第六十話 これ以上振り回すんじゃねえ!
雪は、天の穢れを一身に受け、重みで耐えきれなくなった魂が地上に還されるのだ、とカレンはマーシャから教えてもらった。
薄暗い灰色の雲から降りしきる死の使い。
要は雪の降るしきる日にはリジイラの外に出るな、という事だ。
ロッテを背負い白い息を吐くカレンは、舞い散る粉雪の中、雪原を歩いていた。雪に足を取られ、何度も体を傾けながら、一歩一歩足を前に動かした。
頭は毛皮の帽子で覆われているが顔は剥きだしだ。雪と風が容赦なく吹き付ける。汗をかきそうな体と凍りそうな顔に挟まれたカレンの心は悲鳴を上げていた。
「ロッテちゃん、寒くない?」
「カレンおねーちゃんは、だいじょうぶ?」
「おねーさんは大丈夫よ!」
背中のロッテを心配すれば、逆に案じられる。ロッテは元気だ。
――カレンおねーさんは、大丈夫!
分厚い毛皮の上着の中にある、肩掛けの小さなカバンに包まれたピンクのチューリップを思い、カレンは前を向く。
――大丈夫。
滲むカレンの視界には、白い外套に身を包んだ憲兵が映る。カレンの荷物は憲兵たちの荷物と一緒に、船を改造したソリに置かれていた。そのソリは憲兵が引いており、雪の上に小川を作っていた。
逃げられないよう体一つにし、かつそんな気を起こさせないよう体力も削る。歩く速度も雪原なのに軍人だけあって、早い。女の体のカレンにはかなりの強行軍だった。
「ロッテ様はソリにのせても良いんですよ?」
隣に添い、監視する様にガスパロが歩いている。変わらず呑気そうな笑みを浮かべているが、雪原を行軍する辛さは微塵も感じさせていない所を見ると、きちんと軍人のようだった。
最初、ロッテをそりに乗せ、カレンは歩いてリジイラを出た。だがすぐに怖がるロッテが泣きだしたのだ。
知らない、しかも恐怖を感じさせる軍人に囲まれ不安を訴えるロッテを、カレンは背負うことにした。
「いえ、ロッテちゃんが嫌がりますから」
カレンは強がった。
リジイラを出て二時間。すでに腕は悲鳴をあげていた。足は雪で冷え切り固い。笑顔を繕おうとも口は歪んでいた。
強情なカレンに呆れたのかガスパロはため息をついた。
「全体停止。今より三十分の休憩を行う。第一班はシャルロッテ様の休憩の準備。第二班は警戒だ」
ガスパロが声を張り上げ休憩の命令を飛ばすと、憲兵たちがそれぞれ自分の役目ごとに動き出す。
カレンはロッテを背からロッテをおろした。重さから解放された腕は、軽くはなったもののだるい。体は熱をもって汗をかいているが指先は氷の如しだ。余り感覚がない。
頬に当て少しでも温める。血が通ってきたのかチクチクと痛い。
「おねーちゃん!」
雪に足を掴まれながらロッテがカレンの前に歩いてきた。不安げな瞳で見てくるロッテを見れば、泣き言なんていってはいられない。
「休憩だって。お船に座ろうか」
憲兵たちがソリの上に毛布を敷いていた。ずっと敷いていると雪に埋もれてしまうからだ。
「屋敷からおやつを持ってきたから、食べよっか」
「うん!」
カレンが笑いかければロッテも笑う。カレンの存在がロッテの笑顔を保証していた。
ロッテが船のソリに上がり、毛布の上に座る。カレンは船の舷に腰掛けた。
毛皮の上着の前を開けると、ピンクのチューリップが「ふぅー」といわんばかりに顔をのぞかせる。
「チューリップさんがこんにちはしてる」
なんだか嬉しそうなロッテを見ながら、カレンは別な肩掛け鞄から焼き菓子を取り出した。屋敷を出ていく際にマーシャから渡された物だ。焼き菓子の他に蜂蜜を固めた飴のような物も入っている。
ロッテがぐずるかもしれないことと、寒い時は甘いものがいいからだ。
「はい、これね」
「わーい」
カレンが黄色い焼き菓子を渡せばロッテはすぐにパクリとかぶりつき、もにゅもにゅとほっぺを動かす。ロッテの微笑ましい仕草に、腕のだるさも報われる瞬間だ。
――こいつらにロッテちゃんを任せたらどんな扱いするか分ったもんじゃない。
そりの近くでさりげなく二人を見張っているガスパロを横目でにらみつつ、カレンはロッテのフードに積もった雪を払った。
リジイラに戻ることができないリクはオーツ、アルマダと共にシルヴァ商会の建物の二階に泊まることになった。外方から見た限りでは周囲と変わらぬ簡素な二階建ての建物だったが、内部では隣の建物と繋がっており、三軒分の建物がシルヴァ商会の事務所兼ビオレータの生活の場となっていた。
建物自体鉄を用いて補強をされており、石造りだったヴィンセントの屋敷よりも堅牢であると説明を受けた。
ビオレータの護衛二人が留守番でいないために食事はリクが作り、その他はマッチョな執事バイデンが身の回りの世話をしていた。
夜も更け、街も静かに眠ろうとしている時間でも、リクは落ち着かなかった。カレンの事が心配で眠気が襲ってこないのだ。
宛がわれた部屋の窓辺に立ち、雪が舞い落ちてくる空を、ぼんやりと見ていた。
――こんな事になるんなら、喚いてでも残ればよかったぜ。
リクは悔しさでギリと奥歯を噛みしめる。
リジイラには自警団がいるが本業ではない。オルテガは木こりでしかなく、軍人と戦えば負ける事は確実だ。
――憲兵一個小隊だろうがリジイラを制圧するなんて簡単だ。
ヴィンセントやグラシアナとグラシエラがいても多勢に無勢。しかも相手は戦いのプロだ。それに下手に逆らえば殺されかねない。
命令には忠実。
憲兵はそんな連中だということをリクは良く知っていた。
「カレン……」
胸から去る事がない重しの苦さに腕に筋を浮かべたリクはそう呟く。せめて名前だけでも言葉に出して、少しでも気を紛らわせたかった。
その時、部屋の扉がノックされた。
リクは頭の中で誰が訪ねてくる可能性があるのかを探る。
――アルマダか、まさかのビオレータか。
リクは物言わぬ扉の向こうを睨みつける。
「んな夜中に誰だ?」
やや緊張して声を上ずらせながら、リクは答えた。
「私だ」
声の主はアルマダだった。
「色々と迷惑掛けてすまないな」
リクとアルマダは窓辺に並び、闇に降る雪を眺めていた。横に立つアルマダの顔には隠せない疲れが浮かぶ。
「俺はいいんだ」
リクは静かに降りる雪を見ていた。落ち着いた声とは裏腹に、握られた拳は音をたてていた。
「エリナ様か?」
「ちげぇ。嬢ちゃんにはお似合いの相手がいる」
「ヴィンセント様か……」
部屋はまた静かになる。音もなく降る雪だけが、存在を誇示しているようだ。
公都で別れたアルマダは知らない。リクにも居場所ができたことを。守りたい女性ができたことを。
静か過ぎて耳に甲高い音が流れ込む中、リクは口を開く。
「何が起きてんだよ」
「だたの家督争いだ。たまたま公家と巨大な商家の兄弟喧嘩が重なって事態が酷くなっただけだ」
「……くだらねえ」
リクは眉を寄せた。
――んな事の為に、アイツはあぶねえ目にあってるかもしれねえのか!
荒れる胸に燃料が追加され、リクは目を閉じて肩を震わせた。
「くだらん。まことにくだらん」
吐き捨てるように呟いたアルマダに、リクはカッとなり睨みつけた。
「そんなくだらねえことに振り回されるアイツが!」
何もなければリジイラで今まで通りの、質素だが充実を実感できる生活を送っていただろうカレンを思った。
エリナにくっついて公都に来た時は痩せていて、理不尽な扱いに怒りをぶつけてきた。
ニブラではエリナの為にリクに刃を向けてきた。
リジイラでは子供たちに慕われる先生だった。
人手が足りない屋敷でもこまごまと働いていたはずだ。
リクが邪魔だというだけのくだらない理由で、送るはずだった今までの生活がぶち壊しになった。
「健気に生きてるだけだ。これ以上振り回すんじゃねえ!」
我慢の限界を超えたリクは、アルマダの胸ぐらを掴み釣り上げた。アルマダの冷ややかな瞳が、リクを見上げてくる。
「生意気を言うようになったものだ。女か?」
アルマダの口がニヤリと緩む。
「悪いか!」
「悪くない」
激昂するリクに、アルマダは静かに答えてきた。
「悪くないさ」
釣り上げられつま先も床に触れているだけの体勢でも、アルマダの表情は変わらない。
「そんなに大事な女か?」
「大事だ!」
「なら今度紹介しろ。ただ、その前に手伝え」
にやけていたアルマダがふと真顔になる。リクの頭には嫌な考えが浮かんだ。
アルマダの目的はオーツの保護だ。最悪はロッテを斬り捨てる事も視野に入れているだろう。
いま置かれているの状況下ではその判断は正しい。何が一番優先すべきかを決め遵守することは、目的達成への一番の近道である。リクは軍でそう学んだ。
だがロッテを犠牲にした場合、リクが守るべきカレンはどん底に陥るだろう。リジイラで同じくらいの年齢の子供たちと、常に接しているのだから。
一時の事なのかもしれないが、この後のカレンの人生に置いて影になるのは明白だ。そんな陰など作りたくもないし、付きまとってほしくもない。例え、リク自身が遠くからしか見守れなくとも、だ。
「何する気だ?」
カレンに何らかの危害が加わるような話だったらアルマダをぶん殴るつもりだった。
「攻撃は最大の防御って、知ってるな?」
続くアルマダの言葉は、リクの暴力的な感情を押しとめることに成功した。
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