第六十二話 神様だか何だか知らねえが
雪のやんだ黒い空を、リクは虚ろな目で眺めていた。とうに日は変わりニブラは完全に眠った。
リクは寝られずにただ時間が過ぎていくのを待っていた。
――攻撃は最大の防御つってもなぁ。
リクは先ほどのアルマダの言葉を思い出していた。彼の話す内容は、にわかには信じがたい。
――他にとれる手段がなきゃ、しゃーねーのか。
今のリクの頭を占めるのはカレンの安否だ。国がどうとか、そんなものは二の次、三の次でしかない。末端の兵士であるリクの待遇など、政を誰が行おうともさしたる違いはないのだ。
過ぎていく時間に倍する不安が募るが、それ以上に何も出来ない自分に腹が立つ。拳を握りしめても乱れた心は灰色だ。
――せめて無事かどうかでもわかりゃ。いっそ連れまわした方がよっぽど安心だ。
「神様だか何だか知らねえが、頼むからアイツを守ってやってくれ」
リクは生まれて初めて神というものに縋った。
翌朝、朝日が雪原を銀色に染める中、憲兵に囲まれたカレンはソリにロッテを座らせて、手を繋いで歩き始めた。
ロッテを背負うなり抱っこではカレンの体力の消耗が激しく、かといって歩かせると行軍速度が落ちすぎるのだ。
「手を繋いでいれば、大丈夫よね?」
カレンは疲労を隠しつつニッコリとした笑顔をロッテに向ける。一瞬口を閉じたロッテだが、健気にも何かを察したのか直ぐに二パッと笑った。
「わかった、がまんする」
白い息で笑顔が隠れた。
隠し事ができない年頃だが、そんなことはカレンが良く知っている。伊達に屋敷で先生をやってはいない。
「ロッテちゃんは偉いね」
「むふー、えらいでしょ!」
カレンが褒めればロッテはすぐにムフフという顔をする。単純だが、それが可愛いとカレンは思う。その可愛いロッテの為に、カレンは耐えていた。
「次の中継地点へ向かう。第二班が斥候」
ガスパロは目の下を膨らませているが呑気な笑みのまま指示を飛ばしていた。
カレンはあれから直ぐに睡魔に負けて寝てしまった。ガスパロが寝たのかは分からないが、少なくとも十分ではないことはカレンにもわかった。
そしてそれを物ともしない体力も。
――体力は認めるわ。アイツの方が凄いけどさ。
憲兵が引くソリの動きに合わせ、カレンも固まった雪を割りながら足を進めた。
足は重く膝が上がらない。息がすぐにあがり、背中に汗が伝う。頭がぼやけてくるがここで弱音を見せると、憲兵たちに何をされるか分からないという不安が身体を突き動かす。
――頑張って、進まなきゃ。
リクが助けてくれるというただの願望に縋り、カレンは動かない足に体重を乗せ、雪を踏み割った。
「疲れたぁぁー」
今晩の寒さをしのぐ雪洞に転がり込んだカレンは体の中の空気をすべて使って情けない声を吐いた。わびしい保存食の食事を終え、少し身支度を整え後は寝るだけだ。カレンは毛皮のゴワゴワに顔を埋めた。
――足が冷たい、足がだるい、食べたりないお腹空いた、顔も洗いたい、お風呂とは言わないけどせめて体くらい拭きたい。あたしだって花も恥じらっちゃう乙女なのよ!
どさっと倒れたカレンの心は立場を弁えず苦情の嵐が吹き荒れていた。だが動こうにも疲れ切ってこのまま寝てしまいたかった。
「つかれたー」
ロッテもカレンを真似、うつ伏せに倒れた。二日目にしてロッテはこの環境に順応したようだ。もっともカレンの苦労あってのことだが。
「……一応、緊張感を持っていただけると、嬉しいんですけども」
外からかかるガスパロの声も元気がない。寝不足と呆れと、色々だろう。
「……はーい」
「はーい」
カレンが元気なく答えればロッテもそれを真似る。外からは珍しくため息が聞こえた。
焚火の爆ぜる音に囲まれ、ロッテは眠りについた。カレンは胸元に収まるようにロッテを抱き寄せる。あどけないその寝顔に不安の色はない。
――どーよ、カレンさんの頑張りは!
その頑張りの代償は、カレンの体にかなりのダメージを蓄積していた。足も腕も筋肉痛で痛み、かなりだるい。実のところあまり体を動かしたくはないのだ。ロッテの為を思い、笑顔の裏で我慢していた。
――いててて、強がっても痛いのは変わらないよね。
カレンはロッテの寝顔を見た。口が半分あき、安心しきっているその顔を。
自分の努力が実を結んだ結果を見て胸の辺りがぎゅっと熱くなったカレンは満足そうに微笑んだ。
「今日も大分無理をしていたようですが」
表からガスパロが声をかけてくる。どことなく声に張りが無いように感じるのは、疲労がたまっているせいもあるのだろう。
彼はニブラから三日かけてリジイラにきて、休むことなく歩き続けているのだ。足場の悪い雪原を延々とだ。
いかに軍人で体力があろうとも疲労は蓄積していく。彼の体力にも限界はあるのだ。
「あなたも大分お疲れのようだけど。少しは寝たら?」
ガスパロも疲れていることが分かると、カレンにも余裕が出てきた。
「ご心配いただけるのは嬉しいですが、これは譲れません」
たき火に照らされるガスパロの影は、何かにもたれかかって体を休めている様にも見える。
「ちょっと、聞きたい事があるんだけど」
「なぁんでぇしょうぅ?」
カレンが声をかけるとガスパロは「ふわぁ」と欠伸をして答えてきた。
――緊張感が無いのはどっちよ。まったく、アイツよりもだらしないじゃない。
カレンですらもあきれる態度だ。聞こえないほど小さいため息をついてカレンは続けた。
「昨晩の話の続きだけど……」
「……っと、何でしたっけ?」
本気なのか演技なのか分からないガスパロのとぼけっぷりにカレンの額がピクリと跳ねる。
「大公閣下が亡くなってるってことよ!」
ガスパロにいいように振り回されているカレンの機嫌は悪い。疲労と合わせて最悪といっていい。
「あぁ、そのことですね」
ガスパロは気怠そうに答えてきた。
「その通りですが、何か問題が?」
ガスパロの答えが、予想の柵を超えて空中で一回転した脱走羊のように感じたカレンは瞬間思考が止まった。二回、目を瞬かせて正気に戻った。
「はぁ?」
「誰かが跡を継ぐだけでしょう。個人的には、誰が統治者であろうがきちんと国を治めてくれさえすれば問題は無いと思ってますが? 何の問題があると?」
余りにも悪びれも悲しみも感じさせないガスパロの口調は、カレンを冷静にさせた。
「人質みたいにロッテちゃんのご両親を監禁してるのに?」
「公太子夫妻が監禁されている事で公国民が被る不利益とは、なんでしょうか?」
質問に質問で返され、カレンは口ごもる。
ロッテの両親が監禁されているという情報のみだが公国は平和だ。小麦が高騰しているが、リジイラにいる限り影響などない。少なくともカレンが生きていく範囲では、なんの影響もなかった。
「国民の殆どは大公閣下など見たことも無いです。どのような人物かなど、我々でもよく知らないんですよ」
焚き火に照らされたガスパロの影は肩をすくめていた。
「知らないって……あんた達が知らないって、どーゆーことよ!」
「我々はただの猟犬です。命令は偉い人から飛んで来るんですよ」
カレンの強い口調にガスパロはものほほんと躱してくる。
「我々の任務はオットー様とシャルロッテ様を無事に公都までお連れする事。何のためなのかなど、聞ける立場にはありません」
「……だって、国が混乱したら連邦の他国が治安維持に駐留してくるって」
「今現在、公国は平和です」
「大公の地位を継ぐためには連邦の承認がいるって!」
「それは、我々には関係のない事です。官僚がうまくやるんでしょう」
「そんな!」
感情を殺したかのように平然と答えてくるガスパロに、カレンは言葉を継げなかった。確かに現在国は乱れておらず、表面上は平穏だ。リクが戦っていた南部の戦争も勝利で終わり、勢いずくだろうことはカレンでも予想はできた。
「新しい大公が悪い奴だという確証も、善政を敷く保証もありませんがね。未来のことなんて誰にも分かりませんよ」
疲れたカレンの頭では、ガスパロの言う言葉に反論ができなかった。そのまま会話は終わり、ただ木の爆ぜる音と橙の光が空間を満たした。
「明日にはニブラに着く予定です。ゆっくり休んでください」
微睡む意識の中、カレンの耳には、そう聞こえた。