第八十話 今後お目にかかることはないと存じ上げますが
大公の執務室だという扉を前にして、リクは大きく息を吸った。歩いて冷めて凝り固まった筋肉をほぐす。
武器となる野菜はない。
リクはガスパロに視線をくれた。真意の不明な笑みを浮かべ、姿勢正しく直立不動だ。
――よく躾けられた猟犬だことで。
リクはカレンとオットーに視線を動かす。
中にいるのがエッカルトとネイーシャだけだとしても、この二人は守らねばならない。目の前のガスパロが手を貸すことなどないのは予想できる。
――問題は炎使いだけだ。
意を決したリクは扉のノブに手をかけ腕の筋肉を盛り上げた。ギギっときしむ音を奏で、扉はゆっくり開いていく。
リクは扉と同時に室内に入り込み、瞬時に周囲に視線を滑らせた。
執務室らしく壁を埋め尽くす本棚、採光のため大きく取られた窓、来賓を迎えるための極上のソファ、そして一番奥に鎮座する巨大な執務机。
その執務机には、踏ん反り返る中年男性。銀髪はオーツと一緒だが髪は乱れ、端正な顔には憔悴が色濃い。
その彼の横には、赤いワンピースに同色の厚手のカーディガン姿で、首に鎖をつけられ、男性に握られ、罪人同様な扱いを受けている幼い女の子。赤い髪はぼさぼさに乱れ、赤い瞳を不安げに揺らし、嫌悪の表情を隠せずにいたが、オーツの姿を見るや目を大きく開いた。
背後には先日離宮で顔合わせしたデボラが、寄り添うように静かに控えていた。
面子的に銀髪の男性がエッカルトである、とリクはあたりをつけた。脇にいる少女がネイーシャだろう。
睨み付けてくる視線を真正面から受け、リクは不敵に笑った。
「閣下の身柄を確保に参りました、野菜将軍であります。今後お目にかかることはないと存じ上げますが」
リクの口上を聞いたエッカルトが顔を真っ赤に茹で上げ、眦をあげた。
「き、貴様ごときが口を開いていい相手ではないぞ!」
「オットーしゃま!」
唾を飛ばして激昂するエッカルトの脇でネイーシャが鎖をじゃらりと鳴らし、オーツへと足を出した。白馬の王子様が迎えに来たお姫様は、虚ろを掴むように手を宙に踊らせている。
「勝手に動くな!」
「あぐぅ!」
エッカルトに鎖を引っ張られ、ネイーシャが背中から転倒した。怒りでオーツの顔が瞬時に朱に染まる。
「ネイーシャ!」
「落ち着け」
飛び出しそうになるオーツの肩をリクは掴んだ。万力以上の力で止められ、オーツが肩越しにリクを抗議の目で見上げてきた。
「将来の偉い人間がすぐに盛り上がるんじゃねえ」
リクはエッカルトを睨んだままだ。オーツは唇をかみ、リク同様エッカルト睨んだ。
ネイーシャはデボラの補助でふらふらと立ち上がる。そして揺れる赤い瞳でエッカルトを睨みあげた。
「オットーしゃまが来た以上、全てをあきらめなしゃい!」
「黙らんか小娘が! そもそも大公の地位は私が受け継ぐべきだったんだ。優れている、私が! 私こそが!!」
「きゃぁぁぁぁ!」
エッカルトはその激情のまま、掴んだ鎖を力の限り引っ張った。ネイーシャは顔から床に崩れ落ち、再び転がされてしまう。
「小娘! 貴様の力でこの者たちを焼き払ってしまえ! 灰も残さずにだ!」
エッカルトがゆらっと立ち上がり、どこかに隠していたと思われる短剣を手にした。右手に持った鎖をぐいっと引き揚げ、ネイーシャを無理やり起こす。
「うぐぅ」
「さっさと立たんか! お前の親がどうなっても良いのか? 首を撥ねるのは容易いのだぞ!」
顔を歪めたエッカルトがネイーシャを脅す。赤い瞳を大きく揺らし、今にも涙をこぼしそうなネイーシャが声なき叫びをあげた。
リクも、その背後に隠れているカレンも、動けなかった。ただ目の前の暴力を傍観している他なかった。
ただ一人を除いて。
直後、デボラが動いた。
隠し持っていたのか、折り畳み式のナイフを握りしめていた。
彼女がエッカルトの背後に周った瞬間、彼の挙動が停止する。「ゲフッ」っと二度三度むせた後、口から血を吐きだした。
彼はガタガタと体を震わせ、怒りの顔を背後に向ける。
「デ、デボラ……」
「あなた、もう夢を見る時間は終わりです。ですが、このまま夢の中でお逝きなさい」
「裏、切る、気か」
「裏切りなど致しません。どこまでも、ご一緒いたします」
目尻を下げたデボラに、エッカルトの目が細まる。直後、盛大に咽たエッカルトの口から吐き出された血がネイーシャに降りかかる。
「い、いやぁぁぁ!」
赤に染まり、恐怖で短い悲鳴をあげ、ずりずりと手で後ずさるネイーシャを、エッカルトは憤怒の顔で睥睨した。
エッカルトの痙攣する頬が吊り上る。
「お前まで、私を愚弄するのかぁぁ! こうなったら、おまえらも道ずれだ!」
狂気にふれた顔のエッカルトが逆手に持った短剣を振り上げ、ネイーシャに狙いをつけた。ネイーシャの顔が恐怖で固まり、そこで体も止まってしまった。
「ネイーシャ!」
リクの力を振り切ったオーツが身をかがめネイーシャに覆いかぶさった直後に短剣がすり抜けた。服を裂く音と赤い血が空に舞い踊る。
「ぐっ」
「オットーしゃま!」
リクが動くよりも速く、紅蓮の焔が立ち上がった。焔はエッカルトの真下から湧き上がり、一瞬で彼を呑みこんだ。
「よくも、よくもオットーしゃまをぉぉぉ!!」
「ぐあぁぁ!」
エッカルトの金切り声が部屋に響くが、業火の勢いがその声すらかき消す。赤い焔のなかで苦しみにもがく影が見える。
「チッ、想定外だ!」
リクは舌打ちをし、素早く倒れているオーツに近寄る。エッカルトを燃やす業火の熱で頬が焦がされるが、それを気にしている余裕はない。オットーが短剣で切られ、左腕からかなりの出血をしていた。
「カレン、縛るものを探せ!」
「わわわ、わかった!」
カレンは窓のカーテンを力いっぱい引っ張って、バキバキっと付け根から壊した。まさに火事場のくそ力だ。
ネイーシャの生み出した感情の爆発の焔はエッカルトだけではなく、部屋そのものを燃やし始めた。
焔は天井を焦がし、さらに延焼を開始した。
ネイーシャを繋ぎ止めていた鎖は、業火の熱で溶けて切れていた。
異変に気が付いたのか荒々しく扉が開き、ガスパロが姿を見せた。惨状に顔を歪め叫んだ。
「デボラ様!」
デボラは燃え盛るエッカルトを逃がさぬよう、焔の中でしっかりと抱きしめていた。
「はなせぇぇ!」
「離すことはなりません」
焔の中でうごめく大きな影を見たリクは、オーツとネイーシャを両脇に抱え、叫ぶ。
「速くここから出ろ! 黒こげになりてえのか!」
「しかしデボラ様が!」
「助かるかどうか、てめえで判断できねえのかぁ! 駄犬がぁ!」
リクの叱責がガスパロに飛ぶ。リクは二人を抱えたまま窓に駆けた。
焔はすでに部屋の半分を呑みこみんでいる。
一刻の猶予もない。
「カレン、窓から逃げるぞ!」
「でも、デボラ様が!」
「手遅れだ!」
カレンが叫ぶがエッカルトとデボラを焦がす焔は衰えない。
ネイーシャの怒りなのか、勢いは増すばかりだった。
「迷惑かけて、ごめんなさいね」
焔の中からかすかな声がリクの耳に入る。
リクが振り向いた時には、すでに焔の中の影は動かなくなっていた。部屋も大半が炎に呑まれて灼熱の地獄と化していた。
ガスパロも扉から逃げており、廊下で建物からの避難を叫んでいる声が聞こえる。
このままでは宮殿そのものも呑み込んで灰にする勢いだった。
「出るぞ!」
窓の外にはすでに大木が姿を見せ、太い枝が窓のすぐわきにまで伸びていた。
動けないオットーと泣きじゃくるネイーシャを抱え、リクは窓から部屋を飛び出す。枝に乗り移り、すぐに幹のほうへと移動した。
「置いてかないでよ!」
カーテンを抱えたカレンも窓から飛び出してきた。同じく枝に乗り、リクへと近づいてくる。リクは次に移る木を生やし、そこへ乗り移った。
そうして四人が地面に降り立った瞬間、今までいた部屋が爆散し、すさまじい焔が吹き出された。