memorys,105
絨毯の床をものすごい勢いで歩いてくる足音が聞こえたかと思えば、血相をかいたお父さんがドアを乱暴に開け放った。
「亜矢っ!」
わたしが驚き立ち上がったと同時に、これでもかというぐらいの力で抱き締められる。こんなに取り乱した父を見たのは初めてだ。
「ごめんなさい……心配かけて」
「何を言っているんだ。お前は何も悪くない」
そっと暖かな手のひらがわたしの後頭部を何度か優しく撫でると、息苦しいほどの抱擁から解放される。そこには穏やかな父の顔があると想像していたのに、意外にも怒りを含んだような険しい顔だった。それはわたしに向けられたものではなく、父の両親であろうふたりに。
「一体なんの目的で娘を連れだしたんですか?」
普段の声よりも低く、親に向けるには他人行儀な口調で告げる。そんなお父さんに、光徳はやや複雑そうな顔を浮かべた。
「そんなに怒らないでちょうだい。お父様も悪気があって連れてきたわけじゃないのよ」
「百合花、いいんだ。怒って当然だ……大切な娘を無断で連れてきて済まなかったな」
面目ないと、光徳は座ったままの状態で深々と頭を下げた。
「いえ、話を聞けば誘拐された亜矢を救ってくれたそうですから……それはお礼を言います。娘を助けていただいてありがとうございました」
軽く頭を下げるも、どこかぎこちない接し方のお父さんに我慢しきれず口を開く。
「お父さん、あまり怒らないで。わたしが油断したせいで誘拐なんてされて、悪いのはおじいちゃん達じゃなくてわたしなの。ここへ来るのもわたしが承諾しちゃったから……ごめんなさい」
「どこまで話を聞いたんだ?」
その問いは、きっとふたりが祖父母だと知ったかどうかの確認なのだろう。
「お父さんの親だっていうのは聞いたよ。あとは料理をご馳走になってただけ」
それを聞いたお父さんは怒りを鎮めるように深く息を吐き、わたしに初めて笑顔を向けた。
「大変だったな。さあ、帰ろう……車の中で神木くんも待機している。家では全員お前の心配をしながら待ってる」
「はい」
急に、ここへ来ることを決めてしまったことを後悔し始める。自分が知りたかった何かが分かるかもしれないという興味本位でここまで来てしまったが、もしかしたら開けてはいけないパンドラの箱だったのではないかと思えてきた。それを知ったことで父が苦しむかもしれないと、どうして気付いてあげられなかったのだろう。あの日、自分の両親を“いない”と返した父は一体どんな気持ちだったのか、今のわたしには解らない。だからこそ、この状況を作り出してしまったことに凄く心が痛んだ。
「お世話になりました」
わたしはそう一言だけ告げると、寂しそうにこちらを見つめるふたりから目線を反らした。
「もう許可なくこの子には会わないでください。よろしくお願いします」
お父さんはどこか冷たく突き放すような口調で言うと、わたしの背中を押して、この場を離れることを急かす。心残りが僅かに生じ、離れていく部屋を何度も見返した。
車へ行くと、運転席に神木さんが心配そうにわたしを見つめているのに気が付く。わたしと目が合うと安堵からか小さく微笑んだ。その笑顔を見て、少しだけ暗くなった心に光が差したように感じる。
「お父さん、今日は本当にごめんなさい。まさかこんなことになるなんて思わなくて……」
車の助手席に座り、ドアを閉めようとした父に再度謝罪した。
「気にするな……今回のことは亜矢は悪くない」
そう言って、静かにドアを閉める。
「おかえりなさい、お嬢様」
「神木さん……神木さんにも心配かけてしまってごめんなさい」
「謝らないでください。あなたが無事で本当に良かった」
そう優しく言葉を掛けてくれた神木さん。後部座席に乗り込んだ父を確認して、発進する車の中でわたしは離れていく洋館を黙ったまま見つめた。
罪悪感でいっぱいだけど、一度開けてしまったパンドラの箱。
それは大きな変化をわたしに齎そうとしていた。
家へ着いた頃には夜の八時を回っていて、辺りは暗く星が頭上に煌めいている。みんなにも心配をかけてしまったのだから、どんな顔をして会えばいいのかと不安になりながら神木さんに手を取られながら中へと入った。
「亜矢ちゃん!!」
沈黙が続いていた中、その場の空気を一気に消し去るような声が耳に届く。それに驚いている間もなく、気付けば力いっぱい抱き締められていた。暖かな温もりと、少し甘い香水の匂い。涼華さんだと分かった瞬間、わたしも優しく手を回す。
「良かった!! 誘拐されたと聞いた時、怪我とかしたんじゃないかって不安で不安で」
涼華さんにもちゃんと謝罪しなければと口を開くが、言葉が出る前に両頬を手で包まれ、ぐいっと引き寄せられる。
「顔に傷はないわね。どこか痛いところはない? 怖い思いをしたでしょ? 亜矢ちゃんが落ち着くまでわたしが傍に付き添ってあげるから安心してちょうだい」
次々と言葉を投げ掛けてくる涼華さんを見て、自然に言葉が漏れた。それは謝罪の言葉ではなく、感謝の言葉だった。
「ありがとう、お母さん」
そこで目線をずらすと、わたしと涼華さんを見守るように立つ陽太さんや暉くんが目に入る。そして、ただひとりだけ不機嫌面をした白藤さん。変わらない家族の温かみに触れて、わたしはもう一度“ありがとう”と聞こえるようにハッキリ声に出した。そして、続けて言う。
「みんな、ただいまっ」
何があってもわたしの帰る場所はここなのだと、強く思い、そう願った。




