memorys,84
ベンチに座る彼女に向けて、また頭を下げた。
「ありがとうございます。おかげで吹っ切れたような気がします」
正直、ふたりに会うのはまだ怖い。でもこのまま逃げ続けるなんて出来ないし、したくもない。自分の気持ちを伝えたらひとりになるかもしれないなんて勝手に臆病になって、相手の気持ちまで全然考えていなかった。
「わたしは何もしてないよ。それに君にはでたらめの言い伝えは必要なかったかね」
「はい……って、え? でたらめ? 嘘ついてたってことですか?」
「なんだか弱ってたからね。こういう時は嘘の言い伝えさえも希望に思えるでしょ? でたらめも信じる心がある人には、もしかしたら真実になるかもしれない」
「元気付けるためにでたらめを?」
「気を悪くしたならごめんね」
わたしは小さく彼女に首を振る。心底、不思議な人だ。偶然出会った見ず知らずのわたしを気にかけ、励ますために変な嘘まで言う彼女に何故か親しみが湧く。
「さあ、どうする? ホテルまで送る?」
「いえ、送らなくても大丈夫です。ただ、ひとつお願いがあります」
わたしは、彼女にあるお願いをした。
彼女は快く理解し、受け入れてくれた。
「なら、わたしは行くね」
「本当にありがとうございました」
「お礼はいいよ」
「あ、あのっ……良かったら名前を聞いてもいいですか?」
わたしの問いに、彼女は何故か悪戯な笑みを浮かべる。
「名前はまた会ったら時に……」
そんなに簡単に再会できる筈がないと思った。きっと、それも顔に出ていたのか、また彼女はおかしそうに笑う。
「フランスってだけで噴水ひとつが神秘的に映るから凄い国だよね。きっと、それだけ魅力を感じさせる力があるんだと思う。そんな国でわたし達は出会った……言い伝えは無いけど、君にまた会えるとわたしは信じてる」
彼女はすっと右手を差し出す。
「また会いましょう」
そんな奇跡的な事など絶対に起きないと知りながら、わたしは自然に彼女の手を握った。
「はい」
「それじゃあ、君の幸運を祈ってる」
そう去り際に言い残し、名前の分からない彼女は去っていってしまった。それを見届けたあと、財布に入っているコインをひとつ取り出すと、わたしは思いっきりそれを噴水に向かって投げる。キラキラと太陽の日に照らされ輝きながら、コインは噴水の中央に音を立て沈んでいった。
でたらめでも、信じれば真実に変わる。
その言葉を思い浮かべながらわたしは願った。
どうか、みんなが笑顔でいられる奇跡の日々がずっと長く続きますように、と手を組み祈る。
たとえ、傷付いて泣く日があっても、相手を苦しめて情けなる日があっても、最後は笑顔に戻れると信じたい。この願いだけは真実に変わることだけを信じ、わたしはしばらくの間その場で噴水に祈りを捧げ続けた。
彼女と別れてからどれぐらいの時間が過ぎただろうか。
何度目になるか分からないが、わたしはまた噴水へと目を向けた時だった。
「お嬢様!!」
ついに待ち望んでいた声が背後から掛かる。
かなり急いできてくれたのだろう。彼には珍しく、額に汗を滲ませ、吐く息は絶え絶えだった。
「心配しました」
呼吸を整えてから彼は言う。その声は明らかに怒っているようにも聞こえた。
「ごめんなさい……神木さん」
執事服のまま走ってきた彼の名を恐る恐る呼ぶ。
わたしが彼女に最後お願いしたことは、神木さんと連絡を取るために携帯を借りることだった。連絡した時は焦った声で、居場所を伝えると直ぐに切れてしまい、緊張は一瞬の出来事。けど今は、自分でも驚くほどの緊張感で手が震えていた。
「みんなとはぐれてしまって、親切な人に携帯を借りて……迷惑をかけてしまってすいませんでした」
彼を目が合うのが少しだけ怖くて、頭を下げたまましばらく顔が上げられないでいると、こちらへ近付く足音が聞こえる。
「本当に心配したんです」
「ごめんなさい」
「奥様からあなたが居なくなってしまったと連絡が来たとき、事故に遭ったんじゃないか、なにか事件に巻き込まれたんじゃないかとか嫌なことばかりが浮かんできました。もう二度とあなたと会えないのかとも思ってしまいました」
どれだけ心配をかけたか分かっていたけれど、神木さんの言葉を聞いて改めて反省した。もう一度謝罪の言葉をと口を開きかけたとき、彼の手がわたしの指先にそっと触れる。
「良かった。無事で本当に良かった」
その発言にわたしは躊躇いながらも頭を上げると、そこには優しく微笑む神木さんの顔があった。もっと叱られてもおかしくないのに、そこにはいつもと変わらない彼の笑顔がある。そんな彼の表情を見た瞬間、涙が出そうになった。
そして、実感する。
「神木さん」
どれだけ自分勝手だと言われても構わない。
それでも、一番に安心できるのは彼の隣だと気がついた。
「わたしは神木さんが好きです」
この言葉を言って、もし彼が離れていったとしても後悔はしない。
自分を隠さず、心のままに本当の気持ちを伝えることが出来たのだから、例え拒絶されたとしても受け入れる覚悟はできていた。
「もう自分に嘘はつきたくありません。わたしはやっぱり、神木さんの側にいたいんです」
指先に触れていた彼の手を握る。その手は少しだけ震えていた。




