第三十一話 重症だ
昨晩見たカレンの姿が頭から離れないリクは、殆ど寝られずに日の出を迎えた。瞼を閉じると、あのカレンの笑顔と歌声が克明に映し出されるのだ。
昼間にオルテガからぶつけられた怒りもによるやるせない気持ちも、カレンをより綺麗に見せたのだろう。
「くそ……ねみぃ」
頭から散らすように拳でこめかみを押さえる。寝っ転がっている床に座り込み、リクは頭を抱えた。カレンの顔をまともに見れる気がしないのだ。
「ったく、いい年こいてガキかよ」
強制的に頭をクリアーにしない限りまともに行動できそうにない。頭から冷たい水をかぶるべく、リクは井戸へと向かった。
赤く染まる稜線を眺めながら、滑車を揺らし水をくみ上げる。水をなみなみとたたえた桶を地面に置き、リクはその桶に頭を突っ込んだ。こんな事をするのは服を濡らさないようにするためだった。
未だにリクは着替えを持っていない。エリナの父の服もあるのだがサイズが合わない。リジイラにはリク程ガタイのいい男がいないために服を貰う事もできないでいた。その為に現在作ってもらっているのだ。
「つめてぇ!」
桶に頭を突っ込んだリクが叫ぶ。頭のおかしい人と思われてしまいそうな光景だが、当人はいたって真剣だ。この状態でカレンと顔を合わせる事など不可能だ。昨晩の姿を思い浮かべて魅入ってしまうに違いない。
それでカレンに拒絶されたらリクも居辛くなってしまう。そう考えると胸の奥が軋むが、それすらも冷たい水に溶かさなければならない。いずれここを去るのだから。
勢いよく桶から頭を引き抜き、水を飛ばすために左右に振る。短かった髪も少し伸びてきたが、髪の隙間に秋風が入り込み急速に冷却していく。熱が奪われると同時に頭の中のカレンも薄くなっていった。
「はぁ、ようやくすっきりしたぜ」
頭の中にあるもやもやを溶かし込んだ水が頬を伝い地面へと吸い込まれていく。水滴と共にリクの頭の中の映像が土に還っていった。
ふぅと安堵に肩を落とした瞬間、リクの後ろから声がかかる。
「あんた、朝っぱらからなにやってんのよ」
その声に頭の中に再びカレンの笑顔がよみがえる。せっかく追い出せたと思ったが振出しに戻ってしまったリクは地面に手を突き、がっくりと肩を落とした。
「なに落ち込んでるふりしてんのよ」
「あぁ、ちょっとな」
冷えたはずの顔が暖かくなってきているリクは顔を上げられずに土を見ていた。ともかく早く行ってくれと願うリクの期待を裏切るようにカレンの声が続く。
「どうせ悪いもんでも食べたんでしょ」
カレンの思考は食べ物寄りだ。見なくてもそんなカレンの不機嫌な顔が浮かんでしまう頭に、リクは「重症だ」と呟いた。
本当に重傷で重症だ。
「大丈夫? パンドラ先生に診てもらう?」
「いや、大丈夫だ、問題ねぇ」
カレンの声色が心配するような感じになった。顔どころか耳まで熱い。ちょっとしたピンチだが今顔を上げる事はできそうもない。絶対に見せられない顔になっているからだ。
「リク、ホントに大丈夫なの?」
リクの肩にそっとカレンの手が触れた。伝わる柔らかい手の感触と温もりにリクの体が燃え盛るほど熱くなる。
「うわぁぁぁ!」
いつぞやとは逆に、リジイラに朝を告げるリクの絶叫が響き渡ったのだった。
リクがいるのは屋敷の一階のユーパンドラが診療所として使っている応接室だ。そこでリクはユーパンドラの前に座らされていた。
「あの、どうでしょう?」
リクの背後にいるエリナが心配そうな声をあげる。朝食時も顔を赤くしたままのリクは、エリナのお願いでユーパンドラの診察を受ける事になってしまったのだ。リクは既にこの屋敷には欠かせない人間となっているため、エリナが心配するのは尤もな事だ。
ユーパンドラがリクの顔をじろじろと見ているが、現在のリクの顔色は普通で、相変わらずの筋張った強面だ。
「ふむ、何とも無いようじゃが……」
そう言うユーパンドラの目がきらりと光った。ユーパンドラが不意に視線をリクの後方にやり「お、カレンちゃんどうした?」と声を上げた。
脊髄反応のようにリクの心臓が駆け足になり顔が熱くなる。だが顔を向けるとエリナにバレるから石像のように動けない。振り向きたいけど振り向きたくないリクの心の葛藤は歯ぎしりとなってあらわれていた。
「なんじゃ見間違いか」
抜けた声のユーパンドラの訂正にリクの肩の力もストンと抜けた。
「あー、エリナ嬢ちゃん。問題はなさそうじゃ。ちょいとコイツと話をするから、ちょっぴり借りるぞい」
「あ、分りました。なんでもなくて良かったです」
エリナがにこっと微笑んで部屋を出て行った。エリナが出て行った直後、ユーパンドラがクックックと含み笑いを始め、そして堪え切れなくなったのか腹を押さえ小刻みに震え始める。
「っぷっははは!」
ユーパンドラが吹き出すように爆笑した。何に爆笑しているのか分っているリクのこめかみにはビシッっと青筋が走る。
「ジジイ、てめぇ!」
「くくく、これじゃわしでは治せんなぁ。わははは!」
バシバシと膝を叩いて笑うユーパンドラにリクは拳を握り締めて無言の抗議するが、そんな物が通じる相手ではない。知られてしまった恥ずかしさと自覚が正しかった事で顔は赤いままだ。おまけに頭にはカレンの笑顔がはりついて離れない。
「笑ってんじゃねえ!」
「ひーいっひっひー、これが笑わずにいられるか! うひゃひゃひゃ!」
皺だらけの顔をさらに皺くちゃにし、ユーパンドラは笑い転げる。年寄り相手では肉体言語を使っての話し合いもできず、心臓の全力疾走が収まるまでユーパンドラに笑われ続けたのだった。
「ひー、こんなに笑ったのは何年ぶりかのう」
笑いすぎで腹筋を痛めたユーパンドラが腹を押さえている。羞恥心と苛立ちでリクの顔はまだ赤い。
「爺さん笑いすぎだろよ」
「くくく、お前も人間だってことじゃの」
「けっ。元から人間だっつーの」
「解剖する楽しみが減ったではないか」
「まだ諦めてねえのかよ!」
リクは悪態をつくが赤い顔では迫力に欠ける。そのままふいっと顔を背けた。
「はは、まあいいではないか。その感情は普通の人間がもっている感情じゃ。お前はもう戦場へ行くこともなかろ。いっその事カレンちゃんを口説いてみればいいじゃろが」
そんなことを事も無げに言うユーパンドラにリクは「できるかよ」と口を曲げる。
「俺が原因で拗れちまってんだ。いなくなんなきゃいけねえ俺がそんなことできるわけねえだろ」
「そうは言うがのう、考えてみろ。今回の騒動はお前の血筋を残すことが目的じゃ。管理しやすいと言うのは最優先ではないぞ」
憤るリクにユーパンドラはゆっくりと語り掛ける。
「要はお前の子供がいればいいんじゃ」
「んな事が簡単にできりゃ苦労はしねえよ。俺の顔を見ての言葉か?」
「カレンちゃんは怖がってはおらんようじゃし、お前の顔は醜悪なわけではなかろうが」
「は、どうだか」
リクは腕を組んで横を向いた。リクの顔は強面ではあるが醜悪ではない。ただ一般的には同意味でつかわれてしまうこともある。口説いてみろなどと言われても、はいよろこんで、とは言えない。
それにオルテガの様にカレンを狙っている男はリジイラにはそれなりにいるはずだ。器量よしでお淑やかであれば引く手あまただろう。
「大体だな、俺がここに残ってたら嬢ちゃんに迷惑が掛かる。何かしらの罰も来るだろうよ。そんなんで良いのか?」
リクの気にしているのはこれだ。リクが正当な理由なくしてエリナ以外との婚姻関係を持った場合の事を考えると、自ずから身を引き消える事こそが一番であると思うしかないのだ。
「なんか手はあるじゃろ」
「俺がいなくなる以外の手は思いつかねえ」
「お前の頭じゃのぅ……」
「そーゆー爺さんにはあんのかよ」
「うむ、解剖させてくれれば、教えてやらんこともない」
「解剖から離れろ。俺が死ぬ」
「死んで消えるくらいならわしに解剖させろ」
「この変態が!」
「褒められると照れるのぅ」
「褒めてねぇ!」
リクとユーパンドラの不毛なやり取りが続く中、コンコンと扉がノックされる。二人はピタッと動きを止め扉を凝視した。
「あのー、リクはいますか?」
扉の向こうからはカレンの控えめな声が聞こえてきた。途端にリクの心臓が跳ね上がる。
「あ、い、いるぞ」
リクが挙動不審過ぎてユーパンドラが口を押さえ必死に笑いを堪えている中、扉がちょっとだけ空いてカレンがひょこっと顔を覗かる。きょろきょろと視線だけでリクを探し、ピッと見つめてきた。
「あのさー、ちょっと手伝って欲しいんだけど」
遠慮がちに、かつ伏せ目がちにお願いしてくるカレンの右ストレートにノックアウトされたリクは耳まで真っ赤に染め、コクンと頷く事しか出できなかった。