ハーレム批判は何も生まない!それどころか……
前回の「ハーレムってッ!クソだよねええええええええ!」が予想以上の反響と好評を頂き、さらには日刊ランキング1位となった(ついでに前々作も確認したら4位だった)
アレを発表した当初はもっとハーレム支持派から罵倒されたりするんじゃあないかという覚悟もしていただけに(まあその場合あんな挑発的なタイトルをつけた僕が悪いのだが)いい意味で予想を裏切られたところだ。
今回は、沢山頂いた感想を踏まえて前回の内容の不備を埋めていくと同時に、話をテンプレの構成要素のハーレムから、ひいてはなろうテンプレを彩るメインキャラクター全体へと移していきたい。
なろうテンプレ共通の弱点とは「キャラ」である。
まず前回の延長線上にある以上、ヒロインについて。
ハーレム構成員のヒロインズは二次創作から一次創作へ移植された結果、「魂を失った」というのが前回のおさらいである。
「誠実さ」故にハーレム展開を採用した作家の皆様に課された課題は、この魂を失ったゾンビィ達に自分の手で魂を吹き込み、徒花ネクロマンシーする事である。
しかし、僕の知るハーレムもののほとんどは、この課題をクリアする事は出来なかった。
作家の皆様のスキル不足、と言ってしまえばそれまでだが、こうなってしまうのはハーレムの構造自体がまさに墓から這い出たゾンビの腕のように足を引っ張っているのだ。
理由は簡単、ハーレムの特徴でありメリットである筈の「数」が書き手の首を絞める。
「ジョジョ」の荒木先生曰く「キャラクターは一人目二人目まではまだいいが、三人目以降になるとネタが無くなってくる」との事、だからこそ「身上調査書」をキャラクター一人一人に作っていくのだとか。
キャラクター作りを丁寧にやる往年のプロ作家でさえ根を上げる作業、ましてこれが設備、経験共に心許ない素人がやったらどうなろうか。
属性を被らないよう人数分配っていくだけならだれでも可能だが、キャラクターを記号ではなく一つの人物にしていくための人物描写において、ハーレム構成員はその数故に尺を奪い合う。
さらに尺の奪い合いの相手は同じヒロインズだけではない、彼女らの主たる主人公や、恐らくその踏み台になるための「暴君」や「かませ勇者」等の無能な男キャラやその取り巻き、そして敵なんかもいる。
作品によっては「ラブライブ!」や「ゾンビランドサガ」のアイドルグループぐらいの数が居たりするなろうハーレム、あれらのアニメはグループ全員の掘り下げにワンクールを費やしている事からも、あれだけの数のヒロインを扱うというのは存外手間のかかる事なのだ。
下手な鉄砲数撃ちゃ当たるとは言うが、全弾外しちゃ意味が無い。
そんな彼女らの中に垣間見える数少ない「中身」は「主人公マンセー」である、まあハーレム構成員なんだから当然の事だろう。
問題がこのマンセーの矛先の主人公だ。
数多のなろう作品においてはまさに絶対王者と呼んでいいキャラクターである「主人公」
多くの作品はこの人物の一人称を通しているのだから、さぞかし濃いキャラクターが形成されている事だろうな!
しかし、そんなことはなかったのだ。
ヒロインズが悉く「魂を失った」要因として挙げたのが「二次創作からギミックを流用しながら一次創作で利用するための適切な改良がなされなかった」事、では主人公は?
彼らの場合は「直接『自分』をトレースした」からだと考えている。
断りを入れておくと、断じてなろうテンプレを手がける方々に「お前は薄っぺらな無個性人間だ」と喧嘩を売ったり人格否定したりするつもりは毛頭無い。
この問題の原因とは「創作のキャラクター」に求められる人格と「実物の人間」のもつ精神性との乖離にこそある。
突然だが、二次創作を作りやすいキャラクターというのは、行動原理がはっきりとしているキャラクターである。
喋り方、食べ物の好み、好きな音楽、特技、趣味、秘密にしている事、自己評価、性癖、どんな友達がいるのか、だれと因縁があるかetc……
別にこの中の全てを満たさなくてはならないという訳ではないが、何が好きで何が嫌いか、誰との関わりが重要なのかという事は作品を通して把握する事が出来る。
何故「いいキャラ」が「二次創作がしやすい」のか、原作がそのキャラクターの「トリセツ」として機能するのだ。
例えばクロスオーバーもの、作品Aのアイツと作品Bのアイツが出会うというシチュエーション。
この時、AB双方のキャラが立っており、尚且つ書き手がそれを把握していれば、どんなやり取りが成されるのか自然と出来上がっていくだろう。
単純なものでもAが「犯罪者は絶対に殺すクライムファイター」で Bが「『イライラしたから』大勢を殺した大量殺人犯」なら命の奪い合いは必至だろうとか。
……話を主人公に戻そう。
外部ではやれサイコパスだ太郎だと言いたい放題される事の多いなろう作品の主人公、彼らがそう言われるのは「わからない」からだ。
本来なら描写に割かれる尺も多く、尚且つ一人称という直接頭の中が分かる様式を取りながらこうなってしまうのは、ひとえにそれが「作者の気分で決まる」からだ。
なんでいけないのか、それはシンプルに「あんさんの気分なんざ分かりっこねーわニュータイプや琴浦さんじゃあるまいし」という事だ。
「普通の人間」ってのは意外と一貫性がないものである、他人がやった時に批判した行いを自分がやってしまったり、メチャクチャ好きだと思ってたものも後には飽きる、同じ人物でもある日は穏やかでまたある日はやけに短気。
何より「気分」とか「気まぐれ」とかいったどうしようもない不確定要素があり、善人って言われたくなったり残虐に振舞ったりしたくなるだろう。
さらに書き手の視点の場合、まず作中には見えてこない「メタ的な重要度」も絡んでくる。
こうして列挙してみると、なろう主人公の一貫性の無さというのはある意味「我々の世界の住人だった男」を表現して 「異世界(=我々が夢見た『あの世界』)にやってきた『リアルな人間』」の表現としては、これ以上ない程に正しいものであるのかもしれない。
でもこれじゃダメだ、キャラとしてはダメなんだ。
一つのキャラクターとして成立していない主人公への不信感は、やがて「こいつに惚れているヒロイン」も連鎖的に蝕んでゆく。
これが、かの矢吹先生が「ハーレムものは主人公も良くなきゃダメだ」という根拠なのだろう。
「何故こんな奴にゾッコンなのか」読者が理解出来ないし、実際この手のハーレムもののヒロインは、フラグの立つエピソードのワンパターンっぷりや、「好きになった根拠」を述べるシーンが「優しいから」とか「いい人だから」とか、どうも定型文が多く、「どうしてもコイツじゃなきゃいけない理由」が見えてこない。
もしおんなじ世界にジェームス・ボンドでも現れたら全員一晩で寝取れるんじゃないか?
まあ、リアルにおいては一目惚れとか根拠もへったくれもない事がある、と言われればそれまでだが。
この原因としては、書き手自身が「この主人公はどんな奴か?」を言語化できないから、ではないだろうか。
じゃあ自分の判断基準を主人公に持ち込んじゃダメなの?自分自身を主人公に投影してはいけないの?
いやそんな事はない、だがやり方がある。
自分自身の判断基準をそのまま持ってきたって読者には伝わらない。
自分自身を主人公にしたいなら「自分という人間がどんな人間なのか」を改めて分析し、シミュレーションするのだ。
されたら癪に触る事は?好みの女のタイプは?どうしてもしんどい事やらなきゃいけなくなったら?
なるべく自分に近いと思う解答を用意する事で、主人公の行動に根拠を設け「なんとなく」や「気まぐれ」をできるだけ潰していく。
我ながらゲスだなあとか、童貞臭いなあっていう「気に入らない部分」があるならそこは都合よく是正すれば良い。
じゃあもし主人公に残酷なことをさせたい気分になったら?その時も「言い訳」を考えるのだ。
「暴力を嫌う優しい人物」が「敵をリンチした」エピソードがある番組に存在するが、この回においては「敵がか弱い子供が恐怖し絶望する様を嘲笑い楽しむクソゲス野郎だったから」という「言い訳」があり、その後「優しい人物」はその優しさ故に、怒りに我をわすれた己自身の狂態を自覚し愕然としていた。
これが「仮面ライダークウガ」の名エピソードとされる「愛憎」である。
例外を設ける際にも、いや例外こそ確固たる根拠を示すのだ、でも回数が少ないから「例外」であり輝くんであって乱用は禁物だゾッ!
これでリアルでは村人Aに過ぎないあなたも私も立派な一キャラクターに仕上がるはず。
一般無個性ヒロイン「死んでもハーレムに加わりたい!」
ぼく「じゃあ、死んでもらおうかな」