第五十四話 良い顔だ
朝日が銀に染まり目を襲う。
刺さる寒気に肌をついばまれながら、リクは井戸から水を汲んでいた。目覚まし代わりにと、ガラガラと盛大に音を響かせて。
点在する民家からは白い煙が立ち上り、いつもと変りない一日が始まっていた。
リクの一日の最初の仕事は厨房の水瓶にたんまりと水を入れておくことだ。料理をするにも湯を沸かすにも水は必要だし、そのたびに汲みに行ったのでは効率が悪い。その日に使う分くらいは朝のうちに溜めておくのだ。
もっとも夏場は水もいたむので、何度かに分ける。
「……」
リクは無言で井戸の中に桶を放り込んだ。桶は井戸の壁に当たり、ガランと音をたて水音を響かせた。リクは只無心にロープを引っ張り桶を引き上げる。
滑車式とはいえ何度も水を汲み上げれば身体も火照り汗もかく。はおっていた熊の毛皮の上着を雪の上に放り投げ、下に着ていた白っぽい服も脱ぎ捨て、薄い半袖の肌着のみになった。筋肉に張り付くように肌着が伸ばされ、その表面からはほわりと湯気が漂う。
真っ白な色の世界に褐色の彫刻が現れた。
滑車に引っ掛けてあるロープを握れば二の腕の筋肉が盛り上がる。腕の力だけで井戸の水面から桶を引き上げていく。何も考えないこの作業が、今のリクには心地よかった。
少しでも物思いにふければ昨晩のビオレータとのやり取りが思い出された。
――使い捨ての道具かよ。
感情に振り回され、ロープを引く腕がさらに膨張する。
――使うだけ使って邪魔になったら処分ってか?
リクは湧き上がる怒りの感情を隠せずに、眉間に深く刻まれた皺のまま険しい表情でロープを引ききってしまい滑車に桶をぶつけてしまう。
――ふざけんな。
木のぶつかり合う音と水が飛び散る音が重なり合う中、リクは肩で息をしていた。
「ちょっとリク! それじゃ井戸が壊れちゃうじゃない!」
音に気がついたのか、お仕着せの上に茶色いもふもふの上着をはおったカレンが厨房の入り口から叫んできた。朝の支度で忙しいのか、すぐに厨房の中に消えた。
リクはカレンの声にハッと我に返った。水の入った桶を手にとり大きく頭を振って感情を振り払う。
「頭に血が上ってたか……」
カレンにその思惑は無いだろうが、正気に戻してくれたことに感謝しつつ、リクは頭から水を被った。
凍るような真っ青な空に白い太陽が貼り付いている。
そんな朝の喧騒も過ぎたリジイラの外れの雪原に、リクとビオレータは来ていた。もちろん護衛のグラシアナとグラシエラも少し離れて控えている。
遮るもののない平面をかける風が刺さる様な寒さを与えてくる。ビオレータが日除けに被っているつば広の毛皮の帽子が容赦なく吹き付ける寒風に揺れた。
「ちっ、砂塵よりもタチが悪い」
風に舞い、礫の様に襲い来る粉雪を、リクは手を庇にしながら顔だけをカバーした。雪が降っていないのに熊の毛皮の上着は雪と戯れているようになっていた。
「このくらいの広さがあれば申し分ありません」
遠くの山に向かいなだらかに傾斜している雪原を見ながらビオレータが呟いた。こんな銀世界でも商人の目に変わったビオレータはブレない。
広いのは当然で、雪のない時は小麦を植えていた場所だった。ここに煙草を栽培しようという考えだ。
売れると判ってはいるが大量生産ができるわけでもない現状では広大な土地は必要ない。
「余りに多いと値が下がってしまいます。嗜好品はある程度高級のな方が売れるんです」
「商魂たくましいな」
「フフ、褒めてくださってうれしいですわ」
ビオレータは若い娘の様に、素直に笑った。年齢は二十三だが器量よしもあり、二十前と言っても通用しそうな微笑みだ。
護衛二人から剣呑な気配が漂ってくるが、リクはあえて無視した。嫉妬なのか羨望なのか分らないが、関わり合いたく無いリクは「勘弁してくれ」と胃から苦いものが上がってくるのを我慢するだけだった。
「いつやるんだ?」
「できれば収穫は天気の良い時にやってしまいたいのです。乾燥させる設備はニブラに用意してありますが、そのニブラまでは犬ぞりで行かなければなりません。それも天気次第です」
「確かに、天気しだいだな」
リクは空を仰ぎながらそう答えた。今は雲は一つないが山が近い関係で天気も変わりやすい。
やろうと思えば馬車でもニブラに行く方法はあった。雪ごと土を耕して適当な草を生やし道にすれば馬でも馬車でも走る事くらいはできた。
だが、あえてリクは進言しない。
煙草に関してはリジイラの役に立つからと思えば気も進むが、ビオレータを信用しているわけではない。いつカレンの首を狙うか分らない女の近くにはいたくないのだ。
逆に考えればリクがビオレータを引きつけておけばカレンは無事なことには気がついていない。それはそれで揉めそうではあるが。
「場所も決まりましたし、天気が変わらないうちに戻りましょう」
ビオレータがきゅきゅっと雪を鳴らし、雪原についた足跡を辿って戻って行った。リクはその背中を無言で見つめ、少し遅れて追いかけた。
屋敷に戻りエリナとヴィンセントに用事があるビオレータと別れたリクは、手持ち無沙汰に居間へと足を向けた。そこには窓際に立ち、虚ろな目で外を見つめるオーツの姿があった。
――大公の孫、ねぇ。
じっと外を見つめ動かないオーツの視線の先には、外で小さなスノーマンを作っているカレンとその生徒、そしてはしゃぎまわるロッテの姿があった。
――中に混ざることはできねぇのか。
ビオレータの言うことが本当であれば、将来の大公としての教育を受けているはずだ。そのせいで所謂庶民の輪の中に入っていけないのかもしれない。リクはそう考えた。
リクが孤児ゆえに暖かい家族の中に混ざりにくいのと、立場は違えど似ていた。
――それとも捕まってる親を心配してるのか。俺にはよく分かんねえけどな。
憧れども縁のない生活を送っていたリクには、団欒が何なのか、親とは何なのかがよく分からないのだ。孤児院の先生たちはあくまで育てるだけで親ではない。親代わりだ。
リクにはかけるべき言葉が見つからなかった。ただ靴の音で存在を知らせる事だけはできた。
誰かが部屋に入ってきたことに気が付いたオーツが振り返り、リクを見て一瞬口を開いた。リクの顔に驚いたわけでは無いだろう。
「寒くねえか?」
「え、あ、いや、大丈夫です。暖炉に火も入ってますし」
どこかよそよそしいオーツは寂しげな顔で俯いた。ここに居づらいのか、独りになりたかったのか。七歳の男の子のしても良い顔ではなかった。
「……捕まってる両親が心配か?」
リクの言葉にオーツの顔が跳ね上がる。
「全てを聞かされてるわけじゃねえが、おおよそは、聞いた」
リクを見つめてくるオーツの紫の瞳が揺れている。孤児院にいた男の子の目に、どこか似ていると、リクは思った。
――不安定な証拠だ。
孤児に安定などない事は、身をもって知っていたリクにはよく分かった。
今のオーツも、そうなのだ。
「お前は、どうしたい?」
揺れる紫紺の宝石が大きくなった。
七歳のオーツに聞くリクが間違っている。だがリクも分からないのだ。何をして良いのか。何をすべきなのか。
ビオレータは頼りながらも明らかにリクを利用しようとしていた。彼女の言うとおりにして良いのか判断が付かない。判断するための材料が無いのだ。
リクはその材料を、同じく被害者のオーツに求めた。
オーツは足元を見たり、唇を噛んだり、数回口を開こうとして噤んだ。そして意を決したのか、強く光る紫の瞳を向けてきた。
「あなたが、公国最強だと聞きました。本当ですか?」
「本当だったら、どうする? どうしたい? どうして欲しい?」
「……できますか?」
リクの問い詰める口調にも、オーツは毅然と立ち向かってきた。幼い戦士は真っすぐに見つめてくる。
「良い顔だ」
リクの頬が緩み、口もとが吊り上がった。