時にいてあげられなくてごめんなさい。側にいれば、ちゃんと相談にのれたのに」
「そんなっ」
涼華さんは悪くないと言いたかったのだけれど、またもやそれは遮断されてしまう。
「でも、亜矢ちゃんはちゃんと自分で答えを出せたんだもの! わたしに出来ることは、もうこれぐらいしか残ってないわ」
「へ?」
顔を上げると、満面の笑みを浮かべる涼華さんが映る。
どうしてだろうか。頼もしい相手の笑顔を見て、嫌な予感が頭を過った。
「お母……さん?」
その予感するものがなんなのかが分かり始めたわたしの耳に、ドアをノックする音が届く。
これは感謝すべき展開だろうか?
わたしは心の準備もままならぬまま、音も立てずに開いていく扉を無言で見つめるしか出来なかった。