memorys,57
あれからまた数日が過ぎた朝。
「え? 土日みんな居ないの?」
焼きたてのクロワッサンを口にしかけたわたしは、隣に座る陽太と向かい側にいる暉を交互に見ながら言った。飲み掛けの珈琲を全て飲み干すと、陽太はすまなそうに告げる。
「明日、朝比奈財閥主催のパーティがあるんだが……クルーズ船で一泊だからどうしても帰れそうにないんだ。亜矢をひとりにはしたくなかったんだけど」
「いいよ、気にしないで! 仕事なんだし……暉くんも泊まりなの?」
「そう、有名なバイオリニストがコンサートを開くから観に行くんだよ。場所が遠いから日帰りは難しいかな」
「そっか……楽しんできてねっ」
広い屋敷の中に取り残されるのは正直心細くも思うが、決して一人ぼっちになるわけではない。メイドさんや白藤さんも居るわけだし、そもそも留守番が出来ない子供でもないのだ。
しかし、陽太はひどく心配した様子でわたしを見つめている。
「お兄ちゃん、大丈夫だからっ……留守番ぐらい出来るよ?」
そう言っても、相手の表情に変化はない。陽太の反応に困り果てていると、暉の呆れた声が届いた。
「兄さんの心配性は病気みたいなものだけど、留守番でそこまで過保護にならなくても大丈夫なんじゃない? 白藤さんだって居るんだしさ」
「いや、そこが……っ」
何か言い掛けた途端に言い淀む。
「お兄ちゃん?」
「なんでもない……とりあえず、何かあれば直ぐに俺に連絡して。それだけ、約束できるか?」
あまりにも真面目な顔をして言うものだから、慌てて首を縦に振った。
「うん、分かった。約束する!」
なんだか神木さんと喧嘩したと言っていた日から、どうも様子がおかしい。
はじめは、わたしが元気がなかったせいで心配しているのかとも考えていたのだけど、それだけが理由ではなさそうだ。
(もしかして神木さんとわたしの事、気付いてる?)
涼華さんにもあっさりバレていた事を考えると有り得る。
(わたしってそんなに顔に出やすいのかな?)
しかし、これはわたしの推測で、本当に陽太さんが気付いているかどうかは分からない。自分から神木さんの事をカミングアウトして、もしもそれが原因で大騒ぎになってしまったら大変だ。
陽太さんが気付いているか確証もないのに、余計な迷惑を掛けるような事は言いたくない。
「そう言えば、最近は食欲も戻ったみたいだね」
暉の声にはっとし、笑顔で頷いた。
「うん。心配掛けてごめんね」
「兄さんほど心配もしてないけどね。じゃあ、僕は先に学校行くから」
「あっ、わたしも行かなきゃ!」
慌てて食べ掛けのクロワッサンを口に入れると、立ち上がり陽太に目線を向ける。
「行ってきます、お兄ちゃん」
「ああ、気を付けてな」
手を振ると、まだ若干不安そうな顔をしながら、陽太も手を振り返した。
暉を追いかけるように部屋を出ていった亜矢を見届けたところで、長い溜め息を漏らす。
「心配なのは留守番じゃなくて、白藤くんなんだが……ふたりきりにして大丈夫だろうか」
頭を抱え込み、誰も居なくなった部屋でひとり項垂れた。
神木が居なくなり、亜矢が落ち込んでいることを知りながら何もしてあげられない自分が情けない。しかし、それ以上に心配なのは白藤の行動だった。
明らかに白藤は亜矢に好意をもって接している。落ち込んでいた亜矢に、夜ハーブティを持っていくところも目撃していた。それから、亜矢が徐々に自分を取り戻し始めている。
本心は、神木と亜矢が元通りになることを望んでいるのだが、自分が勝手に間に入ってしまうのは余計なお世話というやつだろう。擦れ違ってしまったふたりの関係を修復してあげたいと願いながら、最近は白藤に任せてみるのも策なのではと思い始めている自分がいた。
「誠……本当にこのままで良いのか?」
届くことのない呟きを陽太は神木に向ける。
その声は儚く空気の中に溶け込んでいった。
◇◇◇ ◇◇◇
次の日の朝、陽太と暉は予定通り出掛けていき、屋敷の中で自分ひとりきり。学校は休みだけど、これと言った予定もなく、わたしは暫し考え込む。
「……何しようかな? 奏に連絡して遊ぼうかな?」
友達と居れば、変に考え込むこともない。それより何より、白藤さんとあまりふたりきりにもなりたくなかった。
特に“嫌”という訳ではない。寧ろ、彼には感謝していた。
夜になって神木さんの事で落ち込みそうになるとタイミングよく現れ、あのお気に入りのハーブティを持ってきてくれる。それも毎晩だ。彼の気遣いに救われたのは確かな事実。あれだけ笑うのが辛くて苦しかったが、最近は徐々にそれも落ち着き始めていた。食欲も戻ったし、眠れない夜を過ごすこともない。心の傷は時が解決してくれると考える人がいるけれど、わたしはそうじゃないと思った。
誰かの手助けや支えがあってこそ人はまた立ち上がれる。
だから、白藤さんの優しさには“ありがとう”という気持ちでいっぱいだ。
(……でも、まだふたりきりになるのは)
まさかキスされ、告白された相手と普段どおりに接しられるほどわたしは大人じゃない。
(奏に連絡してみよう……あ、その前に)
出掛けるときは必ず白藤さんに承諾を得てからと、陽太からキツく言われたことを思い出す。
「白藤さんに報告はしなきゃ」
自室から出て白藤さんの姿を探すも、こういう時は必ず見付けられない。また誰かに聞こうかと考えながら中庭へと出てきた瞬間、嗅ぎ慣れない匂いに気が付いた。
(……これって、煙草?)
煙草なんて吸う人、屋敷の誰かに居ただろうかと、匂いが濃くなる方へと歩み寄る。歩いていくと、木の影から白い煙が立ち上るのが見えた。