第九話 その名前は好きじゃない
窓越しにリクを見つけたのかヴィンセントが眉間に皺を寄せ、その美形な顔を歪め、睨んでくる。
「ヴィンセント様、いけません!」
「お嬢様も落ち着いて」
決闘を申し込んできたヴィンセントに対しエリナが叫ぶが隣のカレンに肩をがしっと掴まれ無理やり座らされた。
「カレン離して! 止めないと!」
エリナは涙と髪を振り乱し叫ぶ。いつもの落ち着いた感じは影を潜め、エリナは元婚約者を心配して泣き叫ぶ女の子になっていた。
「落ち着きましょう!」
「いやよ! 離して!」
「お嬢様」
カレンに再度宥められているが、それでも涙を溜め込んで必死の形相のエリナは止まらずにカレンの制止を振りほどこうともがいている。
決闘を申し込まれたはずのリクは明後日においていかれていた。リクは「あー、とりあえず表行くわ」と呟き、席の後ろに置いてあった軍のサーベルを取り出す。
「リク!」
どうして良いか分らず不安な顔を向けてくるカレンに「まー、なるようになんだろ」とリクは答え、馬車の扉を開け表に出た。表には白馬を従えた王子様が剥き身の剣を携え、険しい顔をして待ち構えている。
「貴方がリクさんですか!」
リクが馬車から降りるやヴィンセントが声を張り上げた。肩をいからせ、やや興奮しているのか顔を紅潮させている。
実戦慣れしていないひよっこだなぁとリクはほほえましく思ってしまうが、そんな場合ではないのだ。決闘などと物騒な事を口走る王子様がお待ちかねなのだ。
「あー、いかにも、俺が公国軍輜重師団所属のリク大尉だ」
リクは軍人らしく所属と階級を名乗った。周囲には野次馬が群れを成しており、馬車とリク、そしてヴィンセントを遠巻きに取り囲んでいた。
「血塗れの野菜将軍とお聞きしていたんですが、割と普通ですね」
口をぎゅっと結んだヴィンセントの発した言葉に野次馬たちがざわめく。実はリクの二つ名の野菜将軍の前にはもう一つの言葉がつく。それが【血塗れ】という言葉である。
味方の裏切りにより、リクを暗殺せんと忍び込んだ敵兵百人に囲まれた時、一分も掛からない時間で敵兵全てを惨殺し、その血塗れの大地に一人ぽつんと【無傷で】立っていたのだ。その時から野菜将軍の前には恐怖がこめられた【血塗れ】という言葉が付け加えられたのだ。
「その名前は好きじゃないんだがなぁ……」
騒めく野次馬に混ざりヴィンセントを応援する野太い声、心配する黄色い声が混ざる中、リクは頭を掻き、どうしたもんかと思案していた。
目の前のヴィンセントに勝つことは簡単だと思われた。剣術に自信があるのかもしれないが、所詮は実戦を潜っていない習い事の域を出ないからだ。人を斬る、と言うことがどういう事なのかを、恐らく目の前のヴィンセントは知らない。
ここでヴィンセントを倒してしまった場合、ニブラの群集は敵になるだろう。彼の登場時の街の人間の動きを見れば予想はついた。誰もヴィンセントの邪魔をしないからだ。
さらにはエリナの問題もある。元婚約者という事だが、エリナの反応を見る限り、そんな言葉で納得できるものではない。余程想い合っているのだろうという答えに辿り着くのは、リクですらも簡単だった。エリナがリクを見て泣きそうになっていたのは、この事が原因であろうことも推測できた。
ここでリクが負けるとどうなるか。
エリナはここまで想い合っていた婚約者と別れざるを得ない程の事態に巻き込まれいるはずだ。無理やりリクと婚約させられたのであれば、何かの目的があった、ということだ。
リクが負けて婚約話が壊された場合、エリナが罰せられる可能性もあった。この無茶な話を断る事もできないくらいの命令だったのだ。リクと同じように。
勝つも問題、負けるも問題。進退窮まるとは、まさにこの事だった。
「……まぁ、やるしかねえよな」
リクが手にしたサーベルの柄をギュッと握りしめると、その動作だけで肩の筋肉が盛り上がる。
「ヴィンセント様、おやめください! やめてぇ!」
背にした馬車の中では、ヴィンセネントを止めようとするエリナの狂ったように叫び声が聞こえてきていた。彼女がここまで取り乱すことはなかった。余程心配で、かつ失いたくはないのだろう。だがリクは不敵にニヤリとする。
「で、そちらさんはどなた様なのかな。名乗りもしないってのは、貴族様でも不躾なんじゃ、ないのか?」
リクは鞘に入ったままのサーベルを右肩に担ぎ、首を斜めに傾けた。あからさまな挑発だ。だがヴィンセントは一瞬眉を顰めただけで、肩の力を抜いた。そして自らを落ち着かせるように小さく息を吐いた。
「取り乱してしまい申し訳ありません。僕はグリード侯爵が次男ヴィンセントと申します。突然で大変失礼かと存じますが、僕の元婚約者であるエリナを賭けた決闘を受けて頂きたい」
ヴィンセントは背筋を伸ばし、剣の切っ先をリクに向けてきた。綺麗な翡翠の瞳には、どうしても譲れない彼の決意が漲っている。彼の周りの空気だけは張りつめており、今にも音を立てて弾けてしまいそうだった。
リクはその真摯な眼差しを受け止める。そして低い声で「いいだろう」と告げた。
その言葉が合図でヴィンセントは剣を構えた。右手に剣を持ち、左足を引き半身になる。左手は、腰だめに構えられた剣の柄に添えるだけで握ってはいない。微動だにしないその姿勢は、かなりの鍛錬を積んでいると思わせた。が、リクは口角を上げ、鞘からサーベルを抜き取り、空になった鞘を馬車の前に放り投げた。
「良い構えだ」
リクも左足を引き、サーベルを振りかぶる形で頭上に構え、ヴィンセントの翡翠の瞳を凝視する。彼我の距離は数歩だ。一歩繰り出して剣を振りかぶればお互いの間合いに入るだろう。ゾワリとする感覚が背を走り、褐色の肉体がギリと音を立てる。戦場で感じた頬を叩く感覚がよみがえり、リクは思わず笑みを零した。
「ははっ、行くぜ」
「いつでも!」
リクが躰をわずかに前に傾けおこりを作るとヴィンセントはそれに合わせ横薙ぎに剣を振るってくる。予想通りの剣筋に合わせ、リクはサーベルを振り下ろすが、ヴィンセントは途中で切っ先を変え斬り上げてきた。
「ちっ!」
リクの褐色の筋肉が唸りをあげサーベルを強引に操り、襲いくる剣に軌道を合わせた。剣とサーベルが交差し、鋭い金属音と重い感触がリクを襲う。リクは押し出すように剣を振り上げ、剣ごとヴィンセントを後ろに押しやった。二人を取り囲む群衆からはどよめきが空気を揺らし、馬車からはエリナの悲鳴が空気を裂く。
「へぇ。今のは中々だな」
リクは素直に称賛した。おままごと剣術は馬鹿正直に直線的な剣の軌道を描く癖があるが、ヴィンセントはリクにつられた動きを途中で修正してきた。ある程度以上の腕前と経験があるのだろう。
たたらを踏んで体勢を整えたヴィンセントは肩を上下させ、その綺麗な顔には苦痛の表情が浮かぶ。リクの体重の乗った一撃をまともに正面から受けたのだ。腕が鈍く重い痛みに襲われているのだろう。あからさまなヴィンセントの劣勢に周囲からは悲鳴のような声が上がる。
「そら、まごついてると次が来るぞ?」
リクはまた左半身になりサーベルを頭上に構える。ヴィンセントを応援する周囲の歓声にリクは悪党の気分を満喫していた。予想を超えるアウェーを楽しんでしまっていたのだ。
「負けるわけには、いかないんです!」
重く、言う事を聞かなくなったであろう腕に鞭打ち、ヴィンセントは剣を構える。斬り合う前はピタリと止まっていた体は小刻みに震え、また横に構えた剣も停止することなく、呼吸と同じ早いテンポで上下に動いてしまっていた。
「いやぁぁ!」
バタンと大きな音をたて馬車のドアが開き、エリナが飛び出した。
「エリナ! ダメだ来ちゃいけない!」
「いやぁぁ!」
ヴィセントが飛び出したエリナを見て叫ぶ。エリナは長いスカートの裾を踏み、転びそうになりながらヴィンセントに飛び込んでいった