第四十五話 こんなに寒いなんて聞いてねえ
灰色に立ち込める雲の下、北部の山から吹き下ろす風に耐えながら、ユーパンドラとマーシャが並んで道を歩いている。
今日は具合が悪くてエリナの屋敷にある診療所まで来れないお年寄りの所へ回診に出かけているのだ。
「おぉ、雪ですなぁ」
山高帽をかぶったユーパンドラが眼の前を通り過ぎた一粒の雪を見て空を見上げた。灰色の空から小さな白い粉が静かに舞い降りてきていた。
「新年まで数える程ですから。いつもより遅いくらいです」
ユーパンドラの隣にいるマーシャが擦り切れた外套の襟を立てフードをかぶった。
収穫祭から既に一か月が経つ。マーシャの足も完治し、ユーパンドラにくっついて助手をするようになっていた。今日の回診にも道案内を兼ねて同行している。
「もうそんな時期ですか。ここに来てもう二月なんですなぁ」
「時間が経つのは早いですねぇ」
「こんだけ寒ければ、アヤツが風邪をひくのも仕方がないのう」
「リク君は南部育ちで雪を知らないって言ってましたし。これだけ寒い地域にいたことがないんでしょうから体調も崩しますよ」
「バカは風邪をひかないという定説が否定されてしまいましたわい」
「娘と仲の良い男性がバカというのは困りますよぉ」
段々激しくなる雪の中、マーシャがユーパンドラの腕をそっと抱きかかえる。
「足元が滑りやすくなりますから、気を付けてくださいね」
ただ、マーシャが転んだ場合にユーパンドラも巻き添えで転んでしまうだろうことは考慮されていないようだ。
「ほほ、美人さんのエスコート付とは。これは頑張らねばいけませんな」
ユーパンドラは嬉しそうに皺を深くする。
「相変わらずお上手なお口ですねぇ」
二人は寄り添いながら雪の舞い散る冬のリジイラを歩いていった。
そんな本格的な冬の到来にリクは風邪に負け、臥せっていた。
離れで暮らしていたリクは底冷えする冬の寒さに体調を崩し、いまは母屋の二階で寝込んでいる。ベッドを二つくっつけ、通常寝る向きとは九十度回転させて寝ていた。
「……こんなに寒いなんて聞いてねえ」
「冬が寒いのなんて当たり前じゃない」
ベッドに寝転び誰に向かってなのか不明な文句を垂れるリクに、無慈悲なカレンのツッコミが放たれる。そんなカレンがそっとリクの額に手を当てた。
「こんなに熱いんじゃ数日は熱が下がらないわね」
カレンがむぅと口を尖らせ、ため息をついた。
リクが寝込んだのは今朝のことだった。冬を迎え寒い日が続いていたが、昨晩はその中でも特に寒い夜だった。起き上がったリクが頭痛を訴え、ユーパンドラの診察で風邪と判断された。
「食事をつくらねえと……」
「食事はお母さんが作ってくれるし、あたしも手伝うから大丈夫。あんたは大人しく良い子で寝てなさい。パンドラ先生も風邪は寝て治すんじゃって仰ってたじゃない。リクも働きづめだったし、ゆっくり休みなさい」
子供に言い聞かせる様なカレンの言葉を、リクは情けない思いで聞いていた。が、実際に頭痛が酷く体もだるい為に起き上がっても大したこともできない状況ではある。リクがぼやけた頭でにっこり顔のカレンを見つめていると扉がノックされた。
「あのー、入っても大丈夫?」
開きかけの扉から控えめなエリナの声が聞こえてきた。カレンがビクッと肩を揺らし顔を向ける。
「あ、大丈夫ですよ!」
カレンがリクの額からさっと手を引き慌てて立ち上がる。顔もおすまし顔に変身した。
「邪魔しちゃってごめんね~」
ちろっと舌を出しながらエリナが扉の隙間から顔をのぞかせた。その顔はどこかニヤついていて、何かを想定していたかのような顔だ。
「リクさんの具合はどう?」
「体が熱いですね。あと頭痛が酷いみたいです」
エリナがトコトコと歩きながらリクの様態を聞くと、カレンがリクの様態を手短に説明した。
「じゃぁ、おとなしく寝ててくださいね」
「迷惑かけて、悪いな……」
心配そうに顔を窺ってくるエリナに、リクはボソッと答えるのがやっとだ。襲ってくる頭痛が思考をさせてくれない。
「慣れない北部での生活ですし、体調を崩すのは当然です。カレンが懇切丁寧にばっちり看病してくれるはずですから、ちょっとくらいは甘えても良いんですよ?」
「お、お嬢様!」
ニッと意味深な笑みを浮かべるエリナに、ちょっぴり頬を赤く染めたカレンが慌てる。収穫祭の時はベッドに転がされたカレンの蹴りがリクの後頭部に綺麗に決まり事なきを得たが、それ以降の二人はつかず離れずの恋人未満の距離に収まっていた。
二人を進展させたいエリナにとってこの状況は願ってもいないチャンスでもあった。やる気も出るのだ。
「今までカレンが甘やかされた分は返すのが筋じゃない?」
「そ、それなら随分と返してますって!」
「あらそうなの? いつの間に?」
「いや、その……」
ニヤつくエリナにカレンは防戦一方だ。既にリクとキスしてしまっているのは当然のことだが秘密だ。だが、収穫祭でなかなか帰ってこない二人に何かがあったであろうとエリナはあたりを付けていた。収穫祭の直前にぎくしゃくしているように見えた二人が元の言い合う関係に戻ったからである。
エリナとしてはそのまま二人がくっ付いてくれれば色んな意味で助かるのだ。大公への言い訳はどうにか捻り出さなければならない問題ではあるのだが、自分がヴィンセントと一緒になるにはこの課題は乗り越えなければならない。
「変な事して風邪をうつされないようにね。あ、移されてもリクさんが看病してくれるからそっちの方が良いのかな?」
「おおお嬢様ぁ!」
「あら、否定はしないのね」
「いやそのあのですね」
ニコニコ顔のエリナの攻撃をいなせないカレンを援護する事もできず、リクは覚束ない頭でぼんやりと会話を聞いていた。
――あぁ、頭イテエ……
臥せっている現在と回復した後の事を考えると、こう思わざるを得ないリクであった。
「さて、屋敷に戻りますかな」
「帰ったらお昼ですねぇ」
降りしきる雪の中、山高帽に雪をのせたユーパンドラとマーシャが積もり始めた道を踏みしめながら歩き出した。今日の回診はこれで終わりで、あとは屋敷で訪れる患者の相手をすれば良いだけだった。
「本格的な降りになりましたなぁ」
「リジイラでは腰くらいまでは積もりますからねぇ」
「ほほっ、そんなにですか。わしは埋まってしまいそうですな」
「その時はちゃぁんとお助けいたしますから、心配いりませんよ」
行きと同じく腕を組んで歩いている二人の横を、大型の馬車が追い越していく。黒い車体に金の装飾を施した三頭引きの馬車が雪をはね上げて走って行った。
「あら、見掛けない馬……グリード家の馬車です!」
追い越していった馬車の後部に装飾として飾られている紋章を見たマーシャが大きな声をあげた。
「こんな雪の中を何しに……それほどの急用か?」
「恐らく屋敷へ行くんでしょう。先生、急ぎましょう」
走ると転ぶため、二人は手をつなぎながら早足で屋敷へと向かった。
ユーパンドラとマーシャが見た馬車は、エリナの屋敷の玄関前に停まった。体に雪を纏わりつけた御者が飛び降り馬車の扉を開けると、最初に暖かそうな毛皮の外套を纏ったヴィンセントが降りる。そして金髪を七三に分けた細身で軍服を纏った中年、アルマダが続く。
「雪で滑りますので足元に御注意ください」
ヴィンセントが手を差し伸べると、未だ少年という見目の銀髪の男の子がその手を掴み降りてくる。その銀髪の少年は馬車の入り口にたったまま手を伸ばす。その手を静かに取ったのは、銀髪の幼い女の子だ。短い脚でよいしょと一段ずつおりていく。
この銀髪の二人の顔はともに丸顔で紫紺の瞳をしており、よく似ていた。白い毛皮で造られたケープを着た、上品な顔立ちの子供たちだ。アルマダは周囲を警戒するように常に視線を周囲へ向けていた。
「中へどうぞ」
にこやかな笑みを浮かべ、ヴィンセントは玄関を開けた。
「ヴィ、ヴィンセント様!?」
がやがやと何故だか騒がしい玄関を見に来たカレンが階段上で声を裏返した。
「突然訪問して申し訳ありません」
「ごめんね、エリナと話がしたいんだ」
見慣れた軍服のアルマダが深々と頭を下げる横でヴィンセントが眉尻を下げ困った顔をした。
「ええっと、少々お待ちを!」
カレンは踵を返すと「お、お嬢様ー!」と声を張り上げた。