第六十四話 アレは不可抗力だ
雪洞の入り口から聞こえるざわつく音にカレンは目を覚ました。慣れない寝床で眠りが浅いのもある。むにゃっとしながら首を回せば、雪洞の入り口でガスパロが立ち上がっているのが見えた。いつもだったら何かに背を預けている体勢のはず。
――ん? 何かおかしい?
少し覗く空は紫がかっていて夜明けだと教えてくれる。横で寝ているロッテは「むーむー」と夢の中で格闘中だ。
「何かあったの?」
ロッテを起こさない様に小声で話しかけるとガスパロが「貴女たちは中にいてください」と同じように小声で返した来た。ロッテを起こさないように小声だと理解したカレンだが、耳に入る聞き覚えの声に寝ぼけていた意識が叩き起こされた。
「あんたが隊長か。公国軍輜重師団のリク大尉だ。仕事熱心な憲兵殿に食事でもご馳走しようと思ってな」
リクの声と名前を聞いただけでカレンの胸は熱くなる。来てくれたと思えば目尻も熱くなり、暖かいモノがジワリと滲んでくる。
「うちの食いしん坊の侍女がいると思うんだが。腹を空かせてピーピー言ってんじゃねえかと思って」
だが続く言葉で出かけた涙も行き場を失う。
――な、なんですってぇぇ! 確かに食べたりないけど、弁えて我慢してるんだから!
「あぁ、赤毛のお嬢さんがいらしゃいますね」
カレンは色々な意味で涙目になった。リクが来てくれて嬉しいのとあられもない事を言われて恥ずかしいのとで、カレンの胸中は複雑怪奇で五里霧中だ。
「カレンさん、お客さんです……よ?」
雪洞の入り口から顔をのぞかせたガスパロが、ぎょっと表情を変える。カレンは唇をかんで零れそうな涙を堪えていた。
カレンはザスッと足を地面につけ雪洞の狭い入口から頭を出した。視界の先には褐色の顔の、会いたかった男の顔がある。視線が交差するとリクの顔が緩んだように見えた。
カレンは無意識にふらっと立ち上がり一歩二歩と足を進めた。そしてリクの横に立つオーツを見つけた。
――ここで泣いちゃダメだ。
正直、リクの姿を見た時は、嬉しくて涙が出そうだった。飛びついて抱き付きもしたい。でもそれは、彼らの前では憚れる事だ。
オーツの姿を認めたカレンはそう思った。リクが自分を助けに来るのならオーツを連れてくるはずはないと考えたのだ。
何か思惑があるの違いない。
ここで弱点となってしまいかねない自分は我慢すべきだ。涙を浮かべながらもカレンは吼える。
「な、なんであんたがここにいるのよ!」
カレンは自身の心に渦巻く想いを殺して、リクを睨んだ。
「なんであたしが」
乗ってきた馬からレンガをとり、鍋をのせる台を作っているリクの横でタマネギの皮を向いているカレンが、涙をぽろぽろこぼしながら文句を垂れた。
リクはカレンがいた雪洞の前を耕し少し掘った。そこにレンガを積み、火の空間を作っていた。
オーツはロッテと一緒にカレンの脇でニンジン、ジャガイモ、カボチャ、ダイズをおもちゃにしておままごとで遊んでいる。その野菜はリクがここで生やしたものだ。とれたて新鮮な野菜をおもちゃにする贅沢は大公の孫だからというわけではない。
「いいから俺の傍にいろ」
リクは目に染みるのか涙をこぼしまくるカレンに声をかける。たかが皮むきで涙が出るはずもないとは思っているがそこは突っ込まない。カレンの肩が震えているのに気がついても見て見ぬふりをした。
リクの頭が残念使用とはいえ、好きな女の挙動くらいは分るし予想もできる。まして慣れない雪の中で連れまわされて恐怖と疲労と不安でいっぱいなんだということも分る。
本当ならここで抱きかかえて一目散に連れて帰りたいが、それはできない。抱き締めて慰める事もできない。許されるのは傍にいて見守る事だけだ。
「ふんだ! アタシを置いていっちゃう男なんて知らないんだから」
「アレは不可抗力だ」
「浮気する男って、そう言い訳するってお母さんが言ってた!」
「なんだその浮気ってのは」
売り言葉に買い言葉の勢いで言ってしまった内容に、カレンが怒って剥きかけのタマネギで頭に一撃を喰らわせてきた。ゴカっといい音がすると周囲でリク達を見張っていた憲兵たちから「おぉっ」とどよめきが起こる。
ちょうど鍋の位置を調整していたリクは避ける事もできず、クリーンヒットを許してしまった。
「ってぇな!」
「あたしの手の方が痛かったわよ! 身体だけじゃなくて頭も固いんだから!」
涙目のカレンがタマネギを持った手にふーふーと息を吹きかけている。
呆れた顔のリクだが、いつもの様なやり取りができていることに、安堵していた。嫌われているかもしれないが拒絶はされていないことにだ。
「食材を手荒に扱うなって」
「あんたがおバカじゃなきゃ丁寧に扱ってるわよ!」
リクが涙目のカレンを見つめていると、オーツとロッテの近くにいるガスパロがここにいる全員が聞こえる程の盛大なため息をついた。
「あのー、痴話喧嘩は猟犬も食わないのですがって、聞いてます?」
ガスパロも呆れ切った声だ。カレンもそうだがオーツにもロッテにも緊張感の欠片も見られないからだろう。
カレンはすっかり緊張の糸が切れてしまっているようだがリクは違う。気配で憲兵を察し、不穏な動きがあれば抹殺する気だった。
リクにとってカレンの命は絶対であり、オーツとロッテよりも優先だ。もはや国に忠誠を尽くすつもりもない。
「こんなやつは、恋人なんかじゃないんだから!」
涙目のまま顔を赤く染め否定したのはカレンだけだった。周囲の憲兵から突き刺さる白い目が痛いリクは顔を背けた。
それは肯定にしか取れない仕草であったことをリクは気がついていない。
美味しそうなにおいと湯気を立てる大きな鍋には野菜たっぷりのスープが満ちている。琥珀色のスープの中には大きく切ったニンジンやらジャガイモやらがひしめき合い、美味しく食べられるのを待ち構えていた。
雪原には場違いなキャベツ、キュウリがゴロゴロと転がっており、好きに食え、といわんばかりに放置されている。
どこからともなくグーという腹の虫の音が聞こえてきた。
「残しても無駄になるから食い切ってくれ」
鍋の前にいるリクはオーツとロッテの分を木製のおたまでよそいながらガスパロに声をかけた。
「……本当に朝食を作る為だけに来たんですか?」
ガズパロの顔は呆れているが目は据えたままだ。食い気にも動じず、いまだ警戒は解いていない。
「話は食いながらしようや。隊長殿」
リクはカレンの分をよそい、慇懃に笑って見せる。ガスパロの頬が一瞬だけピクリと動いた。
「いいでしょう。でもまずこれの毒見をし――」
ガスパロが言いかけたその脇で、スプーンに大きなジャガイモ乗せたロッテが大きく口を開けてがぶりと齧りついていた。ガスパロがぎょっとした顔になる。
「……する必要は無いようですね」
今度は本気で呆れたようで、目が笑っていた。
「あ、ほら、ロッテちゃんこぼしてるよ」
「ロッテ。しっかりスプーンを持たないと」
「むー、じぶんでできるー!」
カレンとオーツが二人がかりでロッテの世話をしている脇で、リクとガスパロは向かい合って座っている。食事に毒などが混入していないことがわかると、ガスパロも警戒を解いた。
憲兵たちはめいめい好きな場所に座り、久しぶりの温かい食事に夢中になっている。各所で「うめー」「久しぶりに野菜食ったな」などの声が聞こえていた。
「ふぅ、美味しいですね。体に滲みわたります」
スープを飲み、白い息を吐きながらガスパロが呟いた。
「輜重部隊を舐めんじゃねえ」
リクもガツガツとスープの野菜に齧りつく。軍人の中に入ればマナーなど記憶の彼方だ。
「そうでした。南部戦線を支え切った野菜将軍殿でしたね」
「その名前は好きじゃねえんだ」
ガスパロもリクも行儀悪く食べながら会話を続ける。
戦場では早食いが自慢になる。軍人などこんなものだ。
「で、野菜将軍殿は、如何様な御用事でいらっしゃったのですか?」
問うたガスパロがニンジンを口に放り込んだ。彼にとってはこれが一番の疑問だろう。
「あぁ、そこの大公閣下のお孫さんを公都にお連れしようと思ってな」
リクが近くにいる二人を見やるとガスパロが「グフッ」っと咽た。