memorys,104
物心付いたころからお父さんはドレス職人一筋で、毎日お母さんと仲睦まじく作業場に立っていたのを思い出す。しかし、そこにはもう一人“師匠”と呼ばれる人物がいた。その人はお父さんにとってドレス造りの師匠であり、大事な家族“お義父さん”だった。仕事場では気難しい人だったが、わたしに対してはよく笑う優しいおじいちゃんだったのを今も覚えている。けれど、わたしが小学校へ上がる頃、長年心臓を患っていた影響からか発作を起こして倒れ、そのままおじいちゃんはこの世を去ってしまう。
幼いながらに、家族との突然の別れは本当に悲しかった。
そして、数年後お母さんまでもが病気で亡くなってしまい、わたしは一気に孤独を強く感じるようになる。お父さんはいるけれど、日ごとに増していく心細さからわたしは一度だけ尋ねたことがあった。
「ねぇ、わたしには他におじいちゃんとかおばちゃんはいないの?」
それは、お父さんの親のこと。友達の話にはお母さんの親がとか、お父さんの親がとか、長期の休みが明けるとよく耳にする話題だ。しかし、わたしはお母さんの親であるおじいちゃんしか知らない。お父さんの親に会いに行ったこともなければ、会いに来てくれたこともなかった。そして不思議だったのが、お父さんはこれまで自分の親の話を一度もしたことがない。だから、もしお父さんの親がいるのなら、会ってみたいと純粋に思ったのだ。
しかし、返された言葉は期待していたものではなかった。
「お父さんの親はもういないんだ」
“いない”という単語は、二度も身近な人を亡くしたわたしには“死んだ”という単語に置き換えられてしまう。淡い期待は打ち砕かれ、そのままお父さんに追求することはしなかった。どうせ会えない人の事を聞いても仕方がないとも考えたし、もしかしたらお父さんが辛い思いをするかもしれない。その日を境に、お父さんの親の事は一切話題に出すことはなかった。
しかし、どういう訳か、今目の前にお父さんの親だと名乗る人物がいる。
“いない”を“死んだ”と思い込んでいたのだから、この状況を受け止めるのに時間がかかった。
でも、理解するよりも先にわたしの頭の中に奏たちと交わした会話が浮かんできた。
「待ってください。あのGlossの先代の会長の名前は確か光沢 匠では?」
聞いていた先代の会長と名字が違うのが引っ掛かる。素直にその疑問をぶつけると、光徳は嫌な顔をするわけでも、特別驚くわけでもなく、なるほどと笑顔で頷いた。
「光沢 匠は正真正銘、わたしの父で先代の会長だ。しかし、名字は結婚前の旧姓でね……婿入りして九条姓になったんだよ」
「お父様は結婚前からかなりの実業家でしたからね。結婚後も何かと光沢の姓が世間から抜けなかったのよ」
おっとりした口調でおばあちゃんが付け加えるように言う。
だとしたら、やはりこのふたりはお父さんの親であり、わたしの祖父母。理解はできるが、どうも実感が湧かない。お父さんが再婚するまでは、わたしに家族と呼べる人はひとりしかいなかった。だから、急に現れた祖父母を手放しで喜ぶことは難しい。
「今はビックリして、簡単にはわたし達を家族だと思うのは無理だろうから……今日はただ食事を楽しむだけでいいの。あなたとこうして会えただけでも十分に嬉しい奇跡だから」
「そうだ。深く悩まなくていい……さあ、食事を楽しもう」
そう促され、わたしは用意された食事に目を向けた。本当は空腹で限界だった。ファッションショーに出るという緊張感から朝食も昼食もそんなに喉を通らなかったから、今は胃の中が空っぽ同然。先程から体に栄養をよこせと言いたいばかりに音が鳴りっぱなしだ。
「い、いただきます」
手を合わせてから、わたしは箸を手に取る。奇麗な模様の小皿に盛り付けられた煮物をそっとおばあちゃんが手渡してくれた。
「たくさん食べて」
ありがとうございますとお礼を言い、わたしは迷わずそれを口にする。煮物はなんだか懐かしい味がして、ふっとお母さんのことを思い出した。まだおじいちゃんが生きていた頃はよく食卓に煮物がでたものだ。体を気遣っていつも薄味だったお母さんの煮物。お母さんが亡くなって食べることはなくなってしまった。何回か挑戦して作ったが、母の味を再現することは難しく、いつしか作ることを諦めた。その懐かしい薄味だけど味わい深い煮物を口にした途端、自然と頬に涙が伝う。
わたしの涙に驚いたふたりは慌てふためいていて、なんとか笑顔を向けようとしたのだが、肝心の涙がなかなか止まってくれない。
「なんだかお母さんの味がして……つい」
ようやく発したわたしの言葉にふたりは納得したように微笑んだ。
「気に入ってもらえたなら良かったわ。煮物だけはこだわりがあって、わたしが作ってるのよ」
「とても……とても、美味しいです」
どんなに見た目がお洒落で、一流の食材を作った料理も、なぜかこの煮物には勝てない気がする。それは家庭の味であり、母の味が作り出す究極の一品だから。
わたしは涙を拭きながら、何度も煮物のお代わりを頼んだ。
いくらかお腹が満たされた頃、部屋にいなかった真城さんが急に顔を出す。
「失礼します。亜矢さんのお迎えが来ましたが……案内してもよろしいでしょうか?」
「ああ、ここへ呼びなさい」
かしこまりましたと、真城さんは出て行く。
「もうお別れの時間のようだ」
残念そうな表情のふたりを見て、思わず声を出す。
「また会いに来ます……もっと話がしたいので来てもいいですか?」
本心からだった。その言葉にふたりとも嬉しそうに微笑み、深く頷く。
けれど、この暖かな空気はお父さんの存在によってすぐさま消え去った。




