第二十九話 どう料理してやろうか
なだらかな丘を登る道を、オルテガを先頭にガイア、マッシュが続き、リクはその後を歩いていた。リクはリジイラの地図がまだ完全には頭に入っていない上に、牛が逃げたのは山の方角と推測されたからだ。
一行はなだらかな丘の上に到達した。眼の前には大木と呼べる幹の木々が威厳をもって立ちはだかっている。雑草に隠れて見えずらくなっているが、そこかしこに切株があり、ここが開拓の最前線なんだと無言で教えてくれる。立ちはだかる木々は、いずれ倒さねばらない存在なのだ。
「この先から森だ。いつもだとこの辺で牛はうろうろしてるんだが」
オルテガ達三人はあたりを見渡すが牛の姿は見えない。リクは地面に生えている草を見、それが牛の好む草であることを確認した。
「モー」
微かだが牛の声が耳に入る。リク達四人がその方角に顔を向けると、遠くの方から牛と思われる白黒の物体がこちらに向かってくるのが目に入る。
「おい、後ろ!」
寡黙なマッシュが吠えた。牛の後ろから薄茶色の熊が追っかけていたのだ。しかも三頭もいた。
「ヤバイな。こっちに向かってる」
オルテガが背負っていた盾を左手に持った。熊の走る速さは人間の比ではない。もし熊においかけられたらあっという間に捕まってその鋭い爪でザクリとやられてしまうだろう。リジイラで森の犠牲になる原因は大抵が熊と狼だ。特に冬ごもり前の熊は危険だった。その熊がこちらに猛然と走ってくるのだ。今は遠くに見えてもすぐにこっちに来るだろう。
「一頭ならまだしも熊三頭は無理だ。俺達も逃げた方が良い」
「牛より人間」
ガイアとマッシュは撤退を提案する。これも当然の選択だ。熊一頭ならば三人がかりで仕留める事はできる。だが見えているのは三頭だ。エリザベスやマーガレットを犠牲にしても、まずは自分たちが生き残る事を優先するべきだった。気の毒だが、牛は買う事ができても人間はそうもいかないのだ。
「くっ。ぼやぼやしてると俺達に気がつくな」
オルテガも焦っているのか声が上ずっていた。
この森の熊は人の味を知っている。年に何人かは犠牲になるのだ。それと人の味を知った熊は人を恐れない。餌と認識しているからだ。その事もオルテガを焦らせている原因だ。
だがリクは落ち着いていた。前線にいた頃は森での活動もあり熊や狼などと遭遇することも少なくない。数人でしか行動しない兵士は単独の熊などには負けない。狼の群れだった場合は仲間を呼び、応援が来るまでは無理をせず防御に専念していた。弓で射れば狼も簡単に逃げ出したのだ。
「牛を諦めるのはもったいねえな」
「なに言ってんだ!」
リクの呟きにオルテガが立ちはだかり怒鳴る。自然の厳しさを知らぬよそ者に何がわかると怒りをぶつけてくるのだ。リクに良い感情を持っていないものあるだろうが。
「俺が何とかするから牛をレンツに引き渡してくれよ」
表情を変えずにリクは言い捨てた。「何だと!」とオルテガがリクの胸ぐらをつかむ。
「なんだよ。俺が熊に食われて死んだ方が都合が良いだろう?」
「てめえ!」
ギリギリと音を立て、褐色の筋肉と髭の筋肉が睨みあう。
実の所、オルテガはカレンから武器も持たずに出てしまったリクの身の安全も頼まれていたのだ。
――あいつ、何にも持たないで行っちゃったのよ。まー大丈夫だとは思うけどさ、危なくなったら助けてやってくれない?
カレンから軽い感じで頼まれたのだが、それすらもオルテガは気に入らなかった。リジイラでずっと一緒だったオルテガよりも、全く知らないはずなのにカレンと親しげにやり取りをしていたリクが。心配しながらも信頼をしている事を、見せつけられてしまった事が。
ここで熊の餌にした方が領主であるエリナの為には良い事だというのは分かる。が同時にそれはカレンが悲しむことでもある、というもの分ってしまった。
むざむざ命を捨てに行こうとするリクが、オルテガにはどうしても許せないのだ。
「まて、時間、無い」
睨みあうリクとオルテガの間にマッシュが体を滑り込ませ、オルテガをリクから引きはがした。
「オルテガ、まず逃げる」
マッシュが肩を掴みオルテガを説得している脇を、リクは涼しい顔で逃げてくる牛に向かい歩き出した。
「あ、てめえ!」
「オルテガ!」
オルテガがリクを止めようともがくが、ガイアにがっちりと掴まれてしまい阻まれてしまう。オルテガが制止する声を無視してリクは歩く。
「さて、どう料理してやろうか」
リクは熊などに負けるはずがないと思っている。もちろんその能力があるからだ。なければオルテガの言う通り逃げの一手だったろう。不幸しか運んでこない能力だが使えるならば使うべきだ。リクはそう考えている。
深緑の軍服の袖を捲り、右の拳を左の掌に打ち付けた。
「まずは牛を助けねえとな」
牛も必死に逃げているが追いすがる熊との距離は縮む一方だった。人よりも速く走る事が出来る牛だが、熊よりは早く走れないから当然なのだが。
「そらよ」
パチンと指を鳴らすと、逃げる牛の真後ろの地面からバキバキと音を轟かせ、勢いよく木が立ち上がる。芽が生えて茎が伸びて、などど悠長な物ではなく、成長した木がそのまま地面から生えたのだ。
その大木と言える木が熊の視界から牛を隠すように十本立ちふさがった。牛はその音に驚きつつも本能が逃げろと告げているのか、ひた走っている。牛がリクの横を通り過ぎ、オルテガがいる辺りに辿り着いた所で邪魔をしていた大木がドンと激しく揺れた。折角の食事にありつけるところを邪魔をされた熊が腹いせに殴ったのだ。
だが熊も三頭いる。その内の一頭が十本生えた大木の脇を通れる事を見つけてしまった。「ガフ」っと自慢げな声をあげ、のそっと歩き出す。
「さて頃合いだ」
のそりと動き出した熊の足元の地面から土煙が上がり、見る間に熊を包み込む。その土煙は横にいた熊も飲み込んだ瞬間、色を夕焼けの色に変えた。赤銅の煙は形容しがたい獣の咆哮を封じ込め、音もなく地面へと降りていく。
赤銅色の煙が晴れ視界がクリアーになった時、熊が三頭いたはずの場所はふわふわに耕された地面が顔を覗かせていた。熊三頭はどこかに消えていた。
「ご苦労さん」
リクが何かを労る言葉を告げると、熊を邪魔していた十本の大木がメキメキと音を立てて順番に根元から倒れ、ドドーンと地面を揺るがし地に伏せた。
オルテガ達は突っ込んできた牛をどうにかこうにか抑え込み、必死に宥める作業に没頭してリクが何をしていたかを見てはいなかった。だがものすごい音で木が倒れたのは見たのだ。
「てめぇ、今、何をした!」
牛の首根っこを力で抑えているオルテガが吼えた。木などなかった所で木が倒れたのだ。しかも行儀よく十本の大木が整列して。通常ではありえない状況に困惑するのは当たり前だ。そしてその原因と思われる人物が眼の前にいるのだ。
それも領主の婿としてヴィンセントを押しのけ、カレンにも気にされている、オルテガが今一番気にらない相手だ。吼えるのも仕方がない。
「あぁ、冬用の薪の材料にと思ってな。あの量なら結構な薪になるだろ」
オルテガの気など知ったことではないリクは呑気に答えた。その態度にオルテガが歯ぎしりをする
「あそこには何もなかったろうが!」
「あぁ、そうだったな」
リクはオルテガに振り返る。その瞬間に地に伏せた大木が茶色の煙に包まれた。一瞬で煙が晴れ、そこにあるべき大木の姿が消え去り、後には土がむき出しの地面があるだけだった。
「な……」
「何も、ねえだろ?」
信じられない光景に言葉を無くすオルテガの背中に向け、リクはニヤリと笑った。