第四十九話 風邪ひいちゃ困るだろ
ちょっと長いです。
灰色の雲から押し寄せる寒風が吹き付けるヴェラストラ公国公都。活気を呈する表通りから一つ入った、建物が身を寄せあう脇道を曲がり、陽も届きにくい薄明かりの裏路地を、フードを目深にかぶった一人の人物が背を丸め、影のように滑っていた。
地べたにへたり込むみすぼらしい服装の人間たちの視線には応えず、息を荒げ、一点を見つめ速足で地を蹴る。
時折後ろを振り返り、何かを気にするそぶりを見せた。
「……急がねば」
低く呟くような声を残し、フードの人物は裏路地の影に溶け込んだ。
フード―を被った人物は、とある壊れそうな木造の建物に滑り込んでいた。扉も無く、開け放れた黒い空間を躊躇なく進む。階段を上がり、裏路地からは想像できない複雑な廊下をひた歩き、フードの男は一つの扉の前に立った。壊れそうな建物には似つかわしくない頑丈そうな鉄の扉が据え付けてある。扉の枠も鉄で補強され、使用可能を誇示していた。
その人物は周囲に誰もいないことを確認すると安堵に肩を落とした。扉に身を寄せ、拳を当てリズミカルに数回ノックした。
「かぼちゃが煮えた」
扉に向かい、その人物が囁いた。
「何人分だ?」
「五人分」
鉄の扉の向こうから変えてきた言葉に、フードの人物は返答するように囁いた。
「腹下しは?」
「万端だ」
答え終わって数舜後、錆びついた音をお供に扉は開いた。フードの男は開いた隙間に身体を差し込み、ぬるりと消えた。
フードの人物が潜った先は部屋だった。十人いれば息苦しく感じるほどの空間の中心に置かれた丸いテーブルの上には、蝋燭が五本。テーブルを囲うに置かれた五つの椅子には同じくフードの人物が四人。漆黒の顔を侵入者に向けていた。
「首尾は」
テーブルのフードの人物のどれかから声がした。
「あいつに任せた」
新しく増えたフードの人物は空いていた椅子に腰かけた。そして逆に「公都は?」と声を投げつける。
「変わらん」
「次の炎が出たようだ」
「誰だ」
「孫娘ネイーシャ嬢だ」
「まだ五歳ではないか」
「……一つ手が消えたな」
五つのフードから漏れ出るため息がこの者達の置かれている状況を論じていた。
「王の継承が春に決まった」
「あと数か月か」
「お二人はギリギリで逃せた」
「あの女狐に借りができたな」
「返せなくば斬れば良い」
「優先すべきは……チッ!」
フードの人物たちは音もなく立ち上がり、それぞれが目の前の蝋燭を左手で掴んだ。右手はフードの中に入れられ、出てくるときには刃物を掴んでいた。
五人は刃物をテーブルの上にかざし五つの刃を一つに突き合わせる。
「公国の未来を」
五つの声が重なり、そして扉の向こうから響く突然の叫び声にかき消された。五人は部屋にある頑丈な鉄の扉を無視し、床にある隠し扉に手をかける。力を籠めると軋む音をたて扉が開き、木の板の階段が現れた。闇に隠された階段のその先は見えない。
「生き延びろ!」
誰ともなく声をかけ、フードの人物はその穴に消えていった。床に備え付けられた扉は閉じられ、向こう側からカチャリと音がした。直後に鉄の扉が激しく叩かれ、物騒な声が木霊する。
降り積もった雪が夕暮れ色に染まるリジイラのエリナの屋敷では、二つの子供の声が響いていた。
「お兄さまなんてキライー」
「エリナさんに迷惑かけちゃダメだって。僕と入るんだ」
「エリナおねーちゃんといっしょにお風呂はいるのー! 」
陽も落ち寒さも増す中、ロッテがエリナと風呂の入ると駄々をこね始めた。オーツが自分と入るんだと説得するがロッテは聞かない。
普通ならば侍女とでも入るのだろうが生憎この屋敷には侍女はカレンのみだ。マーシャもいるが侍女というよりはハウスキーパー的に屋敷の維持を担当していた。
ロッテは頑なにエリナと入るんだと主張する。
「お兄さまは洗うのがざつなの!」
「お前が騒いでじっとしてないからだろ」
「せっけんが目に入るのイヤー! エリナおねーちゃんは洗い方もやさしーの!」
居間のソファにちんまりと座ったロッテが足をバタバタさせて癇癪中だ。腕を組んで怒っているオーツとぷりぷりしているロッテを見比べているエリナは困り果てていた。
口には出さないがエリナはこの二人の方が地位的には上だと感じていた。ロッテと一緒に風呂に入るのはいいのだが、その事でオーツがむくれるのも困るのだ。どちらにしろ両方を納得させる案は無い。エリナは決めかねて肩を落とした。
そんなエリナの様子を見ていたヴィンセントが静かにオーツに近寄った。
「オーツ君。ロッテちゃんも寂しいんだ。誰かに甘えたいんだよ」
ヴィンセントは周囲に聞こえない様に顔を寄せて話す。
「それは……」
「大丈夫。エリナは一人っ子でね、妹と一緒に風呂に入った経験は無いんだ。せっかくだし、エリナにもそんな体験をさせてあげて欲しんだ」
素直に受け取れないのか口ごもるオーツに対しヴィンセントが頼み込む。エリナをだしに使ったようだが、実のところロッテが懐いてくっ付いてくることに関してはエリナは嫌がっていない。むしろ率先して一緒にいるようにしており、エリナの嬉しそうな表情がその答えだった。
オーツがハッとした顔で、諭すように優しい笑顔を向けているヴィンセントを見上げた。考えるように黙ったオーツが唇えを噛み、ゆっくり俯いく。
「……わかったよ。そのかわりエリナさんに迷惑をかけない事。これが約束できなければ、ダメだぞ」
「うわーい! エリナおねーちゃん、お風呂いこー!」
オーツが人差し指を立てて「約束」と迫るがロッテは気が付いていないのかエリナにがしっと抱き着いた。そのままエリナを押して部屋を出て行ってしまう。
「言ってる傍から!」
「まぁまぁ」
怒ろうとしたオーツの肩に、宥めるようにヴィンセントの手がのる。
「ロッテちゃんもロッテちゃんなりに我慢してるんだから、これくらいは良いんだ。オーツ君もここまで我慢しなくてもいいんだよ?」
「……ご迷惑をおかけするわけには」
言い淀むオーツにヴィンセントが微笑みかける。
「詳しい話は僕も知らないんだけど、オーツ君はまだ子供なんだ。言えない事情があるんだろうけど、ここでは只の子供でいいから」
「でも……」
「ここは今までの暮らしからすると不便が多いだろうけど、その代り自由があるんだ。今のうちに楽しんでおくといい」
ヴィンセントは優しい眼差しでオーツの頭を撫でた。少し驚いたような顔のオーツが目を丸くしてヴィンセントを見上げるが、ただ微笑んでいるだけだった。
「なーんてことがあったのよ」
「つーか、なんでお前がここにいるんだよ」
屋敷の裏手、浴室の外側で湯を作る為に火の番をしているリクの所にカレンが来ていた。二人並んでかまどの前でしゃがんでいる。
リクは熊の毛皮の上着を着込んで頭には熊の毛の帽子とリクは防寒対策バッチリだが、お仕着せに軽く上着を羽織っただけのカレンは白い息を吐きながらカタカタと震えている。
壁の上の方にある格子の空気口からは浴室側でロッテがきゃーきゃー騒いでいる声が漏れてくる。時折エリナの笑い声も混ざっていた。
「さすがヴィンセント様よね。ご両親のグリード侯爵夫妻から愛情を注がれて育たれているから他者に優しくできるのよね~~」
カレンがウットリとした表情でヴィンセントを褒めちぎっているのを、リクはもやもやと聞いていた。
――どうせ俺には親がいねえよ。
存外に「優しくない」と言われている様だが、カレンがそんな事を思っているわけはないと分っていてもリクはそう考えてしまう。悪態をつきたいところだがぐっと飲み込んだ。
「そんな薄着で来たら風邪ひくぞ?」
リクにいわれたカレンが目の前で「くしゅん」とくしゃみをした。ずずっと鼻を啜ったカレンがぎろっとリクを見てくる。
「あんたが覗きとかしないか監視するためよ」
パンドラ先生から聞いたんだから、と付け加えられ、リクは「うへぇ」と口を曲げた。そそくさと毛皮の上着の前を開き、誤魔化すようにカレンの肩に手をまわし、すっぽりと抱き込んだ。
「……なに?」
「いや、風邪ひいちゃ困るだろ」
カレンからの雪よりも冷たい視線を受けつつもリクはミッションをこなした。黒歴史を知られたとなれば厳正なる話し合いが必要だ。一方的な情報での判断は良くない。
「ふんだ。そんなんじゃ誤魔化されないんだから」
そう言いつつもカレンがもぞもぞと体を預けてくるのを感じ、リクはちょっと安心した。ここで拒絶されると心が折れかねない。
「あーぬくぬく」
カレンが頭をリクの肩に乗せてきてそんなことを言った。枝垂れかかるカレンの柔らかな体の感触と肩にかかる頭の重みがリクの頭をぬくぬくにさせていく。ゴクリと喉が鳴った。
――まてまてまて、ちょっと待てぇ!
優しくないと遠まわしに言われたかもしれない事などすっかり消えたおめでたい頭でも寸での所で踏ん張った。いまが冬でここが表でしっかり雪も積もっている事を思い出し、なんとかカレンの肩を強く抱き寄せる程度で我慢したのだ。
――今のは、かなりやばかった……
カレンとの距離が縮まるのは嬉しいが、その分暴走しかねない自分を抑えるのも大変になった。
――でも、ちょっとくらい、許されるか?
リクがそんな邪な思考をした時だった。
「エリナおねーちゃんのお胸、お母様みたいにちいモゴモゴモゴ……」
壁の向こうからロッテの空気を読まない言葉が舞った。ある重要なキーワードは死守したようだが外にいるふたりには悲しいかな理解できてしまった。
「ロ、ロッテちゃん? これでもね、最近は下着がきつくなって困ってるのよ? 本当よ?」
焦りの色が濃い、叫びともつかないエリナの慟哭が壁の向こうから漏れ出してきた。
リクはカレンのたわわを想像してしまい口を噤み、カレンは手で自分のブツを確認して、黙り込んでしまった。
「まだ成長してるんです! だから大丈夫なんです!」
何とも気まずい空気に二人は無言になった。だがぴったり寄り添った姿勢を崩すわけでもなく、熊の毛側にくるまれた二人は壁の向こうから聞こえてくるエリナの誰に当てているのか不明な弁護を聞いていた。
公都での出来事など、ここリジイラにはまだ届いていない。
降りしきる雪が全てを遮断していた。まだ平和だった。
ボーナスタイムはここまで。