第七十八話 け、良いよう使われてやるよ
「ヘルムート殿下!」
扉を閉じることも忘れたアルマダが足音も荒く入ってきた。濃い緑の軍服は正装ではなく、すぐにでも戦いに馳せ参じる装いだ。
自ら陣頭に立って公太子の救出に奔走したのだろう。そんなアルマダの姿を見たヘルムートが少しだけ顔の緊張を解いた。
「ご無事で」
「ふぅ、ご苦労だな、大佐」
「ハッ!」
アルマダが背筋を伸ばし、右拳を左胸にあてた。緊張で満ちた顔のアルマダがまとう気配もまた、金属のように硬質だ。
「離宮はほぼ制圧いたしました。現在リク大尉が残党狩りをしております」
「ふむ、あまり怪我をさせぬように」
「心得ておりますが、抵抗次第です」
アルマダとヘルムートのやり取りを、カレンはじっと見つめている。部屋の隅にはヘルムートの妻オリーヴィアが、不安そうな顔でロッテを抱きかかえている。脇に控えるオーツは唇をきゅっと結んだ、子供にしては凛々しい表情をしている。
「大尉は宮殿へ行く手筈では」
「ハッ。リクは公都の地に明るくなく、暗いなか単身宮殿へ行くよりも離宮の確保を優先したと述べておりました」
「そのほうが賢明かもしれんな」
「手順が変更になってしまいましたが、殿下並びに奥方様お子様方の安全を確保できました。これで憂いなくエッカルトに当たれます。エッカルト側にネイーシャ嬢がおれども、突破は可能かと」
「そうか」
アルマダの説明にヘルムートが大きく頷いた。
――物は言いようね。多分アルマダさんが言い訳を考えてくれたのね。
場当たり的なリクの行動を、アルマダが正当化したんだろう、とカレンは確信した。リクがそこまで賢いわけがない。
「おねーちゃん!」
張りつめた場の空気にも関わらず、ロッテはオリーヴィアに抱かれ、ただ一人笑顔だ。そしてその笑みをカレンに向けてくるのだ。どうしたものかと迷ったが、カレンもにこっと笑い返した。
カレンの顔は笑顔でも、この部屋の居心地の悪さには辟易していた。公太子という雲の上の人物とその奥方。リジイラで一緒に過ごしたおかげでロッテは懐いているが、その相手をすること自体が不敬に当たりそうで、カレンは委縮していた。
寒いはずなのに、背中には嫌な汗がべたっと張り付いている。
――ここから逃げたい。はやく帰ってきなさいよ!
カレンの胸中では、リクに助けを求める悲鳴が上がっていた。
一仕事終えたリクは、カレンを送った部屋に戻った。松明を振り回していため、顔がやや煤けてしまっている。興奮でぎらついている目と合わせて、狂戦士という言葉がしっくりくる風体だ。
ヘルムートとオリーヴィア、ロッテは別の部屋で静かに時を待っていた。唯一、オーツだけは部屋に残っている。
部屋に入ったリクは部屋の中を一瞥し、アルマダに声をかける。
「離宮は制圧したぞ」
「うむ」
「このまま宮殿も落とす」
「兵を分けて宮殿に向かわせて陽動させよう。その隙に侵入しろ」
「そりゃ助かる」
返事をしながら、リクはカレンに視線を投げた。宮殿にはカレンも連れていくつもりだ。リクには、カレンと別行動を取るつもりはこれっぽっちもないのだ。
カレンに火の粉が降りかかるわずかな可能性でも、リクは認められなかった。
同じ危険なら自分の腕の中に守る。
譲歩をという考えはない。
「心配しないで、あたしも行くわよ」
カレンが当然という顔で返事をよこす。ふっとリクは煤だらけの顔を緩ませた。
「ちゃんとあたしを守りなさいよ?」
「任せとけって」
にやりと笑ったリクはオーツを見た。オーツが部屋に残っている理由がわからないのだ。
「僕も行きます」
「はぁ?」
予想だにしないオーツの言葉にリクは眉をひそめた。チラとアルマダに視線を送るが、小さく頷かれてしまった。既に話はついているようだ。
リクは口を曲げオーツを見た。
「将来の大公を危険に晒すわけにはいかねえだろ」
「僕の婚約者であるネイーシャが叔父にとらわれています。炎の能力を継いでしまったために盾にされてしまっているんです」
オーツはそこで言葉を切った。リクにもその先に続く言葉はわかる。が、安易にその言葉を認めるわけにもいかない。
理由がリクと同じとはいえ、立場と身分と重要度が違う。片や個人、片や国である。単純に比較することもできない。
だがリクは彼の紫の瞳に不屈の意志を見つけた。腹をくくった人間の目だ。
戦場で当たり前のように見かけ、自分もしていたであろう、強い意志を持った瞳だった。
「で、助けたいってか」
「僕の婚約者ですから。僕が助けにいかなくってどうするんですか」
「お前は何ができる?」
「彼女の注意を引けます。リクさんだけだった場合、彼女も警戒するでしょうが、そこに僕がいれば、ネイーシャは話を聞いてくれると思うんです」
「なるほど」
刺してくるオーツの視線を受け、リクは顎に手を当てた。
オーツの意志は固い。それに内容はもっともなことだった。
ネイーシャを人質兼護衛としていた場合、面識のないリクとカレンでは警戒されるだけだろう。オーツがいればその警戒も薄れるに違いない。
問題はオーツ自身が重要人物だということだ。万が一大怪我で命を落とせば、その損失は国家の損失となる。オーツに代わりはいないのだ。
「リクさんだって、好きな女性のために、敵地に飛び込みましたよね?」
不意にこぼされたオーツの言葉にリクは目を瞬かせ、思わずカレンに顔を向けた。
恥ずかしいのか頬を赤く染めふいっと顔をそらすカレンを見て、そしてふっと笑った。
「ずいぶんと言うじゃねえか」
「僕にとって、ネイーシャは大事な女の子ですから。彼女を見捨てることになったら、死んでも死にきれませんよ」
オーツがにこっと笑った。
「けっ、ませやがって」
リクはガリガリと頭をかいた。オーツの理論武装に完敗だった。
「既に宮殿には部隊を向けてかく乱している。宮殿を守る兵も少ない。しかも今は夜間だ。利はこちらにある」
「夜が明けると、それはそれで面倒なことになりそうだしな」
「すまんが、頼むぞ」
アルマダがスッと拳を差し出してくる。
「け、良いよう使われてやるよ」
リクは握りしめた拳を、ガツンと当てた。
夜の帳が降りて眠りついた公都に、昼間の喧噪が戻っていた。公都のはずれにある離宮から中心部の宮殿に向けて軍勢が駆け抜けているからだ。
月明かりのなか、公都の大通りには、リク率いる兵士たち数十人が石造りの道をブーツで踏みつける音であふれかえっていた。
騒音に起こされた住民が窓を開け、文句の一つでも叫ぼうかと通りを覗くと、そこには月明かりに照らされた、場違いもいいところのリンゴの木々を見たのである。
鈴なりといっていい程のリンゴをぶら下げた枝が、寒風に揺れていた。
リンゴだけではない。梨、柿、枇杷、無花果、栗、オレンジ、桃の木々が、無秩序に乱立していた。
兵士たちが去った後には、闇に浮かぶ果物たちが残されていた。食べごろを主張する甘い香りを周囲にまき散らしていて、住民たちを誘っている。
「なん……で?」
「ちょっと!」
「取っていいの?」
「今のうちに取るんだよ!」
窓という窓から歓声が上がる。
瞬く間に大通りは建物から漏れる明かりで満たされ、狂い咲きの花を並べたように人々が殺到した。
その光景は、リクが駆け抜けた後に、広まっていった。
「あー、あたしも欲しいのに!」
リクの少し後ろを駆けているカレンが騒ぐ。駆け足といっても歩くよりは早い程度なのでカレンでもオーツでも十分ついていける。
「終わったら、もういらねえってくらい食わせてやる」
「絶対だからね!」
念押しのつもりなのか、カレンがリクの背中をべしっと叩いてきた。
「ったく、食いしん坊だな」
「なんですってぇ!」
オーツはざわつき始めている公都の空気を肌で感じているのか、ブルッと身震いをした。
その様子を見たリクは鼻を鳴らす。
「怖いか?」
「これから起きる公国にとっての一大事を前に、体が沸き立っただけです」
「生意気言いやがる」
石の通りを駆けるリクは見た。
高貴な月の光を打ち消すような赤色の炎に浮かび上がる、ヴェラストラ公国の心臓部、公都宮殿がまがまがしく待ち構えているのを。
「上等だ。ぶっ潰してやる!」
リクの鋼の筋肉が、キヒヒと嗤った。