第三十二話 いや、知らねえな
「体調悪いとこごめんね」
すまなそうに眉を下げるカレンについて行くリクの心中は難破船だった。今の状態ではカレンに合わせる顔がないと思いつつも頼まれれば断れない。正直、頼られるのは嬉しい。
カレンという無自覚に押し寄せる荒波の真っただ中で右往左往するリクの心は、川に浮くカモに翻弄される葉っぱの小舟だった。
「で、何をするんだ?」
胸を張り、精一杯虚勢を張ったリクの顔はやはり赤く染まっていた。ただ、朝よりは慣れてきたのか耳は普通だった。
そんな様子をチラチラと気にしている素振りのカレンだが、本当にリクの体調が悪いと思っているようで「無理はしなくていいからさ」と心配してくる。それがまたリクには嬉し恥かし情けなしなのだ。
「ちょっと力仕事を頼みたくてさ……」
すまなそうにはにかむカレンにリクの心臓は限界だった。これ以上薪をくべるなと言いたいが固く閉じた口は物言わぬ。どんなに敵に囲まれても不意を打たれても怖くなかったリクであるが、カレンの次の言葉に恐怖するなどとは考えもしなかった。
そしてこの強敵は表情を伴う。これを防ぐことのできる盾など存在しなかった。リクはマッチョな身体を誇示するも、それは所詮裸であり防具ではない。眩しいカレンの笑顔を防げるものなど、今のリクにはなかった。
「俺にできるんだったら――」
心臓が破裂する前に、頼みごとが終わることを願うリクであった。
カレンに案内されてついた屋敷の玄関前には、大き目の荷車が置いてる。リクが手足を広げて寝そべっても長さ的にも幅的にも余裕の大きさだ。人が座ってブレーキなどを操作する椅子があるところを見ると、恐らく馬にでも繋いで牽いて行くであろう車輪が四つの頑丈そうな荷車だ。
だがそこに馬はいない。ぽつーんと荷車だけあるのだ。
「これ牽けってことか?」
「う、うん、そうなんだけどさ……」
カレンが非常に言いづらそうだ。馬の代わりに牽けと言っているようなもので、要は馬扱いだ。
「明後日から小麦の収穫が始まるんだけど、リジイラ総出でやるんだ。で、女の人も小麦を刈るから昼食が作れなくってさ。いつも屋敷で用意してるんだけど、その時に使う大きな鍋を取りにいきたいの」
カレンが両手を合わせてお願いポーズを向けてくる。リクに断る理由もない。リクも男なので自慢の芸術の様な筋肉でカレンにいいところを見せるなどという下心も無いわけでも無い。
「じゃあそこに案内してくれ」
「やった、ありがとう!」
「ぐっ……」
心配そうな顔から一転して嬉しそうな笑顔に変わるカレンに、リクの心臓が試されていた。
「せいっ!」
リクが地面に足を踏ん張り、荷車の馬に繋げる棒状の部分を牽くと、ゴトリと荷車が動き出す。
「わっ、スゴイ! さすがリク!」
半信半疑だったのかカレンが本気で驚いている。頼んどいてそれはねえだろとリクは思うも惚れた弱みか文句は言えない。
「はっ! こんなもんちょろいもんだ」
俺の心もちょろいもんだと自嘲しつつも、ゆっくりと荷車を牽いて行く。
「あ、ちょっと待って!」
カレンが紺色のお仕着せのスカートのすそを持ち上げ「えいっ!」と荷車に飛び乗った。カレンが言うお淑やかとはどこにあるのだろうか、という行為である。マーシャが見ていたら足の怪我が悪化するかもしれない。
だがリクにはご褒美だった。チラリと覗く白い足に心臓が負けそうで、とりあえず頭の中にアルマダを思い浮かべ、袋叩きにした。最後のアッパーが綺麗に決まり、アルマダが宙に浮いたところでリクの心も穏やかになる。「はぁぁぁぁ」とリクは安堵の息を漏らした。
「ねぇ、ほんとに大丈夫?」
「あぁ、大丈夫にしたから大丈夫だ」
運転席と思しき場所にチョコンと座ったカレンが意味不明なリクの言葉に頭を傾げるが、気を取り直して「しゅっぱーつ」と叫んだ。
「そこの分かれ道を左ね」
「ひひーん」
カレンの指示に従い、リクは荷車を左に向ける。リジイラの整備不良な凸凹道でカレンがポヨンと飛び跳ねた。
「馬代わりにしたのは悪いと思ってるけど、鳴きまねしなくてもいいじゃない」
「感じが出ていいだろうよ」
「かんじわるー」
「ひひーん!」
カレンの顔を見ていなければ何とかなるところまで復旧したリクは、その軽口も取り戻した。背中からカレンの苦情を受けつつも言い返すこのやり取りが楽しい。
「ところで明後日から収穫だっつーことだが、俺も手伝った方が良いんだろ?」
小麦の収穫は重労働だ。中腰で狩り続けなければならない。腰にくるが、ひたすらその姿勢が続くのだ。リジイラも総出でやるとレンツも言っていた。人手は一人でも多い方が良いに決まっている。
「えっと。リクには違うことをお願いしたいのよね~」
「あ? 収穫にまわらなくていいのか?」
意外な答えにリクは振り向きカレンを見る。言いにくそうな顔をするカレンは頬をぽりぽりとかいていた。
「リクにはさ、食事を作って欲しいのよ。お母さんはまだ杖無しで動けないし、あたしは収穫する間の子供たちの面倒見る事になっててさ。あはは、あたし料理へたくそでさぁ~」
総出といっても乳飲み子がいる母親は免除される。ただ子供が四歳を超えると収穫にまわらなければいけない決まりなのだ。子供は四歳から十歳まで収穫作業から外される。皆必死に作業をするので子供をかまう余裕はない。その子供たちの面倒をカレンが見る事になっているのだ。以前はマーシャがやっていた事でもある。
エリナはどうしているかというと、刈り取り作業の指揮を執るのである。どこから刈り取り始めてどこで終わるか。刈り取った後の穂をどこに集積するかなど、その時の状況で判断しなければならないこともある。もちろん計画は立てるがその通りにいくとは限らないのだ。
「あぁ、それなら俺がうってつけだな」
「へへ、でしょ?」
にこっと笑うカレンにリクの心臓が音をあげそうだった。リクは急いで顔の向きを正面に戻す。腕にぐっと力を入れ荷車を牽こうとした時に、一台の馬車が反対側から向かってくるのが見えた。
茶色の車体に細かい白い装飾が施されたお伽噺に出てきそうな高級な感じの馬車で、ここリジイラでは似合いそうもないものだった。
そんな場違いな馬車がゆっくりと近づいてくる。
「あれ、見た事ない馬車ね」
「あからさまに高そうだな」
馬車も高そうだと馬もシャキッと見える。そんなハンサムな馬が二頭で引っ張る馬車がリクの横を通っていく。すれ違う馬車の窓からこっちを窺う女性が見えた。
歳はリクよりは下、亜麻色の髪、ややたれ気味の左目の下にほくろがある、ちょっと色気のある女性だ。すれ違いざまに、にこっとした笑みを浮かべてリクを見てきたのだ。
なんとなく感じる違和感に、リクの背筋にいわれもない悪寒が走った。顔をはっきりと見たわけでは無かったが、ニブラで見たあの怪しい女によく似ていたのだ。
「うわぁ、美人さんだぁ……」
カレンがその女性をぽやーんと見ていたがふいにリクに視線を動かしてくる。
「今の美人さん。リクを見てたけど、知り合い?」
リクは不審に思いながらも、なんとなくジト目になっているカレンに対し「いや、知らねえな」と答えた。確定した事ではないし、カレンに不安の種を蒔くことは無い。ただユーパンドラの言葉がリクの頭に甦ってくる。
――どこぞの商会の人間が、お前を狙っておるとの情報がある。
嫌な予感にリクは眉を顰めるが、そんな顔を見て不安げな表情になるカレンに気が付き「あんな美人にお目通りかなう顔じゃねえだろ?」と言葉をかける。
「そ、そうだよね。リクがあんな美人と知り合ってたら、お嬢様との話も持ち上がって来ないもんね」
無理矢理納得させているのか、やや浮かない顔のカレンを見てリクは奥歯を噛みしめる。
自分のせいでカレンにまで火の粉が飛ぶのは、どうしても避けたい。
そう考えたリクは、屋敷の方に走っていく馬車を睨んだのだった。