memorys,52
いくら陽太さんと喧嘩したからって、わたしと目も合わせないなんて神木さんらしくない。きっと、何かあったんだ。それを確かめないといけない。
「神木さん、待ってよ!」
階段を下りたところでようやく神木さんの手に届き、掴み引き止める。足を止めるも、振り向こうとしない相手の反応に声を掛けることを躊躇いそうになった。それでも意を決し、わたしは静かに彼の背中に言葉を投げ掛ける。
「何かあったの? もしかして、記者とのことでお兄ちゃんに何か言われた?」
手を離し、振り向いてほしいと伝えるように肩付近に手を当てた。
「いえ、何もございません。少し急いでいたものですから……申し訳ありませんでした」
「神木さん?」
やっと振り返った神木さんの表情は笑顔だった。けど、それは神木さんのものではなく、偽りの笑顔。
「今日はお迎えに行けず、お嬢様に大変な思いをさせてしまい申し訳ありません」
「ねぇ、待ってよ」
「今後このような事のないよう、白藤さんが必ずお迎えに行くように致しますので……お嬢様は安心なさって下さい」
「神木さんっ」
ただ淡々と業務を説明するような口調の神木さんを必死に止めるも、その声はまるで本人には届いていないように感じた。肩に置かれたわたしの手をそっと握ると、静かに自分から離す。
「申し訳ありませんが、今急いでいまして……もうよろしいでしょうか?」
また背中を向ける神木さんに、わたしは震えそうになる声で告げた。
「神木さんは自分を隠す時、執事になる。そして、何か嘘をついてる……そうだよね? わたしが原因?」
そのまま沈黙する神木さんの前に立ち、じっと彼の瞳を見つめる。僅かに動揺に揺らぐ瞳がわたしを見た瞬間、ぎゅっと閉ざされた。
「お嬢様……お願いがございます」
苦痛の表情に変わっていく相手に、わたしは次の言葉を嫌でも予想してしまう。
その先をどうか言わないでほしい。
そんな願いは、簡単に打ち砕かれてしまった。
「わたくしと……別れて頂けませんか?」
一瞬にして目の前が真っ暗になったように感じる。
「わたくし達には大きな壁があります。それは、お嬢様が悪いわけでは決してありません……自分が執事であるが故に生じたもの。やはり立場が違いすぎる事が今回の騒動を生みました。これから先、今以上の事が起こってしまった場合、わたくしもお嬢様も多くの犠牲をはらうことになるでしょう」
「神木さん、聞いて! わたしはっ」
「いつかきっと、お互いを傷つけ合う。そんな恋は必ず駄目になってしまう」
神木さんがやっと本来の顔を覗かせた。でも、それは痛々しいと思ってしまうぐらいの切ない表情。何か言いたいのに、その顔を見た瞬間、喉まで出掛けた言葉を飲み込んでしまった。
「あなたと過ごしたことで、わたくしは自分が執事であることを忘れていたのかもしれません。けど、立場は決して変わらない……どこまで行っても、あなたはご令嬢でわたくしはあなたに仕えるただの執事なんです」
それでも“永遠”を願ってしまうのは、悪いことなのだろうか?
その想いすら、口にできない。
「お嬢様、戻りましょう。執事とお嬢様に……」
だって、神木さんの瞳を見たら分かってしまった。わたしを守るために嘘を付き、無理矢理笑顔をつくっている。傷付いた彼にわたしが我が儘を言って引き止めた所でどうなるだろうか。
「わたくし達には失うものが多すぎるのです」
一緒に居続けることは、大切なものを守ることより難しい。
それを理解したような気になっていただけなんだと思い知る。
自分自身が描いた物語は所詮、空想に過ぎない。
わたしがひとり“覚悟”した気になって、神木さんの気持ちや先の事を考えていなかった。
ふたりが幸せにならなきゃ、永遠なんてないのに……
相手の“幸せ”を見ようとしていなかったわたしは馬鹿だ。
「神木さんの言う通りだね……わたしのせいで困らせてごめんね」
さあ、笑うんだ。
彼に笑顔を取り戻させるために、泣くな。
笑顔で乗り切るんだ。
そしたら、いつか“幸せ”となって返るから。
「ありがとう。わたしのこと好きになってくれて嬉しかった……少しの間だけでも神木さんの側に居られて、それだけで十分過ぎるぐらい幸せだったから……だから大丈夫だよ。わたしは平気だから」
精一杯の笑みを神木さんに向けた。
大丈夫だよ。
神木さんが笑顔ならわたしは幸せだから。
「明日からもお嬢様としてよろしくお願いします」
未だに暗い顔をする神木さんになんとか普段どおりに振る舞う。
「そうだ、神木さん急いでたんだよね! ごめんなさい、引き止めちゃって」
「いえ」
「じゃあ、また後で」
小さく手を振り、今度はわたしが背を向けた。
(大丈夫)
涙は出てない。傷付いてなんかいない。
後ろを振り返ることなく、わたしは真っ直ぐ前を見据えた。
また前のわたし達に戻るだけだ。
(一緒に居られる事には変わりないんだから)
何度も何度も、心の中で繰り返す。“悲しみ”、“苦しみ”を自らの力に変えるように、わたしは幾度となく自分に同じ言葉を言い聞かせた。
“泣くな”と……