memorys,55
とある屋敷にやって来た執事は、その令嬢と出会ってしまう。ふたりは互いに惹かれ合い、恋に落ちるまでそう時間は掛からなかった。周りに気付かれぬように愛を育み、時が来たらみんなに打ち明け、認めてもらう筈だった。
しかし、令嬢が彼の子を身籠った事で事態は激変する。
自分の娘が執事の子を宿した事に激怒した父親は、即座にふたりを引き離した。執事は彼女に何も言わずに屋敷から去っていき、行方を晦ましてしまう。令嬢は孤独の中で子供を産み、抱くこともないまま引き離された。
その赤ん坊は屋敷にとって“汚点”でしかない。直ぐ様、その子は施設に預けられる手筈になっていた。けど、その子をどうしても引き取りたいと手を上げた人物が現れる。
去ったしまった青年の指導を任されていた執事だった。
「その子に罪はありません。施設で孤独な運命を辿るのであれば、あまりにも残酷なこと……ですから、その子をわたしに引き取らせて頂けないだろうか?」
初めは皆反対したが、あまりにも懇願され、主人は男の申し出を許してしまう。そして、赤ん坊を連れて男もまた屋敷を去っていったのだった。
「……それが俺の親父だ。その話を聞いた一ヶ月後に親父は亡くなった」
体が離され、白藤さんが真っ直ぐわたしを見つめる。
「俺はそのまま執事になる道を進んだ。いろんな屋敷を転々としたけど、自分の生い立ちを知ったせいか……どの家の奴らもどこか歪んだように映って、そんな世界に嫌気がさして、いっそのこと執事なんて辞めてやろうって思ってた」
すると、彼は小さく苦笑いを浮かべた。
「そんな時だ……お前と会ったのは。お前と神木を見た瞬間、正直腹が立った。馬鹿な俺の両親を見てるみたいで……だから、お前にはキツイことを言ったよな。あの時は悪かった」
「そんなっ……気にしてない」
今になれば、あの時言った白藤さんの言葉の本当の意味が分かる。
ああするしか出来なかった気持ちも痛いぐらいに理解できる。
「けど、何を言われても俺に向き合おうとするお前が何だか懐かしく感じで、いつの間にか気にかけるようになってた。まさかお前があの女の子だったなんて驚いたけどな……再会できるとは思ってもなかったし、人なんて年月が経てば中身も変わる」
白藤さんの表情が急に柔らかな笑みに変わった。
「けど、再会できたこと嬉しかったよ。昔と変わらない馬鹿正直で素直なままのお前に会えて……お前にもう一度会いたかったから」
直球に気持ちを伝えてくる相手を見つめ続けるのは照れ臭く、わたしはそっと目線を下に落とす。
「俺はお前と再会することをずっと望んでたのかもな」
「それ、ハワイの時にも言ってたよね……でもわたし、白藤さんに望まれるほどの事なにもしてないよ? それに白藤さんが前に言ってた通り、わたし馬鹿だった……結局“覚悟”の意味もちゃんと理解できてなかった。わたしなんて全然ダメでっ」
「ダメじゃないだろ」
低めに放たれた声に思わず顔を上げると、いつの間にか眼鏡を外した白藤さんの顔が間近まで迫っていた。外された眼鏡が床に落とされ、静まり返った部屋に響く。顎に添えられた指に、痛いくらいの眼差しに言葉が出なかった。
「お前は何も悪くない」
その言葉とともに、唇にそっと触れる感触。一瞬の出来事に、顔を離し笑顔する相手を黙ったまま凝視した。
「俺、変だよな」
「え?」
「令嬢と執事の恋なんてバカらしいって思ってた。憎んでいた筈なのに今はこう思えるんだ……お前のためなら何を犠牲にしてもいいって」
両頬を包み込む手に気付く。それを反射的に拒もうと俯くも、簡単に顔を前へと向けさせられてしまった。
「俺がずっと側にいてやるっ……だから、俺を選べっ」
強い意志の籠った言葉に心が付いていけず、うまく言葉が発せられない。そんなわたしの反応に、白藤さんがふっと息を吐くように笑い出す。
「悪かった……急に言われても困るのは当たり前だよな。子供相手に焦りすぎだった」
まるであやすように頭を撫で始める相手に、ようやく我に返った。
「こ、子供って!」
「だって、そうだろ? 五つも違うんだ……十分子供だよ。中身は小学生のまんまだしなぁー」
「白藤さん、酷いよっ!」
言い返すわたしを見て満足した顔をすると、床に落ちた眼鏡を拾い上げる。
「全く、そんな子供相手に真剣になる俺も十分バカだけど……」
眼鏡をかけ直し、いつもの意地悪な笑みを零す。
「まぁ、時間はたっぷりある……亜矢、覚悟しろ」
「えっ?」
「時間をかけて、俺を好きにさせてやるから」
自信ありげな態度で言う白藤さんに、今度は絶句させられてしまった。
「学校はどうする……ってこんな時間か。俺から早退したって連絡しておくから、お前は一先ず休め」
「……うん」
「後で冷やすもの持っていく」
そう言って赤くなった目尻をなぞる白藤さんの手から逃れるように、素早く顔を背ける。
「自分で用意できるから……部屋に戻るね」
「分かった」
優しさに満ちた相手の笑顔から逃れるように部屋を飛び出し、自室に向かって走った。自分の部屋に入ると、ドアの前で崩れるように座り込む。
一度にいろんな事が起きすぎて、うまく思考が働かない。ただ、白藤さんのおかげで泣くだけ泣いたから、涙はもう出てこなかった。
「あ、どうしよう……白藤さんにお礼言ってない」
次に会ったら、ちゃんと笑顔で言わなきゃ。みんなが帰ってくる前に早く笑顔に戻らないと、また心配させてしまう。
そう思えば思うほど、脳裏に浮かぶ神木さんの姿に胸が締め付けられた。
「おかしいな……あんなに泣いたのに、笑えない」
笑おうとすると、心が重く沈み、苦しさに目を瞑りたくなる。
あんなに出来ていたはずなのに、今のわたしに“笑顔”は難しすぎた。
ここで第3章終わりになります!
第4章もよろしくお願いいたします。